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「VIVANT」や「不適切にもほどがある!」などの作中の料理を多数担当…就職氷河期時代になった公務員を辞め「ドラマの料理」を作る職業を選んだ彼女の人生

2025-01-14 | アイヌ民族関連

 

東洋経済 1/14(火) 6:02

 東京・代官山にあるマンションのダイニングには、料理教室のような調理スペースが設けられていた。ステンレスの調理台が2台あり、その上には両手鍋に入った豚汁が置かれている。壁際には家庭用の冷蔵庫が3台も並び、2人のスタッフが調理スペースを動き回っていた。

【画像多数】「不適切にもほどがある!」に登場したナポリタン、「VIVANT」の赤飯などフードコーディネーターはらゆうこさんが作った料理の数々はこんな感じ

 ここで行われているのはドラマや映画の撮影で使用する食べ物の調理だ。

 「ほとんどの台本に料理のレシピどころか詳細も書かれていないんですよね。助監督さんから『朝食や夕食を家族分』と指示を受けて調理を進めることもあれば、メニュー名をいただいて試作を繰り返しながら詳細を詰めることもあります」

 朗らかな笑顔で話すはらゆうこさんは、ドラマや映画の世界で引っ張りだこのフードコーディネーターだ。

 2024年の新語・流行語大賞を受賞した「不適切にもほどがある!」、累計2900万部の発行部数を誇る人気漫画を原作とした映画『ゴールデンカムイ』、2023年にSNSで話題を集めた日曜洋画劇場「VIVANT」などの食のシーンに携わっている。これまでに関わったドラマや映画の数は500本以上にも及ぶ。

■フードコーディネーターに求められる役割

 映画やドラマに関わるフードコーディネーターというと、クリエイティブな仕事のイメージが浮かぶ。自分のアイデアを提案し、実現する機会が多いのだろうか。

 「どちらかと言えば、要望を受けて、課題を解決する仕事です。例えば、シズル感を演出するために料理の湯気を求められた場合、どうすればカメラに湯気をとらえてもらえるかスタッフと相談し、料理を出しています。『この役は料理が得意ではないからもっと盛りつけを崩して』と監督から指示を受けたときには、どのような人物か考えてその場で盛りつけを調整しました」

 はらさんのキャリアのスタートはドラマや映画とは接点のない地方公務員だった。地元である埼玉県北部で8年間働き、フードコーディネーターになるために赤堀料理学園に入学。卒業後に、学園の校長を務めている赤堀博美さんのアシスタントとして30歳で修業を積み始めた。

【写真多数】「不適切にもほどがある!」のほか、「VIVANT」の赤飯、映画『ゴールデンカムイ』の料理など、フードコーディネーターはらゆうこさんが作った料理の数々はこんな感じ

 赤堀さんはドラマや映画の食のシーンに精通したフードコーディネーターだ。2024年にはNHKの朝ドラ「虎に翼」の料理監修を務めている。映像作品に強い師匠との出会いにより、はらさんはドラマや映画の現場におけるフードコーディネーターの役割や立ち回りを学んだ。

 「もともとドラマには詳しくありませんでした。赤堀先生のアシスタントとして撮影の現場で経験を積んだおかげで、ドラマや映画に呼んでいただけるようになったんです」

 フリーランスとして独立したのは34歳。はらさんはなぜ30歳でフードコーディネーターの道へ進んだのだろうか。その軌跡をたどる。

■学生のときから料理に携わる仕事を志望していたが…

 はらさんは小学生の頃に料理を始めた。好き嫌いの激しい弟にメインのおかずを作ると「おいしい!」と言われ、父からも褒められた。

 高校を卒業する頃には調理系の専門学校への進学を志望したが、父に相談すると反対されたという。

 「料理人を目指す人は小さい頃から修業を重ねている。今から学校へ通っても遅い。もし本気で料理人を目指すなら料亭で修業するか、海外に行くかだ。その覚悟があるか」

 「そこまでの覚悟は持っていないな」と考えを改めたはらさんは目白学園女子短期大学へ進学。ここで食の仕事の幅広さを知った。

 「大学では食品業界の大手メーカーのメニュー開発の担当者、料理研究家の先生の講義がありました。料理人以外に食の仕事があると知ったんです。この時に料理に携わる仕事がしたいと思いました」

 しかし、就職活動が始まると、その想いは砕かれる。大学の就職課に尋ねると「うちのような大学にそんな条件のいい求人はありません」と断られ、企業の料理に関する専門職への応募はできなかった。

 肩を落としたはらさんは家庭科の教員採用試験の受験に挑む。ただ、当時は就職氷河期であり、少数の採用枠に200人近くが集まっていた。競争は激しく、筆記試験を突破できなかった。

 試験に落ち続けた末にたどり着いたのは地元の教育系の臨時職員だった。その2年後に町役場の採用試験を受けて合格。22歳で公務員としてのスタートを切った。

■30歳までに公務員を辞めると決意

 はらさんが自身のキャリアについて再び考えたのは20代の中盤に差しかかった頃だった。そのきっかけは住民課への異動。さまざまな住民から寄せられるクレームを大量に受け続けた。そんな日々を送っていると発疹が浮かんだ。「皮膚病かな?」と思い病院に行くと、帯状疱疹の診断が下り、自宅で1カ月療養することになった。

 「クレームを自分宛に届いたものとして捉えていたのですが、すべてを受けとめると潰れるんだなと思いました。クレームを受けているのは自分ではなく役所だと気持ちを切り替えました。ただ、『この仕事って私じゃなくても成り立つんだ……』とやりきれなさを感じるようになってしまって。いち社会人として認められる仕事がしたい。30歳までには別の道に進もうと考えました」

 しかし、安定した公務員を辞める踏ん切りはつけられない。休日に図書館で料理本を読みながらストレスを解消し、約3年の間仕事を続けた。

 大きな転機が訪れたのは29歳の時だった。

 「職場の年上の後輩が突然亡くなりました。その子はストレスも抱えていて、『好きなことをやりたい』とずっと言っていたんですよね。人間は好きなことをやらないといけないのだと思いました」

 はらさんは食の道へ進むために、フードコーディネーターを養成する料理学校への入学を決意した。数校のパンフレットを取り寄せて説明会を回り、その中でも魅力を感じたのが、日本最古の料理学校という赤堀料理学園だった。

 「赤堀料理学園が1番厳しそうな学校だったんです。説明会で赤堀博美先生が『うちの学校ではフード業界で生きていける人たちを厳しく育てます』とおっしゃっていたんです。地に足がついていて、いいなと感じました」

 土曜日の休暇を利用して料理学校へ半年通い、無事に卒業。両親に内緒で役場の人事課に退職届を提出し、新しい道へと進んだ。

 この時期に最初の結婚を果たし、東京へ引っ越しも行い、赤堀料理学園の校長を務める赤堀博美さんのアシスタントとして働き始める。収入は公務員時代の約3分の1へと減少。それでもフードコーディネーターになるための1歩目を踏み出すのに躊躇はなかった。

■多忙だったアシスタント時代

 アシスタントの仕事は多忙を極めた。学校に通っていたときにアシスタントは3人いたが、働き始めるとその人たちは独立しており、専属のアシスタントが自分一人になっていた。ドラマの撮影から授業の準備まで、アシスタントの仕事をはらさん1人で担う日々が始まった。

 「先生はドラマや映画でも活躍されていますが、学校の経営者でもあります。学校には2つのスタジオがあって、そこでも撮影がガシガシ入ります。全ての買い出しと仕込み、撮影の段取りをしていました」

 家に戻るのは週に1~2回のみ。「先生に認められるまで辞めない」と決めていたため、激務をこなし続ける。しかし、3年が経った頃にその生活は終わりを告げる。

 きっかけは当時の夫の言葉だった。「頑張りたいのはわかるけど、生活の限界を超えている。あなたの人生に関わっている人はたくさんいるんだよ」と告げられて、自身の生活を見直した。

 「やりたいことを続けるか家族の時間を取るかすごく悩みました。ただ、当時の夫の言葉がすごく重くて。とりあえず家庭に入りました」

 アシスタントを辞めたはらさんは、イタリアンのカフェでアルバイトをしながら主婦生活を送る。

■フードコーディネーターへの道が開けた

 フードコーディネーターへの道は絶たれたかと思われたが、半年ほど経ったある日、急に道が開ける。アシスタント時代に知り合った美術スタッフから「仕事を頼みたい」という連絡があり、とんとん拍子に仕事を受注した。

 「赤堀先生のアシスタントは辞めたと事情を伝えたのですが……。『単発の仕事だし、これまでと同じようにやってくれればいいよ』と言われたんです。それで仕事を請け負いました」

 当日、師匠のいない現場に不安を覚えながらも、家庭の食卓に並ぶ料理を作り、撮影は完了。テレビで自分のクレジットを見た時に「ああ、私でもいいんだ……!」と喜びを感じた。

 1つの現場に呼ばれるたびに「また仕事をください」と現場のスタッフにお願いをすると、徐々に声をかけられる機会が増える。フリーランスを始めた半年後にはアルバイトを辞め、さらに1年が経った35歳で株式会社Vitaを設立した。

 そして、夫とは数年にわたる協議の末に離婚。さらにフードコーディネーターの仕事に没頭した。

■コロナ禍を経て仕事が急増

 はらさんの仕事は、コロナ禍を経て一気に増えた。感染防止の観点から食の現場管理をフードコーディネーターに任せるようになったためだ。料理の提供だけでなく、料理に関する安全を確保する役割が求められるようになった。

 コロナ前と比較してドラマの仕事量は2倍以上に増加。2024年は24本のドラマと3本の映画に携わっている。

 最近では作品の世界観に合った料理を求められることも多いという。たしかに、はらさんが携わったドラマや映画の中には印象的なグルメシーンが含まれる作品もある。

 現代と昭和を行き来するドラマ「不適切にもほどがある!」では、昭和の世界を表現する1つの象徴として喫茶店のナポリタンが使用されていた。明治時代末期の北海道を舞台にした映画『ゴールデンカムイ』では原作でも評判の高いアイヌ料理がシズル感を伴い再現されている。

 ここまで仕事のオファーが舞い込む理由はどこにあるのだろうか。尋ねてみると「どうなんでしょう……」と考えながら言葉を続けた。

 「フードコーディネーターには料理以外のスキルも求められるんですよね。現場を把握して、相手が求めていることを察知するコミュニケーション能力を公務員と下積みの期間で身につけられたのが大きいです。あと、私自身、要望に応えることが好きなんですよ。性格に合っていると思います」

■子どもを連れて働ける職場に

 子どもの頃から好きだった料理は仕事になった。再婚を果たし、出産の経験を経て、新しい目標も見つかった。それは子どもを持つスタッフが働き続けられる環境を作ることだ。

 「娘が産まれてすぐの頃、おんぶして現場に行ったんです。仕事をしている間、プロデューサーさん、メイクさん、女優さんが娘を見てくれたんですよ。子どもが産まれたらこれまでのように仕事は続けられないと思っていましたが、やり方次第で何とかなるかもしれないと考えたんです。うちの事務所も同じようにしたいなと思っていて。このマンションにもう1室事務所があるのですが、子どもを連れてきて働けるようにしています。今日もスタッフが3時間子どもを連れてきて事務作業をしていました」

 好きなことで働ける世界を目指して。はらさんは職人と経営者の両方を行き来しながら料理と職場を作り続けている。

中 たんぺい :フリーライター

https://news.yahoo.co.jp/articles/b60e0cd06cd724b06ee0eb07ef9508d7d8935da6

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