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神奈川県愛川町のペルー料理が愛される深い事情 県内で最も「外国籍住民の割合」が高い自治体

2025-01-08 | 先住民族関連

東洋経済オンライン / 2025年1月7日 9時30分

神奈川県愛川町のペルー料理レストラン「TIKI(ティキ)」(編集部撮影)

「スタミナ」の4文字を感じさせる料理は、食べる側から無駄な思考を奪う。躊躇や懐疑を与えない。圧倒的な熱量とボリュームで、戦意を引き出す。

【写真】南米・ペルーの代表的な家庭料理「ロモ・サルタード」

「ロモ・サルタード」は、そうした意味において、実に"好戦的"な料理といえよう。テーブルにどんっ!と置かれた瞬間に、心が弾む。食欲が一気に猛り立つ。思わず前のめりになる。

全国各地からペルー料理ファンが押しかける

南米・ペルーの代表的な家庭料理である。スペイン語で「ロモ」は牛肉、「サルタード」は炒めるの意。その名の通り、皿の上には炒めた牛肉、玉ねぎ、トマト、フライドポテトなどが絡み合って積み上げられ、その横には小山のように盛られたライスと、卵のサラダが添えられる。

ペルー版の肉野菜炒め定食。見た目の"勢い"は裏切らない。スパイスの効いた濃い味付けが、ライスの山をあっという間に崩していく。何も考えられない。もろもろの悩みも消える南米の味。

【写真】店主の内間安彦さん、父親のファンルイスさん、TIKIがある通り、旧日本軍の飛行場「正門」、飛行場の排水に使われた「排水路橋」、店内、牛肉のパクチー煮込み、唐辛子ソース

これを求めて、昼時には在日ペルー人はもとより、全国各地から日本人のペルー料理ファンまで押しかけるのは、神奈川県愛川町のレストラン「TIKI(ティキ)」だ。

移民国家ペルーならではの、多民族融合の味

「ロモ・サルタード」をしっかり胃に収めてから、店主の内間安彦さん(37歳)に聞いた。

━━スパイスが絶妙です。何を使っているのですか?

意外な答えが返ってきた。

「ベースとなるのは醤油です」

実はこの料理、19世紀後半にペルーに移住した中国系移民が考案したものなのだそう。

「いま、ペルー料理と呼ばれているものは、その多くが、さまざまな国から来た移民によってアレンジされています」

先住民族の料理に、ヨーロッパ、中国、そして日本から渡った移民が手を加え、独特の進化を遂げた。移民国家ペルーならではの、多民族融合の味なのだ。

だから、と内間さんが続ける。

「おいしくないわけがないんです。さまざまな国の料理の"いいとこ取り"こそがペルー料理の特徴なのですから」

口の中で多文化が溶け合う。混ざり合う。「ロモ・サルタード」の濃厚な甘辛さは、厳しい労働を耐え抜いた者たちにとって必要な味付けだった。移民の歩んできた道のりが反映された料理なのである。

レストラン「TIKI」の創業者は、内間さんの父親、内間ファンルイスさん(62歳)だ。

ファンルイスさんは、ペルーの首都リマで生まれた沖縄ルーツの日系2世だ。

沖縄とペルーの結びつきは深い。1906年に36名の沖縄出身者が移民船「厳島丸」でペルーに渡って以来、1万人を超える人々が同地への移民となった。いまでもペルー在住日系人の約7割が沖縄ルーツだと言われる。

ファンルイスさんは25歳のとき、父親とは逆コースをたどり、今度はペルーからの移民として渡日した。後に南米でもそのまま通じることとなる「デカセギ」である。当時、ペルー経済は深刻な不況に見舞われていた。

全国でも有数の外国籍住民集住地域

最初は自身のルーツがある沖縄で建設業に従事する。その後、神奈川県の愛川町に移って工場労働者となった。

ここが重要なところだ。なぜ、愛川だったのか。

鉄道駅がなく、人口4万人にも満たない愛川町。"最寄り"の本厚木駅(小田急線・厚木市)までは、町中心部からバスで40分を要する。まさに陸の孤島ともいうべき愛川だが、実は県内で最も外国籍住民の割合が高い自治体だ。同町によると2024年12月時点で、外国籍住民は3612人。全人口(約3万9000人)に占める割合は9%を超える。全国でも有数の外国籍住民集住地域なのだ。

多くは南米や東南アジア出身者だが、出身国別トップに位置するのはペルー(677人)である。

丹沢山麓に位置するこの小さな町に外国人が住むようになったのは、30年以上も前のこと。同町南東部には、自動車部品や金属製品など約100社の工場が立ち並ぶ「内陸工業団地」がある。愛川に住む外国人の多くが、この団地内の工場で働く。愛川の工業団地は県内、いや、全国屈指の外国人労働者の受け皿として機能しているのだ。

ちなみに工業団地のある通称・中津台地は、戦時中、旧日本軍の飛行場(相模陸軍飛行場)が置かれていた。

町内の郷土資料館で担当者に聞いたところ、同飛行場では当初、「赤トンボ」と呼ばれる練習機で飛行兵を養成していたという。本土決戦に備えた急ごしらえの飛行場は滑走路も未舗装で、草を刈り取って平らに直しただけだった。戦況が悪化すると航空兵養成も短期間となり、訓練もそこそこに特攻隊員として戦場に向かわされた若者も少なくなかった。愛川は太平洋戦争開戦から終戦までの間は「基地の町」だったのである。

そうしたことから町内には軍事遺構が点在する。部隊の正門、格納庫の基礎、排水溝、弾薬庫など、各所に飛行場時代の名残を見ることができるのだ。

終戦後、飛行場は農地となったが、1960年代半ばに工業団地が造成され、いまや多くの外国人労働者を引き寄せる多国籍・多文化の町となった。町内を歩けば、各国料理の飲食店はもとより、海外食材店やベトナム寺院など、異国の風景に出くわすことも多い。

ファンルイスさんも、そこに"引き寄せられた"ひとりだった。

工場労働者は「がっつりなメシ」を欲した

金属加工の工場で働き、金を貯めて店をオープンさせたのは2001年。ただし、最初は沖縄そばの店だった。

「ペルーにいた頃から沖縄そばに親しんできた。昔から飲食店を開くならば、沖縄そばの店にしたいと考えていたんです」

ルーツにこだわったというよりも、沖縄そばは、ファンルイスさんの体の一部ともいうべき存在だったのである。

実際、開業したら、同地域では初の沖縄そば店ということもあり、客足は悪くなかった。デカセギ労働者の中には沖縄ルーツの人も少なくないのだ。だが結局、ペルー料理店に衣替えしたのは、客がそれを望んだからでもある。

「ペルーの料理はないの?」

ペルー人の客は、店主が同郷であることを知ると、必ずそう聞いてきた。体力勝負の工場労働者は、見た目もボリュームも「がっつりなメシを欲した」のであった。

ペルー料理のブラッシュアップに大きく貢献したのは、前出・息子の安彦さんである。

安彦さんもペルー生まれではあるが、父親と一緒に渡日したのは1歳の頃。前述したように沖縄で過ごしたのち、愛川で中学、高校に通った。その後、調理師専門学校で学び、県内のイタリア料理店で8年間働いたのち、「TIKI」の店主を父親から継いだ。

移民の町で、移民が腕を振るう移民の料理

本格的に料理を学んだ安彦さんは、「がっつり」なメシにも、実は繊細ともいうべき気配りも加えている。

たとえば主菜に添えられたライス。定食特有の豪快な見栄えではあるのだが、どことなく香ばしい。

実は米を炊く際、適量のニンニクと塩を加えているのだという。これがまた、濃厚な肉の味を引き立てるのだ。

さらには牛肉のパクチー煮込み(セコ・デ・レス)などの「がっつり」な一品から、野菜スープ、鶏肉のクリーム煮など、どれもがまさに「いいとこ取り」の味わい。つまり、ペルー料理の特徴ともいえる食文化の融合を感じ取ることができるのだ。また、同店の料理には「アヒ・ワカタイ」と呼ばれる唐辛子ソースがトッピングで用意されているので、"味変"の楽しさもある。

地元ペルー人の胃袋として知られる同店だが、近隣の米軍基地からはヒスパニック系の人々が、そして南米の味を好む日本人が各地から駆けつける。

店内にはアンデス文明をモチーフとした壁掛けや人形、絵画が並ぶ。目と舌で、私たちはペルーと出会う。沖縄から始まった内間さん一家の長い旅路を思う。

移民の町で、移民が腕を振るう移民の料理。口の中で多様性が広がる。

そう、多様性はおいしい。

安田 浩一:ノンフィクションライター

https://news.infoseek.co.jp/article/toyokeizai_20250107_849450/

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