歴史人7/24(月) 16:30配信
「タロ」「ジロ」という2頭の犬が南極に置き去りにされ、その後奇跡の生還を果たした物語は、これまで数多くの書籍や映画の題材になってきた。しかし、タロジロの感動物語の裏には、第二次世界大戦の敗戦国としての苦闘が隠れていた。日本の南極観測と犬の足跡を紐解いていく。
■日本の南極観測隊と樺太犬
テレビが作り上げた「わさお」人気で、長毛の秋田犬(あきたいぬ)が「もふもふで可愛い」と注目されている。秋田犬が固定されてきた経緯を考えると、秋田犬の長毛種という呼称には違和感がある。しかし、こういう毛の長い秋田は昔から一定数生まれる。なぜなら樺太犬(からふとけん)の血が入っているからだ。
樺太犬と言えば、何と言っても南極観測隊に同行したことで有名である。そこからタロ・ジロの感動の物語が生まれた。だが、樺太犬が南極観測隊に同行したのは、昭和31年(1956)の第1回南極観測隊だけではない。すでに明治の末に南極探検隊に同行していたのである。
明治43年(1910)11月、白瀬矗(しらせ・のぶ)中尉は30頭の樺太犬を連れて、南極探検に出発した。樺太犬は、今はサハリンと呼ばれている樺太が日本領だった時、北海道に入ってきた犬である。また、出稼ぎに来た人々が戻る時に連れ帰ることもあり、東北地方の犬に血が入った。樺太犬の遺伝力は強烈で、今でもその血が出るのである。
この南極探検のために犬を集めたのは樺太アイヌで、犬ぞり担当などで2人が隊員として参加した。その一人が山辺安之助(やまべ・やすのすけ)である。アイヌ名はヤヨマネクフ。樺太アイヌの指導者で、集落の近代化に尽力した人物だ。八甲田雪中行軍遭難事件の捜索で活躍した弁開凧二郎(べんかい・たこじろう)やこの山辺安之助は、日本の国策に沿う形で近代化に努めたアイヌのエリートだった。
いい橇犬(そりいぬ)を育てるのは大変だった。おまけに樺太犬は魚をたくさん食べる。アイヌの人々は苦労しながら、生活の糧となる犬を飼っていたのである。犬は大切な存在だった。だから最初はなかなか犬を出したがらなかった。それを山辺が、この度の仕事は国家の大事業だからと説得して、何とか安値で譲ってもらったのである。白瀬らは30頭の犬を連れて出発。しかし、船が赤道にさしかかると犬は暑さのため次々に息絶え、ニュージーランドが見えた頃には10頭足らずしか生き残っていなかった。
すでにノルウェーからはアムンセン隊が、イギリスからはスコット隊が南極を目指していた。白瀬隊は必死で追うが、犬たちが大量死した上に悪天候にも阻まれ、一時シドニーに退避せざるを得なくなったのである。
そこで改めて30頭の犬を補充し、再び南極に向かった。しかし、たどり着いた雪原を大和雪原(やまとゆきはら)と命名して南極を離れようとした時、海は大荒れになる。白瀬たちは仕方なく、犬21頭を置き去りにせざるを得なかった。山辺はのちに「その時の犬たちの啼き声が耳から離れない」と回想している。それでも白瀬は帰還後、熱狂的に迎えられて皇太子との謁見も果たした。
しかし、後援会が資金を使い込んでいたことがわかり、その後は莫大な借金の返済に苦しむ。持ち物全てを売り転居を重ね、実写フィルムを持って満洲までも講演して回った。そして第二次世界大戦敗戦の翌年、ひっそりと息を引き取ったのである。自ら望んだとはいえ、壮絶な人生だった。
■敗戦国の苦闘の陰に犬がいた
昭和31年(1956)11月、戦争一色の時代と敗戦を経て、新生日本の第1次南極観測船が東京湾から出発した。観測船となったのは「宗谷(そうや)」である。もともと商船だったが戦争中は海軍の特務艦となり、戦後は灯台補給船や海上保安庁の巡視船としても使われた、かなりの老朽船だった。
この年は国際地球観測年にあたり、日本は何とか参加しようと各国に働きかけた。しかし、まだ戦争の記憶が生々しかった時代で、複数の国に強く反対されてしまう。最終的に、アメリカとソ連の支持で何とか参加できたものの、日本に割り当てられたのは上陸が難しい場所だった。
観測船は老朽船で、ぎりぎりに参加が許可されたため事前調査もできないという、不安だらけの出発だった。今回も犬橇用に樺太犬を集めた。当時まだ樺太犬は労働に使われており、所有者にとって大事な生活の糧だった。渋る所有者に無理を言って、5000~1万円で譲ってもらったのである。
翌年、第2次越冬隊員が交代のため、宗谷に乗って昭和基地に向かった。しかし、稀に見る悪天候に見舞われて上陸できず、身動きがとれない。1ヶ月半後、やっと外洋に出てアメリカの砕氷艦(さいひょうかん)と合流、支援を受けて再び昭和基地への上陸を試みた。そして小型機による数回の空輸で、第1次越冬隊員11人を何とか宗谷に運び、第2次越冬隊員3人が先遣隊(せんけんたい)として昭和基地に入った。しかし、天候のさらなる悪化で、アメリカの砕氷艦は「空輸はあと1回しかできない」と判断した。
先遣隊の3人は上層部の指示で、出産した母犬と子犬を連れて脱出することに決める。残りの15頭の犬は、共食いしないよう鎖でつなぎ、2ヶ月分の食糧を置いて昭和基地に残すことになった。だが、老朽船の宗谷はそのあと、氷に閉ざされて動けなくなる。結局、9日後にソ連の砕氷艦によって救出され、完全に面目を失った。昭和基地の建設には成功したものの、犬の置き去りや宗谷の苦難など、全体としては満身創痍(まんしんそうい)に近い初観測となった。
そして翌年、第3次越冬隊のヘリコプターが上空から、タロとジロ2頭の生存を確認したのである。2頭は着陸した操縦士のところへ駆け寄ってきた。残り13頭のうち7頭は鎖につながれたまま息絶えており、6頭は行方不明だった。
第1次越冬隊で犬の世話係だった北村泰一(後の九州大学名誉教授)は、タロとジロは首輪抜けが上手だったこと、9年後に遺骸が見つかった最年長のリキが、子犬の頃から食糧の見つけ方などを教えていたと指摘している。
2頭の生存は大きな反響を巻き起こし、樺太犬記念像も建てられた。今、タロの剥製(はくせい)は北海道大学博物園に、ジロの剥製は国立博物館に、そして宗谷は船の科学館に展示されている。宗谷ほど日本の現代史で活躍した船はない。灯台給油船時代は『ビルマの竪琴』や『喜びも悲しみも幾年月』といった名作映画にも登場している。もの言わぬタロジロと宗谷は、敗戦後の苦闘を物語る現代史の生き証人でもある。それがあまり人目に触れないのは残念だ。
川西玲子
https://news.yahoo.co.jp/articles/af1d3c6f0265a7afbd2ad9877080c5dad267e7a0
「タロ」「ジロ」という2頭の犬が南極に置き去りにされ、その後奇跡の生還を果たした物語は、これまで数多くの書籍や映画の題材になってきた。しかし、タロジロの感動物語の裏には、第二次世界大戦の敗戦国としての苦闘が隠れていた。日本の南極観測と犬の足跡を紐解いていく。
■日本の南極観測隊と樺太犬
テレビが作り上げた「わさお」人気で、長毛の秋田犬(あきたいぬ)が「もふもふで可愛い」と注目されている。秋田犬が固定されてきた経緯を考えると、秋田犬の長毛種という呼称には違和感がある。しかし、こういう毛の長い秋田は昔から一定数生まれる。なぜなら樺太犬(からふとけん)の血が入っているからだ。
樺太犬と言えば、何と言っても南極観測隊に同行したことで有名である。そこからタロ・ジロの感動の物語が生まれた。だが、樺太犬が南極観測隊に同行したのは、昭和31年(1956)の第1回南極観測隊だけではない。すでに明治の末に南極探検隊に同行していたのである。
明治43年(1910)11月、白瀬矗(しらせ・のぶ)中尉は30頭の樺太犬を連れて、南極探検に出発した。樺太犬は、今はサハリンと呼ばれている樺太が日本領だった時、北海道に入ってきた犬である。また、出稼ぎに来た人々が戻る時に連れ帰ることもあり、東北地方の犬に血が入った。樺太犬の遺伝力は強烈で、今でもその血が出るのである。
この南極探検のために犬を集めたのは樺太アイヌで、犬ぞり担当などで2人が隊員として参加した。その一人が山辺安之助(やまべ・やすのすけ)である。アイヌ名はヤヨマネクフ。樺太アイヌの指導者で、集落の近代化に尽力した人物だ。八甲田雪中行軍遭難事件の捜索で活躍した弁開凧二郎(べんかい・たこじろう)やこの山辺安之助は、日本の国策に沿う形で近代化に努めたアイヌのエリートだった。
いい橇犬(そりいぬ)を育てるのは大変だった。おまけに樺太犬は魚をたくさん食べる。アイヌの人々は苦労しながら、生活の糧となる犬を飼っていたのである。犬は大切な存在だった。だから最初はなかなか犬を出したがらなかった。それを山辺が、この度の仕事は国家の大事業だからと説得して、何とか安値で譲ってもらったのである。白瀬らは30頭の犬を連れて出発。しかし、船が赤道にさしかかると犬は暑さのため次々に息絶え、ニュージーランドが見えた頃には10頭足らずしか生き残っていなかった。
すでにノルウェーからはアムンセン隊が、イギリスからはスコット隊が南極を目指していた。白瀬隊は必死で追うが、犬たちが大量死した上に悪天候にも阻まれ、一時シドニーに退避せざるを得なくなったのである。
そこで改めて30頭の犬を補充し、再び南極に向かった。しかし、たどり着いた雪原を大和雪原(やまとゆきはら)と命名して南極を離れようとした時、海は大荒れになる。白瀬たちは仕方なく、犬21頭を置き去りにせざるを得なかった。山辺はのちに「その時の犬たちの啼き声が耳から離れない」と回想している。それでも白瀬は帰還後、熱狂的に迎えられて皇太子との謁見も果たした。
しかし、後援会が資金を使い込んでいたことがわかり、その後は莫大な借金の返済に苦しむ。持ち物全てを売り転居を重ね、実写フィルムを持って満洲までも講演して回った。そして第二次世界大戦敗戦の翌年、ひっそりと息を引き取ったのである。自ら望んだとはいえ、壮絶な人生だった。
■敗戦国の苦闘の陰に犬がいた
昭和31年(1956)11月、戦争一色の時代と敗戦を経て、新生日本の第1次南極観測船が東京湾から出発した。観測船となったのは「宗谷(そうや)」である。もともと商船だったが戦争中は海軍の特務艦となり、戦後は灯台補給船や海上保安庁の巡視船としても使われた、かなりの老朽船だった。
この年は国際地球観測年にあたり、日本は何とか参加しようと各国に働きかけた。しかし、まだ戦争の記憶が生々しかった時代で、複数の国に強く反対されてしまう。最終的に、アメリカとソ連の支持で何とか参加できたものの、日本に割り当てられたのは上陸が難しい場所だった。
観測船は老朽船で、ぎりぎりに参加が許可されたため事前調査もできないという、不安だらけの出発だった。今回も犬橇用に樺太犬を集めた。当時まだ樺太犬は労働に使われており、所有者にとって大事な生活の糧だった。渋る所有者に無理を言って、5000~1万円で譲ってもらったのである。
翌年、第2次越冬隊員が交代のため、宗谷に乗って昭和基地に向かった。しかし、稀に見る悪天候に見舞われて上陸できず、身動きがとれない。1ヶ月半後、やっと外洋に出てアメリカの砕氷艦(さいひょうかん)と合流、支援を受けて再び昭和基地への上陸を試みた。そして小型機による数回の空輸で、第1次越冬隊員11人を何とか宗谷に運び、第2次越冬隊員3人が先遣隊(せんけんたい)として昭和基地に入った。しかし、天候のさらなる悪化で、アメリカの砕氷艦は「空輸はあと1回しかできない」と判断した。
先遣隊の3人は上層部の指示で、出産した母犬と子犬を連れて脱出することに決める。残りの15頭の犬は、共食いしないよう鎖でつなぎ、2ヶ月分の食糧を置いて昭和基地に残すことになった。だが、老朽船の宗谷はそのあと、氷に閉ざされて動けなくなる。結局、9日後にソ連の砕氷艦によって救出され、完全に面目を失った。昭和基地の建設には成功したものの、犬の置き去りや宗谷の苦難など、全体としては満身創痍(まんしんそうい)に近い初観測となった。
そして翌年、第3次越冬隊のヘリコプターが上空から、タロとジロ2頭の生存を確認したのである。2頭は着陸した操縦士のところへ駆け寄ってきた。残り13頭のうち7頭は鎖につながれたまま息絶えており、6頭は行方不明だった。
第1次越冬隊で犬の世話係だった北村泰一(後の九州大学名誉教授)は、タロとジロは首輪抜けが上手だったこと、9年後に遺骸が見つかった最年長のリキが、子犬の頃から食糧の見つけ方などを教えていたと指摘している。
2頭の生存は大きな反響を巻き起こし、樺太犬記念像も建てられた。今、タロの剥製(はくせい)は北海道大学博物園に、ジロの剥製は国立博物館に、そして宗谷は船の科学館に展示されている。宗谷ほど日本の現代史で活躍した船はない。灯台給油船時代は『ビルマの竪琴』や『喜びも悲しみも幾年月』といった名作映画にも登場している。もの言わぬタロジロと宗谷は、敗戦後の苦闘を物語る現代史の生き証人でもある。それがあまり人目に触れないのは残念だ。
川西玲子
https://news.yahoo.co.jp/articles/af1d3c6f0265a7afbd2ad9877080c5dad267e7a0