20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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下町との出会い

2024年03月29日 | Weblog
           

                 

久しぶりに、バスに乗って、亀戸の駅ビルに行きました。
ところが、エスカレーターが、途中までしか動いていなくて、お店も至る所が、白いパーテーションに囲まれています。
大幅な改装をしているようです。
私がお買い物に行ったのは、地下の食料品売り場のお肉屋さんと、成城石井。
ここのお肉屋さんの国産の豚肉は柔らかく、生姜焼きなどにすると、すごく美味しいです。ですからたくさん買って、小分けにして冷凍しておくのです。

ビルを出て、ふと横を見ると、小さな駅が・・・。
東武亀戸線という二両の電車が走っているレトロな駅です。

それを見て思い出したのが、娘が、大学生だったか、大学院生だったかの時、バイトをしていた家庭教師先。
その路線の、先にある「曳舟」だったかに住んでいる、向島花柳界の芸者さんの置き屋の娘さんの家庭教師をしていたのです。

どうやってこのバイト先を、娘が見つけたのか知りませんが、バイト情報誌のようなものだと思います。
家庭教師を終え、帰ってきては、芸者さんの世界を垣間見た話を聞かせてくれました。

あの頃は、芸者さんの置き屋さんもあったのです。浅草橋には柳橋芸者。
辰巳芸者は深川・門前仲町あたりには、その置き屋さんがたくさんあったようです。

当時、観た映画。
日活一番の名作と言われた「洲崎パラダイス 赤信号」これは、まだ赤線があった時代の物語です。

今は、洲崎という地名もなくなっています。
下は、その映画の原作者の話。
 
原作者・芝木好子は、東京の下町・浅草馬道に生まれ、江戸風俗の名残が残る東京を舞台にした風俗小説を数多く残した作家。昭和17(1942)年2月「青果の市」で第十四回芥川賞を受賞。「洲崎パラダイス」が発表されたのは昭和28(1953)年のことで、以後、洲崎を舞台にした小説を連作している。晩年に発表した「隅田川暮色」に、芝木の東京への思いが色濃く綴られているが、東京とそこに住む人々を愛した作家でもある。
「洲崎パラダイス」について、芝木自身は「芝木好子作品集」(読売新聞社)第五巻の巻末にこう書いている。「『洲崎パラダイス』を書く時も転機に迫られていて、ゆきくれた時期だった。ある日銀座からあてもなく下町をめぐるバスに乗り、月島をめぐって、日没のあとの洲崎へ降りたのがこの世界とのふれあいのはじまりである。

そういえば、まだ今のように開発されていなかった時代の湾岸を、取材のため、品川あたりから、その湾岸地域を走り向けるバスに乗ったことを思いだしました。1980年代後半です。
東京湾岸の埋立地は、まだ広陵とした野原で、セイタカアワダチソウの黄色い花が咲き乱れていました。

それを見ながら思い出したのが、日野啓三の『夢の島』(講談社文芸文庫)でした。バスの中で作品の妄想が膨らむくらい、広陵とした埋立地はただただだ、だだっ広い空間でした。

バスの終点は、「新木場」。
そこから、さらに「月島」に行って、日本で初めて建てられたタワーマンション、大川端リバーシティ21の辺りを歩き、
四方田冬彦の『月島物語』(集英社・のちに集英社文庫)を思い出し、彼自身がしばらく住んでいたと本に書かれていた、四軒長屋のあたりを歩き・・・。

当時は、まだ四軒長屋が、何軒か軒を連ねていました。
カビ臭い路地の奥には、小さなお稲荷さんが祀られていたりしました。

赤い小さな橋を渡り、大阪の「住吉神社」から、大阪から来た漁師さんたちの安全祈願のために作られた、佃の「住吉神社」を見て、佃煮屋さんを覗き、アサリの佃煮を買って・・・。

目的は、当時、出版社から「怖い話を書いてくれ」と依頼されたことから、勉強していった、小さなバスの旅でした。

石川島播磨の跡地に昔あった、人足寄場・・流刑場と、勉強してきたのですが、どうやらその跡地には、モニュメントができているだけで、処刑場の跡形もありませんでした。

それが「怖い話」を書くための、第一目的の取材でしたが、どうやら当てが外れてしまいました。

もう30年以上も前の話です。
今は、すっかり変貌しているでしょう。

でも、この取材が、私にとっては、下町との最初の、魅力的な出会いとなりました。
あの光景は、30年以上経っても、色褪せずに残っています。
コメント
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