今夜は、オンラインでの、仲間内の読書会ですが、仕事がいろいろ詰まっていて、課題本が読めず、今回は、パスさせていただきます。
染めているのだと思いますが、藍色のバラが、デパートのお花屋さんにありました。美しいです。
バラと言ったら、母方の従姉妹。
自宅の広い、お庭一面をイングリッシュガーデンにして、とても素敵です。
近頃は、もう手が回らないと、だいぶ縮小しているようですが。
その仲良しの従姉妹の、弟の息子さんと、うちの息子が、ひょんなことで出会った話を、バラを見ていたら、不意に思い出しました。
辻仁成ブログの影響です(笑)。
当時、高校生だった息子は、小学校一年生からの親友と、新宿にある科学的教育グループという塾に通っていました。
話がそれますが、その塾というのがすごいところで、授業中、おやつを食べてもOK。お菓子をバリバリ食べていると「一個、頂戴」なんて、先生が手を伸ばして口に入れて、講義を続けるそうです。脱力系塾。でも先生たちの講義はすごいらしいですが。
親友も、息子もおっとりしていたので、そのお教室のゆるさが、すごく楽しく、合っていたようです。
その塾から帰宅して、ご飯を食べながら、「今日は、○○くんがね・・・」と、○○くんという名前が、時々、話題にのぼるようになりました。
開成高校だと記憶していますが、塾の同じクラスで、お友だちになったようです。
○○というのは、母の旧姓ですが、あまりたくさんある苗字ではない上に、その名字をかなりマイナーな読み方にしています。
昔から、そんな話を母から、聞いていたので、ある日、息子にいってみました。
「○○くんの、おじいちゃまの下の名前か、パパのお名前を、今度聞いてきて」おじいちゃまというのは、私の母の兄です。
従兄弟でも、相性の問題か、すごく仲良しの従兄弟と、あまり交流のない従兄弟というのがいるものです。それは女同士の従姉妹でも・・・。
で、なんと、その交流のほとんどなかった従兄弟、Hちゃんの、息子さんだったことがわかりました。
〇〇家は、商家でした。
ですから、母の兄なども、如才なく腰がとても低く、あたりがソフト。Hちゃんは、兄弟の中で一番如才なく、○○家の血を一番、引き継いでいるように見えました。
その彼の姉は、私と仲良しですが、歳もいくつか離れているので、私は彼女の子分のような存在です。商家の出身といえども、誇り高く、腰など低くありません(笑)。 でもその気風の良さと、誇り高さが、なんとなく好きで、私は、M子ちゃんの下僕。と言ったら、「ヤダ〜、私がジュンコちゃんの下僕よ」と、彼女はいいました。
母方の従兄弟であるHちゃんとは、大きくなってからは、お葬式とか、そういう時くらいしか会ったことがありませんでした。
でも会えば、実に如才なく、女性を褒め称える言葉も持っているし、そんじょそこらの男たちには真似のできないほどの見事さで、相手をたてます。
でもそれが逆に、他の従兄弟たち、誇り高い従姉妹と、会えば「ギャハハ」笑って、ざっくばらんに付き合っていた親しさには、どうもなっていかなかったようです。
ですから、子どもの話などしたことがなかったので、うちの息子と同い年の男の子がいるのも知りませんでした。
夏休みに文学の勉強会を、父方、母方、双方の従兄弟であるKちゃん、Oちゃんと私3人で時々やっていました。
そのOちゃんのお兄さんが、Hちゃんです。そのHちゃんもまた同じ早稲田で、勉強会をやっていた2人の従兄弟は法学部。兄のHちゃんは商学部で、卒業後は大手企業に勤めていたようです。もうとっくに定年退職しているでしょうが。
話がすっかり、それてしまいました。
でも、こういう偶然の出会いって、あるものなんですね。息子も、「じゃあ、彼は僕と血が繋がっているんだ」と、驚いていました。
そばにいた、小学校からの親友も「すごい偶然だね!」と、驚いていたそうです。ちなみに、その小一からの息子の親友は、今はJAXAの教授です。
その塾からは結果として、クラスの仲良しの全員が一緒に合格。
でも、○○くんとは、塾では仲良くしていましたが、東大に入ってからは、全く交流がなくなり、彼は東大卒業と同時に、千葉大の医学部に入り、医者になりました。
医学部にストレートで入ったのですから、東大の3年生くらいから、この道は、自分の人生ではないかもしれないと思って、医学部への勉強をしていたのかもしれません。その話は、後日、仲良しの従姉妹のつながりで、Hちゃんのお宅にお邪魔して、奥さまから伺いました。
こんなことを急に、書いたのは、辻仁成のブログを、時々読んでいるからです。
多人種の住む、パリでの彼ら、父と息子との交流。そうしたものが、とても素敵です。
今は、その高校生の息子さんが、法律の道にすすむか、音楽の技術の道にすすむか、すごく苦悩しています。
親子で、今、葛藤の最中。
「仮に、法律の道に進んでも、その仕事をやるというモチベーションが、僕には持てないかもしれない」と、息子さんは、パパである辻仁成に話しているようです。
人間って、どれくらいの年齢で、将来の自分の道を決めるものなのでしょうか?
小学生の頃から、ずっと作家になりたいと思って、投稿少年だったという話を、文学者の先輩などから聞いたことがあります。
私は、中学生くらいから、西日のあたる二階への階段の隅に座って、薄暗くなるまで、本は読んでいましたが、書く人になりたいと思ったのは、もうちょっとあとです。
辻仁成のブログを読んでいると、過去の自分の思い出、これから未来へ向かって歩いて行く孫たちのことなどを、つい考えてしまいます。
そして、他者を大事に生きることの、温かさ、悦びを教えてもらっています。