ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

高取「町家の雛めぐり」(2014.03.11)

2014-03-13 21:08:30 | 旅日記

城下町高取の「町家のひなめぐり」も今年で8回目。私たちは第二回の2008年、第三回の2009年に訪れていますので、今回は5年ぶり三度目になります。訪れる人も増えている様子で、ウィークデーの今日も大勢の人がお雛様との出会いを楽しんでいました。

高取山を下り、ウメの花が美しい砂防公園に着いたのは13時過ぎ、橋のたもとに「77番」を指す案内がありました。ちょうど登ってきた男性とご一緒に、少し上にある梅本家へ登っていきます。

声をかけて玄関の戸を開けるとご主人が出てこられて、高取城や周辺の美しい写真も見せて下さいました。この辺りは上子島といい高取山の西北山麓にあたり、私たちが降りてきた城址からの道は、高取の町からお城に上る「大手道」になります。

水車小屋を横に見て、緩やかに下っていくと大きな馬のお雛様が見えてきました。上小島元気広場です。左に見える黒い馬も模型です。

係りの人の説明によると、いわゆる「ジャンボ雛」は三か所にありますが、ここ上子島が最初で今年で4年目とのこと。「これからも地域のみんなが力を合わせて、干支に因んだ動物のお雛様を作っていく」と話されました.

ここから5分ほどで長屋門に着きました。高取藩の城代家老の屋敷で、門の両側に4軒づつ中間部屋がありました。白いナマコ壁が江戸時代の武家屋敷表門の面影を伝えています。現在は旧藩主・植村氏の居宅になっています。

すぐ前が土佐町(土佐街道)から壺坂道への分岐点「札ノ辻」。右手奥が長屋門になります。鳥居のように見えるのは復元された「松の門」。囲みのなかは児童公園です。ここは武家と町家との境界だったそうです。当時さまざまな「御触れ」の高札が掲げられたので「札ノ辻」。石柱に「右つぼさか」の文字が残り、公園角の石柱にも「右 観音院道 是ヨリ十六丁」とあります。前の石畳の道がメインの土佐街道ですが、私たちは右の壺阪寺へ通じる道に入ります。

「お里沢一の墓」がある信楽寺に詣り、緩い登り坂になっている町並みを行くと清水谷絆広場、今日の「雛めぐり」で是非とも見たかった「貝合わせジャンボ雛」です。60歳以上の地域の方15人が一か月かかって作り上げた高さ5mのお雛様。「この世でぴったり合う貝は一つしかない」と最愛の人に巡り合う願いが込められています。

広場と通りを隔てたお家の軒に「見上げてご覧ください」という札がありました。二階からお雛様が並んで覗いています。ここが93番で99番が朝に通った壺坂口バス停になります。

「札ノ辻」に引き返す途中で今回も増本家のお雛様を見せて頂きました。金屏風を背にしたお雛様とご家族で丹精込められた手作りの品がマッチしています。今年はお嬢様が嫁がれるとのこと、本当におめでとうございます。

「札の辻」から北へ歩くと「雛めぐり」のメイン会場「雛の里親館」があります。会場に入って左側にある「天段のお雛様」は徳島県勝浦町から預かった雛人形と聞いていますが、天に届けと段上に飾られている数百体のお雛様は圧巻です。

右手には今年の企画展「ジャンボ雛とミニ雛」。奈良の伝統工芸「一閑張り」のお雛様です。

そして見上げると無数の「吊るし雛」。ていねいな説明をして下さった上、記念写真まで撮って下さった係りの人に感謝して会場をでました。

次の広い通りの辻(黒い牛と幟の最初の写真の場所)を少し左に入るとギネス広場です。名前の由来はこのビールの空き缶で出来た高取城。淡麗グリーンラベルの石垣を始め35679本のキリン缶ビールによるオブジェで、ギネスブックで認定されました。後ろのテントの中に企画から制作、完成に至るまでの住民の皆さんの姿が紹介されていました。

それぞれのお家の雛飾りをすべてご紹介できませんが、このような御殿飾りや…

竹から生まれたようなお雛様(高取にも竹取物語に因んだ伝説が残るそうです)、古くからそれぞれのお家に伝わってきた大切なお雛様、手作りの愛情のこもったお雛様と、各お家ごとの様々な趣向が見られます。

陽が西に傾いた頃、「観覚寺なかよし広場」の三つめのジャンボ雛に会いました。カメラを向けていると、横のお家から出てこられた若い女性が「午前中は光線の具合が良かったのに…逆光だからここから撮れば」とお家の影を勧められました。

楽しい「雛めぐり」もそろそろ終わりです。この催しに
町を挙げて取り組んでおられることに、また出会った町の方々の皆さんが、私たち訪問者になにかと話しかけて下さる「おもてなし」に深い感銘を受けて、壺阪山駅に向かいました。 


はだれ雪・高取山(2014.03.11)

2014-03-13 20:46:00 | 山日記

壺阪寺の拝観を終えて高取山へ向け歩き出したのは10時40分。車道を10分ほど歩くと五百羅漢への石標があります。手前の石柱は慶長九年(1604)のものと言われ、「香高山二町」の文字と種字、弘法大師像が浮き彫りにされています。車道はこの先、壺坂峠で吉野への道と分かれ山頂近くまで通じています。

少し急な山道を登ると五百羅漢に出会います。巨岩に彫られた小さな羅漢像はよく見ると一体一体が顔の表情や姿態が異なっていて、何度見てもなかなかの迫力です。ここは壺坂寺の奥ノ院と言われたところで、左下には両界曼荼羅が彫られた岩があり、また直進する「五百羅漢遊歩道」には羅漢だけでなく様々な如来、菩薩、天部の石仏が点在しています。前にゆっくり見ていますので、今回は割愛して右に登ります。

急坂を過ぎると左からの「遊歩道」と合って、しばらくは緩やかな道を行きます。この辺りから疎らに残った雪が見えるようになりました。道が再び急になり、やがて深くえぐれた溝状の処を過ぎると車道に出合い、右には無線塔のあるピークがあります。

 

すぐに山道に入り、しばらく行くと「史跡高取城址」の大きな石柱が立ち、その先を右に登る八幡神社に通じる道がありますが、ここも今日は直進して緩く下って小さな広場にでます。再び車道と合流した処に城の案内図があり、ここから日本三大山城の一つ高取城址に入ります。

急な登りを行き城の石垣が見え始めた頃、下って来る男性に出会いました。今日3人目です。「紅葉や桜の頃と違って今日は人が少ないなあ」と話し合いながら歩き、この雪の付いた広い木の階段を登ると壺坂口中門跡です。

三の丸門址で左の高取からくる道とT字型に交わって右に折れます。ここで女性二人に出会いました。本丸に近づくと賑やかな人声が聞こえ、ちょうどお昼時で山の会らしい大グループを始め、大勢の人が食事場所を求めていました。私たちは静かな一角の天守址に登ります。予想通り三角点(583,9m)の立つ山頂は貸し切りでした。真っ青な空の下で金剛葛城の山々を見晴らし、暖かい日差しを浴びながらお握りを頬張りました。熱いお茶が何とも美味しかったです。

30分ほどで腰を上げて下山します。これは二の丸・太鼓櫓址。雪が溶け出して、足元が少しじめつくところが多くなりました。三の丸址を直進して高取の方へ下る辺りは特にぬかるんでいました。しかし、千早門跡、宇陀門跡と下るにつれ登山道が整備され、砂を入れたり段差をなくしたりと歩きやすくなっています。今日も作業されている何人かの人に出会いました。背負子で重い資材を担ぎ上げられた様子に頭が下がります。

柏森への道を分ける二の門跡の辻には猿石がどっかり腰を下ろしています。猿石は明日香の吉備姫皇女慕にあるものが有名ですが、ここの猿石も同じ場所から運ばれたものと言われています。また猿石は「猿」ではなく「渡来人」がモデルと言われますが、これは明日香のものに比べると猿石の名がぴったりの面構えです。この道を下るのは何と76年の秋以来、実に38年ぶり…しかし、このお猿さん?がここに座っている歳月から見ると、ほんの短い間の再会に過ぎないでしょう。

岩屋不動への道を分け、米一升のボーナス支給でへたった人夫を励ました一升坂を下ります。左手の谷沿いに植樹の終わった桜が並んでいます。何年か後には見事な桜並木が見られることでしょう。午後になっても、登ってくる人に何人も出合います。「町家のひな巡り」のあとで登る人も多いようです。七曲りでは、登山靴を履いた幼い女の子がお母さんと登ってきました。立派な山ガールに成長しますように…。山道が終わり、道が広くなると左手に高取藩主植村氏の菩提寺・宗泉寺があり、幅広くなった高取川を右手に見下します。

舗装された道をどんどん下ると、黒門(高取城第一門)跡を過ぎて本丸から1時間で上子島砂防公園にでました。あと高取町中心部までは2キロほどありますが、近くに「ひなめぐり77番」の標識がありましたので、今日の山歩きはここまでにして「高取町家のひなめぐり」に移ります。