ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(36)~(40)

2015-06-06 15:50:41 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

<生駒・金剛エリア>(36)屯鶴峰

「白い鶴の群れ」

 

二上山の北側、穴虫峠の東から約1kmの間、松林の緑の中に灰白色の岩山がうねるように続いています。香芝市に属し最高所でも150m、山と言うには気が引ける低山中の低山です。白い鶴が屯(たむろ)しているように見えるのでこの名が付きました。

約1500~2000万年前の第三紀末に、二上山の火山活動で噴出した火砕流や火山灰が、当時あった湖の底に積もって凝灰岩となり、隆起したあとに風化、侵食されて現在のような珍しい景観となったものです。柔らかく加工しやすいので、大和の古墳に石棺や石郭の材料として使われています。法隆寺の敷石にも使われたと言われます。また、第二次世界大戦末期に本土決戦に備えて戦闘指令所にするために陸軍が掘った、大規模な防空壕が残されています。現在、その一部は京大の地震観測所として災害予知の役割を果たしています。

ダイアモンドトレールは(正式には金剛葛城自然歩道)は屯鶴峰入口(穴虫峠近く)を起点として、二上山、金剛山、葛城山、岩湧山を経て槙尾山まで、延長45キロに及ぶ縦走路です。二上山駅より165号を西へ分岐で線路沿いの通称大坂道に入ると、穴虫峠手前に登山口があります。穴虫峠も河内、大和の交通の要衝でした。

昔、穴虫に木熊という男(女だったとも)がいて馬場の畑の大根を盗みました。見せしめに穴埋めにされた木熊は「俺が死んだら馬場の大根を喰い荒らしてやる」と言って息絶えました。それ以来、馬場の大根には「キクマ虫」が付き痛みやすいとか…。

 

(37)二上山 <1.雄岳>

「嶽の権現さん幟(のぼり)がお好き」

雄岳と雌岳から成るコニーデ式火山、二上山の方角は、河内からは「日出(いず) る山」、大和からは「日没する山」にあたります。特に大和国中(くんなか)の古代人からは、神聖な「二神山(ふたかみやま)」として崇敬されました。飛鳥の奥津城と考えられた西南麓には、古墳群と呼ばれる多くの墳墓が築かれています。

雄岳山頂すぐ手前には、政争に敗れ謀反人として葬られた大津皇子(天武天皇の皇子)の墓所があります。皇子を悼んで姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ歌は、あまりにも有名です。

うつそみの 人なる我や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)と我(あ)が見む。

山頂(517m)には葛城二上神社が鎮座しています。山麓の農民には「嶽(たけ)の権現さん」として農作物に雨をもたらす水の神様として信仰を集めました。「嶽の権現さん幟がお好き 幟持ってこい雨降らす」と俗謡に歌われたように、幟を立て提灯を提げて雨乞いに登ったそうです。また4月23日には、山麓の「嶽の水でご飯を食べる」村々の人たちが、弁当を持って山に登り一日の行楽を楽しむ行事がありました。

二上神社の横には「葛城二十八宿」の二十六番目の経塚があります。葛城二十八宿は役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚で、南北朝時代に紀州の友ヶ島を序品(起点)として槇尾山、岩湧山、金剛山を経て二上山から亀の瀬に至る28の宿(行場)を巡る山岳修行の道となりました。今も金剛山転法輪寺によってこの28里(112km)を巡拝する伝統は守られています。

 

(38)二上山 <2.雌岳>

「太陽が通る道」

二上山の三角点(476m)は雌岳にあり、ここからは展望も良く河内平野の彼方に大阪湾が光り、大和側には大和三山、正面には金剛山が大きく見えます。周辺は自然公園「万葉の森」として整備され、中央に日時計が設置されています。

ここは北緯34度32分にあたりますが、真東にある三輪山と線で結んで伸ばすと箸墓、長谷寺、室生寺を通って元伊勢といわれる斎宮址に通じます。真西には大鳥神社を通って淡路島北淡町の「伊勢の森」があります。このように多くの寺社や遺跡がこの線上に並ぶので、「太陽の道」と呼ばれています。南側の山麓には岩屋峠と竹ノ内峠があり、古くから河内と大和を結ぶ大事な交通の要所でした。この峠を通る竹内街道は飛鳥京と難波津を結ぶ日本最古の官道で、7世紀には朝鮮の使節たちが盛んに往来しまた。

また岩屋峠を河内側に少し下ったところには岩屋があります。説明板によると『この遺蹟は、西向きに開口する大小2基の石窟で構成され、附近から出土する須恵器等から、8世紀奈良時代の築造といわれています。…(中略)当麻寺に所蔵される当麻蔓陀羅を中将姫が、この岩屋で織ったとする伝説が残されています。』

山麓には当麻寺をはじめ、石光寺、山口神社などの寺社や史跡が数多くありますが、ここでは一本足の珍しい建築・傘堂をご紹介するのにとどめます。延宝2年(1674)11月、大和郡山城主であった本多正勝の影堂として建立されたものです。

 

(39)岩橋山

「神さんを使った行者」

二上山と葛城山のほぼ中間に、やや尖った頭をもたげています。山中には巨きな石が多く、なかでも山名となった「久米の岩橋」は役行者の伝説で有名です。

江戸時代に刊行された「河内國名所會圖」によると『…岩橋の形を見るに巨巌???面に橋板の?ある事四つ。両端稍隆うして欄檻(欄干)に似たり。幅三尺余長さ八尺許(ばかり)。西南の方少し缺(か)けたり。形勢まさに南峰に?(およば)んと欲す。…傳云(でんにいわくむかし役優婆塞(えんのうばそく)葛城の峰より金御嶽へ通い給わんとて石橋をかけなんとす。ここに諸々の神に命じ??葛城一言主神容貌いと醜くければ晝(ひる)の役をはばかりて夜をまちゐしより橋???得ぬんば行者いかりて一言主神を呪縛して深谷に押籠?たまへり。…」

「日本名勝地誌」や「大和名所図会」にも同じような記述があります。日本の伝説(角川書店)13奈良の伝説には『この時、役行者が印を結ぶと自然に岩橋が南に向かって架かっていく。すると空から嵐の神が現れてそれを妨げようとする。行者は一人の天女を呼び出し、歌と舞とを奏させて嵐の神を制しようとしただが役行者の法力が弱って橋は成就しなかったともいう』という面白い話が載っています。土地の神様や天女を使うとは流石に役行者ですが「容貌いと醜く」の一言さんは、どんな顔の神様だったのでしょう。奈良側からこの山に登るには普通、竹内から兵家浄水場を目印に進み、急坂を登り岩橋峠を目指すと1時間30分程で頂上に着きます。私が登ったときの展望は木の間からチラチラと河内・大和両平野、葛城山などが見えるだけでした

岩橋の近くに鍋釜石、鉾立石という名の大石もありました。

 

(40)葛城山 <1>

「山が燃えてる」

御所市の西に大きくそびえる、古くから役行者の伝説で知られる信仰の山。同じ名の山が和泉山脈にもあるので(和泉葛城山と南葛城山)、区別するために大和葛城山と呼ばれることが多いのですが、まれに北葛城山ともいいます。

元来、葛城山(葛木山)は、二上山から葛城山、金剛山にかけての山域全体の総称で、現在の葛城山は古くは戒那(かいな)山と呼ばれていました。山麓は古代豪族・葛城氏や賀茂氏の支配地として栄えた処です。『大和名所図会』に「南遊紀行に曰く」として、「葛城の北にある大山(おおやま)をかいなが嶽といふ。河内にては此を篠峯(しのがみね)と号す。篠峯を葛城山といふはあやまりなり。葛城は金剛山の峯なり。」とあります。

今、東山麓のロープウエー登山口駅前にある不動寺は、空海が不動尊を刻んで堂を建て戒那山安位寺と称した所で、室町後期の不動石仏で有名です。付近には戒那千坊という地名が残っています。

『大和志料』には「戒那山・葛城山ノ支峰ニシテ一ニ天神山ト称ス、山中ニ瀑布アリ」と記されています。天神山の名は、現在のロープウエー山頂駅近くに天神ノ森、天神社があることが起源と思われます。山頂部はなだらかな斜面で、芝草とススキに覆われています。

また山頂の南には花の季節に山を紅に染めるツツジの大群落があります。「一目100万本」といわれる今のツツジ園は元は笹原でしたが、1970年頃(私たちが奈良に居を定めた頃です)にササの花が咲いて枯れた後に自然に増えたものです。当初は山火事と間違えて消防署に通報した人がいたとか?例年5月中旬から下旬にかけては大勢の観光客で賑わいます。