ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(51)~(55)

2015-06-25 16:41:26 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(51)都介野岳(つげのたけ)<1>
「ツゲの富士」

大和高原にある低山ながら美しい円錐形の山容で、都介野富士とも呼ばれています。都祁は「闘鶏、竹谿」とも表記されましたが、語源は櫛の材料で知られる「黄楊(つげ)」というのが通説になっています。都祁の辺りは大和朝廷以前に「都祁国」が栄えたところで、都介野岳はその神山として信仰の対象でした。小川光三氏の「大和路散歩ベスト8」では『呉音でツゲと読む都祁は漢音ではトキで、トキとは古代朝鮮語で日の出を意味する言葉である。したがって都祁国は日の出の国のことであり、都介野岳は都祁野(ときの)の岳山、つまり天を祀る神山であった。』と記されています。

 柏森

ずいぶん昔のことになりますが、1989(平成元)年5月3日の山日記に「車で南之庄まで移動して電報局の前にパークする。すぐ裏に都祁の国造の墓と伝えられる三陵墓古墳がある。金剛廃寺の跡、観楽寺を通り抜けて柏峰に緩い登り。林の中に古代信仰の名残の磐座と三角点がある。都介野岳が天を祭る、中国でいう圜丘とすると此処は方丘にあたり地の神を祭ったところであろう(小川光三氏説による)」と書きました。

南之庄から南へ行くと分岐があり、どちらからも山頂に登れますが、私たちは柏峰(上の写真)へ立ち寄るために右側から登りました。

頂上(631m)まで約30分でした。


 

(52)都介野岳(つげのたけ)<2>
「雨乞いの山」

都介野岳は頂上に竜王を祀ることで分かるとおり、水を司る龍神信仰の山で、田植えの水を願ったり、そのお礼や雨乞いのために、古くから近隣集落の人々が登ってきました。西南山麓に都祁山口神社があります。この辺りが都祁国の中心であったところで、各所にツゲが自生しています。社の裏山にも「都祁直(つげのあたい)霊石」という磐座が祀られています。また、南之庄に三陵墓があります。直径40mの円墳で、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)の墓という伝承が残っています。

北西一㎞ほどの友田には都祁水分(つげみくまり)神社があります。大鳥居から広い参道が重文の拝殿に続く立派な式内社で、境内外れの杉の根元に「山辺の御井」があります。

昔は「山辺の三井」といって閼伽井、日賀井、藤井の三つがあり、そのうちの閼伽井に当たると言われています。横の石燈籠には「山辺の三井を見ても神風や伊勢の乙女に相みつるかな」と刻まれているそうですが、私には勿論読めませんでした。

近くに朝命で都介野を開拓した小治田安万呂(おはりだのやすまろ)の墓があります。


 

(53)貝ヶ平山(かいがひらやま)
「鐘ヒラ山の謎」



(鳥見山との鞍部より)

奈良県櫻井市、奈良市都祁吐山町、宇陀市榛原区の三市境にまたがる、額井(ぬかい)火山群の最高峰(822m)。南側からは鋭い山容を見せますが、西側から見ると横に長いゆったりした姿をしています。



私の住む大和郡山市や矢田丘陵からも、大和平野の東に並ぶ山々の奥にくっきり見えています。

南山麓に二枚貝の化石が採取された跡があり、この辺りが太古(約二千万年前)には海底であったことが分かります。山名はそれから来ています。

昔はカネヒラ山ともいいました。昔、吐山の男が芝刈りにこの山に入ったところ、山鳴りのような音がするので山腹を見ると大きな鐘が岩から頭を出しています。驚いて村役を呼びに行って帰ってみると、岩に大きな穴が開き、鐘は大阪湾から堺まで抜けて行きました。桃の節句には頭を海の上に出していた鐘は再びカネヒラ山に帰り、月の輪と呼ばれる黄色い場所の地中に埋もれて、年とともに移動しているといいます。



吐山より左は香酔山、右・貝ヶ平山

吐山はスズランの自生地で、貝ヶ平山から東へ稜線続きに香酔山(795m)という美しい名の山もあります。山の名はスズランの花の香りから来ています。また香酔(水)峠には神武天皇東征の時に清らかな水の流れるこの峠で人馬を休ませたとか、後醍醐天皇が笠置から吉野に向われる時にこの峠で芳香がしたため休まれたという伝説が残されています。


 

(54)鳥見山(とみやま)
「神武天皇の祭祀跡」



左から鳥見山、貝ヶ平山、香酔山(玉立から)

貝ヶ平山から南西に伸びる稜線上にあります。国道165号線が桜井から榛原に近づく頃、西峠を通ります。その北の弓の形をしていると言われる大きな山で、ボタンで名高い長谷寺も遠くありません。

山頂へ向かう途中の鳥見山公園はツツジがきれいな処ですが、ここに「鳥見山中霊畤址」(とみやまなかまつりのみやあと)という碑があります。日本書記に『己立霊畤於鳥見山山中。其地号日上小野榛原』とあり、神武天皇が大和を平定したのは神霊の加護のお蔭と、この地に祖神を祀ったと記されています。

『和州旧跡幽考』に「神武天皇長随彦(ながすねひこ)と闘ひ給ひしとき、金色の霊鵄(れいし)(トビ)飛来たり皇弓の弭(ゆはず)にとどまれり。其鵄光かがやくこと流電の如し。かかりければ長随彦軍破
れたり。鵄の瑞を得給ひしより鵄邑と名づけり。今、鳥見というは訛り」の記述があります。なお奈良県には他にも5カ所の鳥見山霊畤址があり、一時はどこが本当の場所か論争があったそうです。

貝ヶ平山からは何度か登りましたが、2005年1月、この年の干支の山には人口のダム湖・まほろば湖畔から歩き出しました。馬乗り石、城址の残る高塚山を通り、5.6km・1時間40分ほどで鳥見山公園(ここまで車でも来ることができます)。

5月にはツツジで賑わうところですが、勾玉池の水面には薄い氷が張っていました。赤い鳥居の横から「2000年の森」を抜けて展望台に登ると、眼下に榛原の町、正面に竜門岳、音羽三山が見えました。



吹き曝しの稜線を頂上に向い、公園から30分足らずで三角点に着きました。

(55)額井岳(ぬかいたけ)<1>

「大和富士」

奈良市都祁吐山町と宇陀市榛原区の境。大和高原の南端に位置するこの山を中心に、西にある貝ヶ平山、香酔山、東の戒場山(かいばやま)などを額井火山群と呼び、その主峰です。「大和富士」の別称通り富士山型の秀麗な山容で、南の榛原や室生ダムからは、左右に支峰を従えた「山」の字形に見えます。

この山も大和に多い雨乞いの山で、頂上に水神を祀る小さな祠があります。旱魃の年には火を焚き降雨を祈る「岳参り」が行われました。

頂上台地の南側が切り開かれた展望台からは龍門山系を初め、遠く大峰、大台の山々が望まれ、眼下には榛原や大宇陀の町並みが拡がります。頂上北側からは西方に鳥見山、貝ヶ平山と見事な展望が開けます。