ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ (117)~(118)

2016-03-15 09:16:09 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。

(117)栃 尾 山 (とちおやま) 地元でもあまり名の知られていない山」



天川坪内から栃尾辻、頂仙岳、狼平を経て弥山に登る道の途中、栃尾辻から西に派生する尾根上にある1256.9m峰ですが、2万5千図には山名が記載されていません。2006年9月下旬、妻と二人で登りました。ハンディGPSを使いながら歩きましたが、道が分かり難く、何度か行ったり来たりして道を探しながら歩いています。

 


スタート地点の天河神社は「日本三弁天」として有名な神社で、弥山頂上にはこの神社の奥宮があります。林道坪内谷線で出会った男性は、栃尾辻への登山口を丁寧に教えてくださいましたが、栃尾山の名はご存じありませんでした。「弥山へ」の標識がある登山口から、頭上に見える送電線鉄塔に向けて林の中の急坂を登ります。登山口から30数分ほどで木材運搬用のモノレールの横に出ると、殆ど水平な遊歩道のような道になり、次第に高度を上げていきます。



植生が植林、混成林、自然林と変る美しい樹林帯を歩き、林を抜けたあたりから「左は弥山、右は坪ノ内」の標識がある尾根に出るまでが、最初の分かり難い道でした。



何度か緩いアップダウンで背の低い笹原を行くと、林の中に三等三角点と小さな山名板がありました。登山口から2時間余りでした。



山頂は灌木に囲まれて無展望でしたが、少し手前の大岩のところからは西に送電線の並ぶ尾根上の1287mピークとその右の天和山。遠く陣ヶ峰、水ヶ峰が霞んでいます。北には天狗倉山の右に金剛・葛城の山々が遠望されました。下りの大原への道も分かり難く、赤テープ標識を頼りにしましたが、当時の2万5千図の点線路ではありませんでした。GPSのトラックは弱受信で残っていません。帰ってからネットで見ると、他にも何人かがこの辺りで戸惑っていました。『13時半、登山口に帰り、弁天様に無事下山のお礼をして家路に着く。登りの10時頃、弥山から下りてきた二人組の男性に出会った他は、日曜日なのに誰にも会わない静かな山だった。』


(118)頂 仙 岳(ちょうせんたけ) 「朝、鮮やかに見える山」



頂仙岳 (1717.4m)は昔、仙人が住んでいたといわれ、昭和初期からこのように書きます。古くは朝鮮岳と書き(興地通志、大和名所図会)、「大和志」には「朝鮮嶽、在稲邑嶽西南、山脈相連、喬木陰森、怪石奇争聳、早旦望之、山色鮮明」とああります。「朝早くは山が鮮やかに見える」という意味で、朝鮮岳と名づけられたようです。

 森沢義信氏の「奈良 80山」によれば「弥山から出発することを弥山駈出という」。現在のように弥山から八経ヶ岳へ直接登る道が開かれたのは明治になってからで、それまで「山伏は午前4時に駈出し、弥山から狼平に下って頂仙岳に登り、次の古今宿を経て八経ヶ岳へのぼったという」(前掲書)
「修験」(大正15年)によると、「以前は八経へ登らず、朝鮮ヶ嶽に回り、八経の横を迂回して明星嶽に出たが、明治十九年楠本真成行者が、八経頂上へ直行する道を発見したとの事である」。 「修験」は京都の聖護院門跡の機関誌で、宮城信雅師は当時の執事長(前掲書の著者・森沢義信氏のご教示による)。現在の奥駆修験者の殆どは弥山より直接、八経ヶ岳へと辿り、頂仙岳は途中の「頂仙岳遥拝所」(靡第五三)から拝むだけです。ただし、ここからは頂仙岳は見えず、もう少し先の古今宿近くになって初めて山容を現します。
 2004年10 月、森沢氏と私を含む日本山岳会の有志4人と妻の5人パーティで大峰に入り、前日は弥山小屋で一泊、森沢氏の案内で上記の「弥山駆出」コースを歩きました。

弥山小屋から大黒岩を見て、弥山川に沿って長い木の階段を狼平↑に下ります。



吊り橋を渡ると高崎横手と明星岳への分岐で、ここから踏み跡を辿って山頂に登りました。



頂上台地から西に天和山、東北に稲村ヶ岳↓が見えました。(弥山小屋から約90分)



  
なお、直接この山に登るには、天川村川合から栃尾辻をへて山頂まで約3時間50分。2008年8月、弥山でのオオヤマレンゲ観察会の帰途、明星ヶ岳からこのルートを下っています。