*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
(119) 弥山(みせん) 「大峰修験の中心的な山」
今こそ南側にある八経ヶ岳が登山者の人気を集めていますが、古くは八経ヶ岳、明星ヶ岳を含めた「山上」の中心でした。仏教の世界観を表す須弥山から名づけられた山名が示す通り、大峰修験の中心的な山で、御山、深山(いずれも読みはミセン)とも書かれました。「吉野郡群山記」の「弥山の記」で釈迦ヶ岳から弥山への道(大峯通り)を記す中で、山の様子、宿、弁財天奥社、伝説まで詳細に紹介しています。
同書に『この所は天の川弁財天の奥の院といふ。山は平らなる大お山なり。余りそびえ、けはしからず。頂に樹木生い茂りて、四方見えず。』とあるように、現在も、奥宮(弥山神社)と200人収容の弥山小屋が立つ山頂台地はモミやトウヒに囲まれています。
小屋の前には御手洗池という木の柵で囲まれた水たまりがあり、昔は貴重な水源となっていたようです。
小屋のすぐ前が弥山神社で、最高所に三角点(1895m)、南側の一段低いところに行者堂があります。神社裏手から北に延びるなだらかな尾根は「香精山」と呼ばれる「御留山」で樹木の伐採が禁止されていました。現在は酸性雨などの影響か、この原生林の霜枯れ現象が痛々しく眺められます。
展望は小屋から200m足らず東の「国見八方睨み」からがよく、台高山脈、大普賢、山上ヶ岳が間近に眺められます。
1970年代に山友達と二人で弥山谷を遡行したことがあります。桟道や橋の崩壊箇所が多くて体力を費やし、双門ノ滝を見上げるところまで来て引き返しました。一般的な登山路は行者還トンネルの東西の出入口から始まります。
94年はオオヤマレンゲを見に行者トンネル西口からふたりで登りました。谷沿いの道から直登して奥駆道の通る稜線にでて、理源大師像の立つ聖宝ノ宿跡からは聖宝八丁と呼ばれる急な登りで弥山小屋に着きます。
(120)八経ヶ岳(はっきょうがたけ) <1915m> 別名・八剣山、仏教ヶ岳 「近畿より西の本州最高峰」
大峰山脈の中央部、弥山の南側にあります。大峰の盟主であり、近畿地方より西(本州)の最高峰です。山頂(1915m)に役行者が法華経八巻を埋めたといわれ、奥駆第五一番行所となっています。弥山から八経ヶ岳、明星ヶ岳にかけてはシラビやトウヒの原生林が多く、また弥山と八経ヶ岳の鞍部周辺には「天女の花」オオヤマレンゲの自生地があり、天然記念物に指定されています。
八経ヶ岳は前項(119)で記したように、弥山に比べるとそれほど重要視されていませんでした。例えば『吉野郡群山記』では『弥山の記』で釈迦ヶ岳から弥山への道(大峯通り)を記す中で、「鉢経 弥山辻にあり。道、左右に分かる。右(東)、山に登れば弥山に至る。左(西)、山を下れば川瀬村に出る。その分れる辻に金剛童子の小社あり。」と記載されているだけです。記述の中心はあくまでも「弥山」で、現在でも両山の位置関係などもあって、殆どの場合は弥山とあわせて登られています。登山道は弥山から稜線のすぐ下を捲くように八経ヶ岳に通じ、奥駆道もこの間に頂鮮岳遥拝所(靡53番・朝鮮岳)、古今宿(52番)を経て頂上の51番八経ヶ岳に至ります。しかし古来の奥駆道は、当時はオオヤマレンゲの密生していた山腹の更に下を次項の明星ヶ岳に通じていたようです。
←聖宝八丁(1994年)
天女の花と言われるオオヤマレンゲは、梅雨の時期に弥山と八経ヶ岳の間に美しい姿を見せ、この自生地は天然記念物に指定されています。この花には1994年、ふたりでトンネル西口から登り初めて対面しました。清楚な白い花が、蕾から半開、満開、落花寸前のものと様々な姿を見せてくれ、幻の花を心行くまで鑑賞できた山行でした。
11年後の2005年秋、日本山岳会の山友と新しくなった弥山小屋で一泊し、頂仙岳から八経ヶ岳へ巡りました。
聖宝八丁の道はなだらかな新道に変わり、旧道と合流した後も幅広い木の階段や鉄梯子で歩き易くなっていました。しかし、酸性雨の影響か弥山の縞枯れ現象は一段と目立ち、オオヤマレンゲ自生地にはシカの食害を防ぐためのネットが張り巡らされていました。この網は奈良県、と環境庁が1996年から設置したもので、2008年に日本山岳会「大峯・弥山周辺~明星岳のオオヤマレンゲの保護状況と観察」会に参加した時も工事が続けられていました。
この時は特別許可を得て弥山西尾根の保護区域にも入りましたが、斜面一面に咲くオオヤマレンゲの姿はまさに天女の群舞を思わせ、時の経つのを忘れました。
山頂からの大峰、台高の大展望だけは昔と変わらず、雄大そのものでした。