壺阪寺の拝観を終えて高取山へ向け歩き出したのは10時40分。車道を10分ほど歩くと五百羅漢への石標があります。手前の石柱は慶長九年(1604)のものと言われ、「香高山二町」の文字と種字、弘法大師像が浮き彫りにされています。車道はこの先、壺坂峠で吉野への道と分かれ山頂近くまで通じています。
少し急な山道を登ると五百羅漢に出会います。巨岩に彫られた小さな羅漢像はよく見ると一体一体が顔の表情や姿態が異なっていて、何度見てもなかなかの迫力です。ここは壺坂寺の奥ノ院と言われたところで、左下には両界曼荼羅が彫られた岩があり、また直進する「五百羅漢遊歩道」には羅漢だけでなく様々な如来、菩薩、天部の石仏が点在しています。前にゆっくり見ていますので、今回は割愛して右に登ります。
急坂を過ぎると左からの「遊歩道」と合って、しばらくは緩やかな道を行きます。この辺りから疎らに残った雪が見えるようになりました。道が再び急になり、やがて深くえぐれた溝状の処を過ぎると車道に出合い、右には無線塔のあるピークがあります。
すぐに山道に入り、しばらく行くと「史跡高取城址」の大きな石柱が立ち、その先を右に登る八幡神社に通じる道がありますが、ここも今日は直進して緩く下って小さな広場にでます。再び車道と合流した処に城の案内図があり、ここから日本三大山城の一つ高取城址に入ります。
急な登りを行き城の石垣が見え始めた頃、下って来る男性に出会いました。今日3人目です。「紅葉や桜の頃と違って今日は人が少ないなあ」と話し合いながら歩き、この雪の付いた広い木の階段を登ると壺坂口中門跡です。
三の丸門址で左の高取からくる道とT字型に交わって右に折れます。ここで女性二人に出会いました。本丸に近づくと賑やかな人声が聞こえ、ちょうどお昼時で山の会らしい大グループを始め、大勢の人が食事場所を求めていました。私たちは静かな一角の天守址に登ります。予想通り三角点(583,9m)の立つ山頂は貸し切りでした。真っ青な空の下で金剛葛城の山々を見晴らし、暖かい日差しを浴びながらお握りを頬張りました。熱いお茶が何とも美味しかったです。
30分ほどで腰を上げて下山します。これは二の丸・太鼓櫓址。雪が溶け出して、足元が少しじめつくところが多くなりました。三の丸址を直進して高取の方へ下る辺りは特にぬかるんでいました。しかし、千早門跡、宇陀門跡と下るにつれ登山道が整備され、砂を入れたり段差をなくしたりと歩きやすくなっています。今日も作業されている何人かの人に出会いました。背負子で重い資材を担ぎ上げられた様子に頭が下がります。
柏森への道を分ける二の門跡の辻には猿石がどっかり腰を下ろしています。猿石は明日香の吉備姫皇女慕にあるものが有名ですが、ここの猿石も同じ場所から運ばれたものと言われています。また猿石は「猿」ではなく「渡来人」がモデルと言われますが、これは明日香のものに比べると猿石の名がぴったりの面構えです。この道を下るのは何と76年の秋以来、実に38年ぶり…しかし、このお猿さん?がここに座っている歳月から見ると、ほんの短い間の再会に過ぎないでしょう。
岩屋不動への道を分け、米一升のボーナス支給でへたった人夫を励ました一升坂を下ります。左手の谷沿いに植樹の終わった桜が並んでいます。何年か後には見事な桜並木が見られることでしょう。午後になっても、登ってくる人に何人も出合います。「町家のひな巡り」のあとで登る人も多いようです。七曲りでは、登山靴を履いた幼い女の子がお母さんと登ってきました。立派な山ガールに成長しますように…。山道が終わり、道が広くなると左手に高取藩主植村氏の菩提寺・宗泉寺があり、幅広くなった高取川を右手に見下します。
舗装された道をどんどん下ると、黒門(高取城第一門)跡を過ぎて本丸から1時間で上子島砂防公園にでました。あと高取町中心部までは2キロほどありますが、近くに「ひなめぐり77番」の標識がありましたので、今日の山歩きはここまでにして「高取町家のひなめぐり」に移ります。