ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

この日・あの山 (1月8日)

2017-01-08 05:20:00 | 山日記

1994年1月8日 錫杖ヶ岳(和子と)
1997年1月8日 伊勢・牛草山(和子と)

1994年1月8日 錫杖ヶ岳(和子と)

名阪国道向井ICから舗装の林道に入る。登山口まであと10分という所で路肩が大きく崩れ通行不能となり、先行者のものらしい車が2台停めてある。私たちもここから歩き出す。小さな峠を越え、すぐに登山口の標識がある。かなり良く整備された道を、荒れた谷を左手に見ながら緩く登る。

30分足らずで柚ノ木峠に着き、南側、経ヶ峰方面の展望が開ける。ここで直角に左に折れ、明るい尾根道を登る。この辺りは十両、アオキ、シキミなどが目につく。杉の植林を過ぎ、檜と雑木の混じる狭い尾根道を小さく登り下りして、クヌギや樫の落葉樹の枝越しに頂上の見える所に来る。

ここから胸を突くをつくような急坂になり、木の根が階段のようになっている所を木の幹につかまって登る。足下に丈の低い熊笹が見られるようになると、岩場が混じるようになり、ニヵ所ほど連続して鎖が設けられているが、なくもがなの気もする。勾配はあるが短いので難なく登り切ると、大きな花崗岩が積み重なったような頭上に着いた。

先着の4人パーティに写真を撮って貰い、ゆっくりと四囲の展望を楽しむ。まさに360度の眺めで、北に油日・那須ヶ岳・高畑山、その右に綿向・雨乞・鎌・野登など、南は経ヶ峰から青山高原、西に霊山と見飽きない。眼下の錫杖湖の姿も美しい。やがて人声がして数人のパーティが上ってきたので、頂上を明け渡し、湖への降り口を少し下った屋根付きの立派な展望台で昼食にする。

殆ど汗もかかずにきたので喉も乾かず、持参の缶酎ハイはザックに返す。元の道の下りは本当に楽で、辺りの植物を見ながらあっという間に峠に着いた。ここで和がマユミの木の美しい果実を見つける。再び暗い荒れた谷間に沿い、車を停めた林道に帰る。天候は申し分なく、短い所要時間で大展望が楽しめ、幸先の良い初登りとなった。

 


 

1997年1月8日 伊勢・牛草山 (和子と)

丑年ということで「山渓」新年号に紹介されていた牛草山に登る。伊勢自動車道玉城ICを出て更に南へ宮川の支流・一之瀬川に沿って走る。川口集落から五里山橋を東に渡って林道に入ると工事中の標識があり、バス道から少し入った空き地に車を置かせて貰う。すぐ左手に山肌が明るいカヤで覆われている神岳が見える。 

一之瀬川の更に支流、五里山川に沿う林道は殆ど平坦で、時どき現れる小さな滝や川原の岩を見下ろしながら歩く。30分ほど歩いてウォーミングアップが出来た頃、岩伏場橋に着く。ジャケットを脱いで身軽になる。ここから虎ヶ岳林道と名を替えた林道の終点がやっと山道の始まりで、ここまで休憩を入れて45分、ガイドでは1時間だからまずまずのペースだ。しばらく沢沿いに檜の植林の中を登る。

荒れた感じの道は勾配を増すと、いつの間にか沢と離れ高度を上げる。再び沢に出会う所では流れが細くなり、岩伝いに対岸に渡る。かなり高いところに稜線が見える。上に来るほど風が強くなり、木の梢が擦れ合って人声や鳥の鳴き声、はては天狗の高笑いのようにも聞こえる。やっと檜林を抜け、広葉樹林のジグザグの急登となる。ほとんど海抜0メートルからなので、思ったより登りでがある。尾根に出て山名と矢印が記入されたビニールテープを見つける。500mピークを越えて二つ目の520mピークに向かう。ここから、やや急坂を登り切ると、明るく視界が開け小さい岩がごろごろした小広場の山頂だった。

雑木が何本か切り開かれて、正面に五所ヶ浦の眺めが拡がる。他は木に遮られ、展望はただそれだけ。すでに13時。お湯を沸かす時間がもったいないので、焼酎の水割りと肴、それにお握りで昼ご飯。ホッカイロで保温してきたお握りは、まだ暖かかった。それにしてもひどい風だ。おまけに午後になって、かえって気温が下がってきた気がする。あるだけ着込んだが寒くてたまらない。震えながら食事を終えて、写真を2、3枚撮り、追われるように頂上を後にする。凍えそうな手に手袋を2枚重ね、忠実にもとの道を帰る。

稜線を離れる分岐点で、ふと来るときとは逆に右の捲き道に入ると、金属板にマジックインクの細かい文字がある。曰く「牛草山へは、これを読んでいるあなたの背後の道がベター。正面も行けるが小ピークを二つ越すことになります」。なんと地図にない稜線通しの道を歩いて、往路だけで30分の時間と累積標高差250mの体力を浪費したことになる。駆けるように林道終点に下って大休止、熱いココアを沸かしてやっと人心地がつく。迷った時間込みで歩行4時間10分、休憩60分。結構よく頑張った。終日誰にも出会うことのないウィークデーの、高年夫婦二人だけの静かな山だった。

*過去の今日はどこの山に登っていたかを振り返ってみました。このシリーズは新しい山行報告ではなく、かなり古い記録や写真も含んでいます。山行の際には、必ず最新の情報をご参考ください。*


この日・あの山 (1月7日)

2017-01-07 05:00:00 | 山日記

1998年1月7日 信貴山~高安山(和子と)
2001年1月7日 丹波・蛇(おろち)山(低山徘徊派他)
2012年1月7日 天理・竜王山(和子と)
2014年1月7日 天理・竜王山(幸ちゃん、和子と)


1998年1月7日 信貴山~高安山(和子と)

 

能勢北口駅近くのOさん宅前に車を置かせて貰い、いつもは車で通る広い道を登っていく。信貴山バス停から門前町に入ると急に参詣者が多くなった。寅年の今年は例年の3倍もの初詣客があったと昨夜の夕刊に出ていたが、今日は初寅で特に人が多いようだ。本堂にお参りし、空鉢堂へ続く石段を登る。つづら折れの道にとぎれなく続く赤い鳥居の急坂を快調に登り、頂上空鉢堂に着く。

信貴山城跡から高安山に向かう。ようやく土の道の感触が味わえる急坂を下り、奥の院への道と分かれて雑木林の中を行く。大阪側から来る人に何度か出会う。狭いコル状の所から緩く登っていくと高安城倉庫跡への分岐があり、そこから意外に早く信貴生駒スカイラインに飛び出した。道を横断して斜面を登るともう一つ舗装路があり、左へ少し行った斜面を短い梯子で登る。

笹原の中をわずか進むと灌木に囲まれた狭い高安山の頂上だった。木の間越しの展望は、南に白いレーダードーム、西に陽を浴びた東大阪の町並。北に小山があり、頂上の注連縄を張った二つの巨岩に続く長い石段が見える。その向こうに生駒山。少し寒くなったので、酒飲み夫婦はとりあえず焼酎のお湯割りで暖まる。その後はラーメンで昼食。

立石越~久安寺~志貴畑経由で奥の院にも寄ることにする。梯子を下りて先の舗装路を北に行くと、金網の中にクジャクなど沢山の鳥が飼われている。向かい側に「宇宙念波研究所」の看板、どうも新興宗教の施設らしい。犬を何十匹も飼っている所もあった。立石越は明るく開けた園地のような所で、大阪側の展望が美しい。右折してスカイラインに架かる橋を渡る。左手に生駒山、右に信貴山、正面に矢田丘陵を見ながら、平群谷に向かって舗装路を下る。

信貴畑から北600mほどの奥の院へ往復する。山間の田園風景の中を行き山門をくぐると、中は意外に広く鐘楼があり、鳥居があり、社殿があり、大きい仏像(多聞天など)がありと、完全な神仏混交式の聖地だった。聖徳太子の他に、楠正成にもゆかりの所だという。拝観を終えて集落の中を通り、地図と首っ引きで東南の勢野に向けて下る。やがて町並みが近づき東勢野に入り、ドンぴたりスタート地点に帰り着く。昼食時間すら腰も下ろさず終日殆ど休まず歩き通したが、読図の復習もできたし、低山ながら良いトレーニングになって満足の一日だった。

2001年1月7日 丹波・蛇山(おろちやま)

「丹波のたぬき」さんの肝いりで行われる、今年の干支の山での低山徘徊派オフが、二人にとっては今年の初登りになる。集合場所・山南であい公園は至山、石金山の登山口にあり、今日登る蛇山は加古川越しに西北に、背後の岩屋山や篠ヶ峰、千が峰に比べると丘のように見える。MLメンバー以外にも「たぬき」さんの無線仲間、山南町の方などを含め総勢24人の大パーティになる。見送りに来て下さった山南町観光協会会長さんからバンダナや地図などを頂き、下山場所の和田小学校に移動する。車を置かせて貰って左手に山を見ながら、町並を東へ歩いていく。中腹に注連縄を巡らした大きな岩があり、その下で祭拝が行われているのが仰がれる。稲荷神社の赤い鳥居が登山口である。すぐに神社横を過ぎて、山道になる

先導はボランティアで町の自然を守っておられる藤原さん。ときどき振り返っていろいろと教えて下さる。四国88箇所を模した石の地蔵をいくつか見ながら、共同アンテナが二本立つ最初の小ピークに着く。ここからアカマツが多い尾根道になる。少南側の展望がよい258mピークで小休止。集合場所だった公園の上の至山(イタリ山)から右へ石金山に続く稜線、左やや遠くに妙見山が見える。やや勾配が強まり小さな岩場を登る。ピークを越えて緩く下ると北北西に向かってきた道は、ほぼ西に行くようになる。

けっこう上り下りがあるなあ」と声が挙がる頃、南南西に蛇山山頂が見えるピークに立つ。「城山まで440m」の標識があった。山頂近くの石積みに何人かの人影が見える。

緩く登り返して15分ほどで頂上についた。「蛇山356m」の標識を付けた木の枝越しに、うっすらと雪を被った千ヶ峰が望見される。

南側の少し低い所が天守跡で先ほど見えた人たちが食事をされていた。こちらから見ると、石垣が何段にも残っていて山城址の感じが濃い。さらに一段下の町を見下ろす広場で荷物を下ろす。全員の自己紹介のあと、思い思いに陣取って昼食になる。食事が終わる頃から、午後は崩れるという予報通りチラチラと雪が舞ってきた。

頂上からはほぼ南に向かって、滑りやすい急坂を下る。岩の露出した所では、低い位置にロープが張ってある。途中に深い空堀跡や下知殿曲輪、南曲輪などの小広場がある。雪は次第に激しくなり、みるみる両側の雑木林やザック上を白く染めていく。親縁寺への分岐からは緩やかなジグザグの道になり、やがて笹原の中を通って小学校の裏に出た。

関東へ転勤するdameちゃんを歓送するイベントを終えての帰途、予想以上の急な積雪で国道は長い渋滞、ようやく中国道に入ったら神戸JCTでは6時間も足止めを喰い、帰宅は23時前になった。しかし丹波の自然と人の優しさは、いつまでも心に残ることだろう。素晴らしい新春山行だった。

2012年1月7日 竜王山(和子と)省略

2014年1月7日 竜王山(幸ちゃん、和子と)省略

 

*過去の今日はどこの山に登っていたかを振り返ってみました。このシリーズは新しい山行報告ではなく、かなり古い記録や写真も含んでいます。山行の際には、必ず最新の記録をご参考ください。*

 


この日・あの山 (1月6日)

2017-01-06 05:00:00 | 山日記

2013年1月6日 天理竜王山 (幸ちゃん、和子と)

幸ちゃんと三人で天理のお節を頂いた後、長岳寺の駐車場に車を入れて歩き出したのは、11時15分になっていた。落ち葉に埋もれた階段道をゆっくりと登るうちに次第に汗ばんできる。一時、雪でも舞いそうな暗い空だったが、中間点のお不動さんの石仏に着く頃には青空から陽射しが帰ってきた。長岳寺奥の院への分岐を過ぎ、最後の階段道の登りでは丸太に付着した氷が解け始めていた。

最後の急坂を登って天理ダムからの林道に出て、田竜王社に手を合わせて舗装路を少し歩く。林道から再び山道に入り、途中で三か所ほど平坦な場所がある階段道を登ると南城跡の山頂にでる。今日もあまり展望は良くなく、金剛・葛城の山並みも生駒を背にした矢田丘陵も少し霞んでいる。東南側の日当たりの良い所で、コーヒーを飲んだ。

天理からの林道から40分、急な階段道から岩交じりのゴロゴロ道になって古墳群に出た。この辺りには円墳、横穴墳を合わせて600基近くの古墳が確認されているというが、その数の多さには驚く。やがて左に沢を見るようになる。舗装路に変わり、なだらかな下り道が延々と続いた末に、堰堤を二つほど見て「山の辺の道」へ出た。

緑に覆われた櫛山古墳手前の池畔では未だに赤い柿の実が鈴なりだった。古墳の上に竜王山が頭を出している。ちょうど登り始めから3時間で駐車場に帰った。上り下りとも休憩なしで頂上滞在20分、やや気忙しかったが、お天気に恵まれて楽しい山行だった。

*過去の今日はどこの山に登っていたかを振り返ってみました。このシリーズは新しい山行報告ではなく、かなり古い記録や写真も含んでいます。山行の際には、必ず最新の記録をご参考ください。


この日・あの山 (1月5日)

2017-01-05 05:00:00 | 山日記

*過去の今日はどこの山に登っていたかを振り返ってみました。このシリーズは新しい山行報告ではなく、かなり古い記録や写真も含んでいます。山行の際には、必ず最新の記録をご参考ください。*

1960年1月5日 武奈ヶ岳(四条畷高校山岳部)

1月4日 いつもは嫌な金糞峠の登りも元気に突破。八雲ヶ原の30~50cmの積雪上にテントを張る。

1月5日 晴れのち雪。朝食後、強風の武奈ヶ岳へ登頂。テントを撤収して縦走に入る頃から、ミゾレが降り始める。南比良峠で昼食。打見に着いたのは16時半で、予定よりだいぶ遅れたので小屋に入る。我々のパーティだけの貸し切りで、夜遅くまで歌ったり、話したり、愉快に過ごせた。

1月6日 ゆっくり寝て、11時、小屋発。蓬莱から小女郎峠へきて、厚く凍った小女郎池の氷で滑ったりして、小女郎道を下山。全員快調でピッチ上がり、16時37分発のバスにちょうど間に合った。

 

1961年1月5日 氷ノ山(四条畷高校山岳部)
1月3日(曇のち雨)年末からスキーで遊んでいた大久保を発ち福定から山へ。大谷ヒュッテ近くの水場にテントを張る。1月4日(雨のち雪)東尾根への取り付きが雪に埋もれ判らず、急斜面の草付きを直登。道標を見つけた頃から雪に変わる。ジグザグの登りが続くがワカンにも慣れ、尾根の上に出て昼食。風雪が強まる。東尾根の単調な登り。寒さと疲労でクタクタになった頃、ようやく千本杉に着く。ヒュッテの中でテントを二つ合わせに張る。

1月5日(曇のち晴)昨夜は二年生の合宿最後の夜というので、歌合戦などで思わぬうちに遅くまで騒いでしまったのが祟って、出発は昼前になった。それでも夜までには大久保に着けるだろうと簡単に考えていた。

ガスの中を頂上に向かう。大した苦労もなく頂上に着き、記念撮影後、出発、ブン廻しコースに入る。

氷ノ山越えで昼食。雪をプロパンで溶かした紅茶とコッペパン。1175mのピークをからみ、急斜面の難場をトラパースし終えた頃、冬の日は西に沈み、鉢伏の稜線がまだかなり遠くに見える。日が暮れると、右下方に大久保の灯りが手招きするように近い。スキーヤーの付けたシュプールをヘッドランプで照らしながら追って平らな鞍部へ来たが、シュプールは更に小さなコプを越えて続いている。いったんはコブの上に出たが、鞍部まで引き返し、右の谷へ下る。谷を渡った斜面にスキーコースの標識を見つけたが、尾根は鋭く谷へ落ちていて、とうてい下れそうもない。炭焼き用の薪小屋の側でテントを張る。雪を取りにテントの外に出ると、寒月が鉢伏から高丸山、そして小白越えと続く稜線をコウコウと照らし出していた。
<コースタイム>起床 6:50…出発11:50…氷ノ山頂上12:30~55…氷ノ山越え13:45-15:05…難場を過ぎる17:00…大ナル19:20…幕営地20:40…就寝 02:30

1月6日 非常食が乏しく、僅か5合の米をお粥にして、餅の小切れをいれ朝食に代える。小さな谷を越え斜面に取り付き、何回か小さな谷を越え、やっとスキー小屋らしきものを見つける。スキーヤーが数人見える。去年通った牧場のルートより、かなり西寄りである。下るにつれて雪は重くなり、空腹にラッセルがこたえる。もうリフトの音が聞こえ、ゲレンデのざわめきが風に乗って聞こえてくる。12時前、大久保の見慣れた神社の前に飛び出した。あとで聞くと僕達の降りたのは小代越えではなく、大ナルという難コースだったとのこと。出された甘酒で生き返ったようになり、何杯もお代りを重ねた。

 

1962年1月5日 鉢伏山(四条畷高校山岳部)
氷ノ山から縦走した後、鉢伏山頂上を踏んで大久保に下山した。

 

1978年1月5日 葛城山~金剛山(ご近所のS家と芳村家家族8人)
ロープウェイ前駐車場に車を置く。ロープで天神森で降りると積雪あり。暖冬でもあり、予想外で嬉しくなる。葛城頂上付近は10cmもあり、和はスノーボートを持ってこなかったのを残念がる。稜線はさすがに風が強く、大阪側は雪が飛ばされて地肌が見えている。

縦走路に入る。南側の斜面では雪が溶け始め、ぐちゃぐちゃで歩きにくいが、日陰では凍って歩き易い。水越峠まで嫌になる程ぐんぐん下る。チェインを巻いた車の登ってくる峠を少し大阪側へ下ったところから林道を登る。カヤンボの辺りで左手の稜線に取り付き、ジグザグに登る。尾根筋はパノラマ道と名づけるだけあって、左、奈良側の展望よく、快調に登る。頂上近くは美しい樹氷の林で人も少なく、雪も締まり絶好である。

15時、頂上葛木神社着。慌ただしくアイゼンを付けて下山にかかる(15時20分)。横峰まで走り降りて、距離的に近い名柄を目指す。しばらく急坂で雪の状態が悪くダンゴになる箇所もあったが、休憩もせず走るように下って、17時前、無事、村へ出る。御所からSとタクシーで車を取りに行く。今日は全行程17K、休憩も全くなしの強行軍だったが、子供たちも元気いっぱい。素晴らしい山行だった。

2003年1月5日 小野アルプス  小野市と加古川市の境界を為している150~200mの低山の連なり。 正しくは来住山地だが、所々に露出した岩稜があるのでこの名がある。【メンバー】JAC関西支部、やまゆき会、他(計20名)
【コースタイム】林道車止め 9:45…アンテナ山 10:00…安場山10:25…アザメ峠10:50~11:00…惣山11:15…小野富士11:45~12:30…岩倉峠12:45…紅山13:00~13:10…男池13:45

林道終点の車止めが登り口になる。標高差で50m程登るとNTT電波塔があり、その横から縦走路が始まる。落ち葉の散り敷いた雑木林の中を少し下って、登り返すと最初のピークの愛宕山である。風が冷たいのでなかなか身体が暖まらない。次の安場山では、道から少し離れた笹原の中に四等三角点標石があった。次の四つ目のピークを下って立派な舗装路に降り立つ。

ここがアザメ峠で東半分の縦走を終えたことになる。広場の奥に地蔵さんが安置された大きな祠がある。空は真っ青に晴れ上がり、気温も次第に上がって絶好のハイキング日和になった。

車道の向かい側から再び山道に入る。惣山を過ぎると岩稜を行くようになり、両側の展望が拡がる。右に鴨池やキャンプ場、左手には中国道を走る車や権現湖の水面が光って見える。アンテナの立つピークで尾根は左に折れる。

一登りで冠山(通称・小野富士)の頂上だった。

昼食後、見晴らしのよい岩尾根を辿って展望台へ行く。東に小野市街や小野工業団地、その上に六甲の山並み。南は明石大橋、明石・加古川市、遠く淡路島が霞む。西にはすぐ目の前の紅山、その左手遠くに高御位山を望む。北は眼下に鴨池、その向こうに笠形山はじめ播州北部の山が居並んでいる。

素晴らしい展望を満喫して、最後の目的地・紅山に向かう。小野富士を下りきると鴨池から登ってくる道と出会う。この道を少し左に行くと岩倉峠で、ここから右に折れ山道に入る。雑木林を抜けると、目の前に薄紅色の幅広い岩稜が延びている。

所々にルートを示す白い○印が付けられ、見た目には厳しそうだが取り付いてみると非常に登りやすい岩で、コースを外れてもどうと言うことはない。ストックを支えにして登り、ほとんど手を使わずに済んだ。ただし結構、勾配があるので、降りるとなると慎重なクライミングダウンが必要となろう。

登り切ると林に囲まれた広闊な感じが漂う山頂である。久しぶりにJAC例会に同行した和子と記念写真を撮って貰い、北側の雑木林の中の小径を下る。ドライフラワーになったコウヤボウキの群落や大きなシダの原の中の急坂を下り、雑木林の中にある岩倉2号古墳を見学にいく。6世紀に造られたがっちりした立派な石組みの古墳である。元の道に帰り、しばらく行くと急に平坦な田園地帯に出た。

振り返ると惣山と紅山を両側に従えた小野富士が、午後の逆光に浮かび上がっていた


この日・あの山 (1月4日)

2017-01-04 10:01:07 | 山日記

*過去の今日はどこの山に登っていたかを振り返ってみました。このシリーズは新しい山行報告ではなく、かなり古い記録や写真も含んでいます。山行の際には、必ず最新の記録をご参考ください。*

1959年1月3~6日 氷ノ山・鉢伏山(畷高山岳部冬山合宿付添)

1962年1月3日 大谷ヒュッテ付近で幕営 テントの下の雪が溶けてカレーを作っていた鍋がひっくり返り、弟(3年生)が足首に大火傷を負う。山根先生等が背負って下山してくださった。スキーで大久保の「つるや」に来ていた、大阪山友クラブの村上君らにも大変お世話になった。山根先生らは午前2時頃幕営地に帰り、その後、予定の行動で合宿を終える。

1月4日 千本杉ヒュッテ前で設営

1月5日 氷ノ山越え

山頂へ向かう。

小代越え

1月6日 下山

1999年1月4日 葛城山(和子と)
不動寺のお嬢さんにお願いしていつもの場所に車を置かせていただく。砂防ダムの横を登り、歩き慣れた谷道を行く。櫛羅滝を過ぎヒノキの植林帯に入る。さすが正月の葛城はツツジの頃に次いで人が多い。源流近くまで登ると、道の脇に雪を見るようになった。谷を離れると日陰では道にも雪が残っている。

ツツジ園への分岐を過ぎ、今日は天神森の社に初詣するため道を右に取る。うっすら雪の積もった神社には門松が立ち国旗が掲げられて、正月らしい雰囲気である。柏手を打って「今年も元気でこの山に登らせて頂けるよう、遠く離れている子供達が元気で過ごせるよう」お祈りする。後で聞いたが、和も同じ事をお願いしていたようだ。

広い道を頂上へ着くと、何人かが景色を眺めている。すぐ前の金剛が黒い雲で覆われているのに遠く和泉葛城山方面の展望はあるし、近くの吉野や竜門山塊は見えないのに大峰方面の稜線はくっきりしている。変な天気だ。少し風が出て、汗が引き寒くなってきたのでツツジ園に移動する。いつもの場所は10人ほどのグループに占領されていたので、少し国民宿舎よりのテーブルに陣取る。湯を沸かし、焼酎を割って暖まる。ラーメンが出来上がる頃、いつも頂上にいる茶色の犬が横に来て座るので、カップの底に残して食べさせてやった。現金な奴で、食べ終わると次のカモを探して向こうのテーブルに行って、そこでまた弁当の残りなど貰っている。賑やかな声にツツジ園の下を見下ろすと、子供達が大勢で雪合戦をしたり、スノーボートで斜面を滑ったりして少ない雪ながら楽しんでいる。急に空が暗くなったと思うと、ちらちらと白いものが落ちてきた。子供達の歓声が大きくなったようだ。

帰りは野鳥観察路から下った。マンサクのツボミは2週間前と殆ど変わらず、ジッと春を待っている風情だった。どんどん降りていくうち、今頃になってお湯割りの焼酎が効いてきて、ぽかぽかと暖かくなってきた。火照った顔を流れで清め、不動寺に帰った。

葛城天神社は葛城の霊峰に鎮座ります。天の神の始祖、国常立命を祭神としてお祈り(ママ)してあります。この境内は「天神の森」と称せられ、古代祭祀の遺跡で加茂(鴨)氏の祖、加茂淀角身命の神跡と伝えられ「鴨山」とも呼ばれています。古来、葛城地方に繁栄した加茂氏をはじめとする諸民族が、この天の神の御神徳を敬い奉仕してまいりました。今日なお人々の信仰厚く、国土安全、万民快楽、五穀豊穣、業の栄えを神掛けてお祈りし御霊験まことにあらたかでございます。(天神社前の掲示板。葛城山の古い別称「天神山」はこの「天神社」があることから出たものと思われる。なお「天神の森」の主な木はブナである。)


この日・あの山 (1月3日)

2017-01-03 05:00:00 | 山日記

*過去の今日はどこの山に登っていたかを振り返ってみました。このシリーズは新しい山行報告ではなく、かなり古い記録や写真も含んでいます。山行の際には、必ず最新の記録をご参考ください。*

1959年1月1日 大学同窓のNと夕刻から比良へ向かう。19時30分、山の家着。同宿30名。

1月2日 始発の江若電鉄で北小松へ。8時30分、ヤマモモの滝。

小白ヶ谷、望武小屋。八ツ渕でラジュウスの調子が悪く、昼食の雑煮がなかなか煮えず。吹雪。八雲避難小屋に泊まる。

1月3日 6時半、武奈ヶ岳登頂。

打見峠で昼食。15時、蓬莱山を経て、17時30分蓬莱駅着。