庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

緑の世界史 クライブ・ャ塔eィング著

2012-07-07 19:53:00 | 拾い読み

・人類史の99%・・・人類の出現以来、今日までの200万年間で、最近の2000??3000年を除けば人類は狩猟と採集で生活を営み、ほとんどの場合、小さな集団で移動しながら暮らしていた。これは紛れもなく、最も環境に適合した融通のきく暮らし方であり、自然生態系への影響も最小限に抑えることができる。p351185067010.jpg

・・・狩猟採集民は、飢えの恐浮ノさらされながら暮らしているわけではない。それどころか、広範囲の食料資源から、栄養的にも優れた食事をしているのである。・・・彼らにとって、食料を集めたりそのほかの生きるための労働に費やさなければならない時間は一日のうちのほんのわずかに過ぎず、遊びに費やす時間や祭祀に当てる時間はふんだんにある。p38

・ブッシュマン・・モンゴンゴの木から取れる非常に栄養価の高い実・・穀物のカロリー5倍、蛋白質10倍。常用植物84種のうち通常23種類、日常17種類だけでも今日の必須栄養水準と比較して、ブッシュマンの食事はなんら遜色がない。カロリー摂取量は必要水準を上回り。蛋白質は3割以上も多い。・・・こうした食物を手に入れるために必要な労働は、決して長時間ではない。平均して週に2日半程度。農耕民とは異なり、労働量は一年中ほぼ一定で、乾季の最盛期を別にすれば、食料調達のために一日10km以上を歩き廻ることはますない。・・・女性は毎日1??3時間働き、残りの時間は余暇を楽しんで暮らしている。男性の狩りはおそらくもっと断続的で、1週間続けて狩りをすれば、2??3週間は全く何もせずに過ごすのだろう。さらに集団の約40%の人々は、食料調達のための仕事をまったくしていない。10人に1人が60歳を超えて長老として敬われ、女性は20歳、男性は25歳頃になって結婚するまでは、食料を集める義務はない。東アフリカのハッツァ族、オーストラリアのアボリジニもでも、事情は良く似ている。p40

・ここで上げた全ての種族は、今では生活条件の悪い辺境地域に追いやられてしまっている。したがって、彼らと同じような集団が、かつて更に好条件の場所で生活していた時には、暮らしぶりははるかに余裕のあるものだったと考えてもよいだろう。残存する多くの先住民が、はるかに労働のきつい農耕に見向きもしないのは当然である。p40

・あるブッシュマンは、人類学者にこう言ったという。「ふんだんにモンゴンゴの実があるのに、何でわざわざ作物をうえたりしなければいかんのかね」と。ノンビリ過ごす時間は、必要以上に食料を集めたり、移動の妨げにしかならない道具を作るよりは、はるかに貴重である。・・・・16世紀にブラジルを訪れたャ泣gガル人も、これと同じような状況をインディオに認めていた。「インディオたちは奴隷でない限り、自分が使う金属器を買うのに必要なだけ働いて、あとは余暇を楽しんでいた」p41

・もっとも信頼に足る推定に寄れば、一部地域で農耕が始められる直前の約1万年前、世界の総人口は多く見積もっても400万人を超えることはなく、それ以前には人口はこれよりかなり少なかったと考えられる。p44

・人類の4大特徴・・・脳、2足歩行、言語、技術的手段(道具)

・本書を読み終わって私が最初に感じたのは、現在、私たちはいかに地球本来の自然を失って貧しい環境に住んでいるか、ということだ。これは、ガラバゴス諸島を訪れた時に、環境客の立ち入りが制限されている島で実感した。島の動物はまったく人間を恐れず、ツグミの一種が頭に止り、ャPットに首を突っ込んでハンカチを引きずり出す。イグアナはまったく人間を無視し、海に潜るとアシカが身体をすり寄せてくる。地球の歴史から見れば、つい最近までこうした豊かな自然が地球のあちこちに広がっていたのに違いない。

・1940??50年代の私の子供時代ですら、東京の都心に近い住宅街でまだ週十種のチョウが採集でき、少し郊外に足を伸ばせば100種類を超える野生植物が容易に集められた。鳥も年間を通して30種くらいは庭で観察できた。過去30??40年をとっても身辺の環境の貧困化は急速に進行した。自然に恵まれた農山村地域の変化はもっと激しい。だが、わたしたちは残された自然を更に貧しくして、子孫の手に渡そうとしている。・・・(訳者・石弘之 あとがき)



読書術 2

2012-07-07 10:00:00 | 追憶

脱線ついでに、私の読書歴を記憶の射程の及ぶ範囲まで辿《たど》ってみる。遠くは初めて文字を読み始めた頃にまで遡《さかのぼ》るが、私が「あいうえお」を覚えたのは、たぶん幼稚園に上がる前の頃だったのだろうと思う。

母はやっと文字を書き始めた一人息子の落書きがよほど嬉しかったのだろう。旧家の南に面した小部屋の壁には、拗音《ようおん》の「ぁ」が抜けた「かあちん」という、縦に大きな赤字がいつまでも残されていた。

昭和三十年代の中頃、終戦直後の混乱期はとうに過ぎてはいたものの、瀬戸内の小島の南岸に位置する小さな漁村は、多少の差はあるにしても、どの家も並《な》べて貧しかった。

日本の島々の漁村のほとんどがそうであるように、この志津見という人口二百人ほど集落のすぐ裏手には山が迫り、田畑に供する平地に乏しく、小山の斜面の多くは段畑に利用されて蜜柑《みかん》や芋・スイカなどが植えられていたが、主食の米は山の反対側にある隣村から調達するしかなかった。

当然ながら、漁村の主産業は「漁業」ということになる。遠方に石鎚山系を望む燧灘《ひうちなだ》の海は様々な魚類だけでなく海藻類にも恵まれ、戦後の食糧難の時期も「食べる」という点では都市部ほど苦労することはなかったらしい。

旧家の庭には鶏《にわとり》が数羽と一頭の山羊《やぎ》が飼われていて、彼らは私たち家族に、かなりの栄養源を提供していた。生みたてのまだ暖かい卵を鶏舎に取りに行き、柔らかく膨《ふく》らんだ山羊の乳を搾《しぼ》るのは、姉と私の毎朝の仕事になった。

家の裏山の南斜面は山頂近くまで何段にもわたる蜜柑畑になっていた。私が物心ついた頃には、元職業軍人の父が戦後関わり続けた漁業関係の仕事は、徐々に政治世界の色合いを濃くし始めていたのだが、蜜柑や八朔《はっさく》生産との兼業は私が高校を卒業するまで続いた。

ここでの作業は初冬の収穫期だけでなく真夏の摘果《てっか》や散水や消毒散布などで結構な体力を要し、時には熱中症気味になってクラクラすることもあった。しかし、父も母もまだ若く、六つ年上の姉も小・中・高と徐々に成長していく私も、それらの作業が嫌だと思ったことはない。

段畑をつなぐ畦道《あぜみち》には一本の大きなビワの木があり、初夏になると黄色い花のような多くの実がなった。姉か私が素早く木に上って甘い実を集める。父と母は下で笑いながら見ている。眼前には漁村の全景が箱庭のように見え、南に広がる大きな海原は遠く四国山脈まで続いている。爽やかな潮風が段畑の斜面を駆け上がり、畦道に腰鰍ッて一休みする皆の頬をなでる。

後に故郷から遠く離れて生活するようになるまでの生家での出来事で、この蜜柑畑《みかんばたけ》での時間ほど、「家族の絆」というものを感じていたときはなかったかもしれない。

  (3につづく)