庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

巧みの技

2012-07-11 11:42:00 | 大空

昨日は若干八歳のカイトボーダーR君の体型に合わせるために、FM君から頂いた122cmツインチップのフット・ストラップ位置を変更する作業に取り鰍ゥった。頑丈に粘着されたフットパット剥がしに朝から少々汗をかき、先日、測っておいたデルリン位置にチェックを入れて堀江のF君の元へ持っていく。GOPR0069.MP4_000022455s1024pix100kb.jpg

彼はすでにメスネジに丸パッキンを蝋着《ろうちゃく》させた部品を4個作って待っていてくれた。特殊なドリルでデッキからボトムに穴を開け、そのパッキン付きメスネジを適当な位置に固定するのだが、その作業手順の素早く鮮やかなこと・・・板を抑《おさ》えて彼の器用な手際《てぎわ》を見ながら、私は、空関係の友人であり職人技術者でもるO君のことを思い出していた。

O君は、ある大企業のスカイスメ[ツ部門でPPGユニット製作の責に任じていた男だが、彼が作ったエンジンユニットは、世界中のPPG(モーターパラ)愛好家に信頼され、後に、新任社長の一声で、この企業が空の分野から撤退した後も、次々に舞い込む注文や部品の供給や面唐ネ問い合わせへの対応に孤軍奮闘していた。image004.jpg

私は十年近くそのディーラーをしていた。利に疎《うと》い職人気質の彼とはどこか気が合うところがあって少し深い付き合いをすることになるのだが、互いに共通した意見の一つは、「いわゆるモノ作りの世界で、「巧《たく》みの技」を保持している国は、日本とドイツとイタリアである。その理由はこれらの国々の巧み職人の長い伝統の中にあり、ほとんど遺伝的ともいえる繊細な美的感性と洗練された件p的才能によるものであろう」というものだった。1152529729.jpg

実際、十九世紀末期に現代のハンググライダーに酷似したものや複葉型にしたような飛行道具を創作し、二千回以上にもわたる滑空実験を繰り返しながら揚力・抗力(揚抗比)などの諸データを蓄積して、二十世紀初頭のライト兄弟による動力飛行を導いたのは、ドイツのオットー・リリエンタールだった。イタリアの十五世紀には、あの超天才・レオナルド・ダビンチがいた。彼は成人してから四十年間に渡って飛行の問題にも取り組み、鳥の飛行翼の構造を解剖学的に解明し考案したオーニソプター(羽ばたき翼)で人間の筋力が最大に働くように考えたり、ヘリコプターの原型らしきもののスケッチを残しているのは有名な事実である。このような製図は十八世紀後半までのどんな航空関係者にも知られることは無かった。image001.jpg

あまり広くは知られてないが、日本でも、幾らか有名な愛媛・八幡浜の二宮忠八に先立つこと百年以上の江戸時代中期、備前(岡山)の表具師(家具職人)・浮田幸吉《うきたこうきち》は、リリエンタールの滑空翼に似たものを自作して、橋の欄干からの滑空飛行に成功した・・・という間接資料がある。

PPG(モーターパラ)に関しては、フランスのアドベンチャー社が先駆けるのだが、使用エンジンはドイツ製のソロ210《ツーテン》という頑強この上ないものだったし、ドイツのフレッシュブリーズ社は当然、長い間これを使っていた。イタリアのフライプロダクツ社も同様。日本ではある零細企業の極めて優秀な職人が航空用の超小型二気筒250ccエンジンを作り上げて、世界のPPGフライヤーを驚かせた。このエンジンの信頼性は他の群を抜いていた。私が南アの世界戦で使ったのもこのタイプで、競技用に持ち込んだ3台を含めた5台が、大会終了後、現地で完売したことはどこかの記事にも書いた。

巧み職人の世界が空の世界に跳躍すると、またまた長い長いお話しが始まる。また別の機会に触れることもあるだろう。



クラウス博士紹介記事 ジャパンタイムズ

2012-07-11 10:05:00 | 平和

 2019年7月21日、参院の通常選挙がもうじきやって来る。選ばれる国会議員は、もちろん国政に関わっていくわけで、彼ら(といっても大方は法務官僚)が作る法律は、否応なく我々国民すべてを強制する。

ところが、今回(だけではない)の争点、従って勝敗のャCントは、言うまでもなく「改憲」、なかんずく「第九条の平和条項」をどうするか・・・ということになるだろう。

「押しつけ憲法論」が架空の作りごとであるという事実は、もうとうの前から、知る人は知っている。その確たる証拠も公開済みだ。必要ならここへも何回でも掲載する。

しかし、憲法について、私たち国民がまず知るべきことは、憲法はそこらの法令などとは全く異なり、向き(ベクトル)が逆になっているということだ。

つまり、「法令は国民を拘束し、憲法は法令や、それらを作る人間を拘束する」という大原則で、これが、現在日本国が採用している、「立憲民主主義」の要だ。だからまあ、所謂「権力」周辺の人たちが、人権規定や平和条項などを「押しつけられた」と感じるのは当然と言えば当然のことではある。

だがしかし、そもそも、憲法によって拘束されるべき人たちが、これら「憲法論議に火を付け扇動しようとする人たち」に成り上り下がりしてどうするか!、それを私たち国民が是としてどうするか!・・・ということである。改正にせよ改悪にせよ、それは統治を余儀なくされる国民の側から起こるものでなければならない。

日本という国家が、先のバカげた戦争で、数え切れないほどの悲劇や苦悩の末に「生み出した」平和条項の尊く希有なることを、世界中に向かって、声高に叫び続けている一人の人物を、今回ここでも紹介する。

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『歴史平和学者クラウス博士の紹介記事』

 ジャパンタイムズ 2003年3月15日


《 歴史学者 平和に向けて 国際連合への明確な権限委譲の道を探求 》

 by:アンジェラ・ジェフス  末F渡辺かんじ japantimes-interview-s.jpg


ドイツ生まれのクラウス・シルヒトマン氏は歴史平和学者である。その人生後半において、あらゆる意味での「探求者」としての生き方を見出した学者だ。

彼は現在、埼玉県の日高市に住んでいる。私たちは、ちょうとジャパンタイムズ社との中間地点にある、彼がかつて教鞭をとっていた上智大学の校門前で会うことにした。彼の最大の関心事は国際連合に何が起こっているかだったが、インドへ研究旅行に出かける準備中でもあった。これは彼をアメリカのイラク攻撃から近い場所に置くことになる。彼の当面の疑問は、そこで何が起こるのか?・・・ということであった。

「国際連合は、現在、世界政府に代わる役割を果たすべく、大変な努力をしていることが分かります」「しかし、国際連合には、何の統治権も、平和に向けての権限委譲もなく、それが本来達成すべき内容を考えると制限された状態にあります」更に彼は言う。「実に日本の平和憲法第9条は世界政府の樹立を目指しているのです」

世界平和への提案は、国際連合で半世紀以上も扱われています・・・彼は説明を続ける。

通常、ある議案が提出されたら、次に続く民主的なステップは何でしょう? その議案は支持される必要があります。では、その前には何が成されるべきでしょう? 議論です。そして、投票という審判を受けることになるのです。国連に本当の権力を持たせるという問題は、今まで公式には議論されたことがありませんでした。どの国も日本の戦争廃絶への動きを支持するという提案をしなかったからです。

彼は第二次世界大戦が終焉する一年と三ヶ月前にハンブルグに生を受けたが、東西分断という紛争の悪夢はほんの10年余り前に終わったばかりだった。「心の中に傷はありません。母が私を守ってくれました。しかし、戦争の問題は10代の頃から私の心の中の大きな部分を占めていました」そして、彼は「白いミルクが黒色に変わる」という一行を入れてヒロシマを詠った詩を書いたことを思い起こす。

彼は件p家になろうと思い立って高等学校を中退したが徴兵を逃れたいと思った。ローマでの一年間を絵画と音楽(トロンボーンジャズ)で過ごした。学生時代に仏教についての書物を読んだこともあり、赤レンガの学校の内で学ぶよりも外の世界で学ぶ方がより良いと判断した。そして、1964年に陸路でインドに向かう。「トルコで知り合った友人がパキスタンで病気になったので、その後は一人旅でした」

バラナシ(北インド、ガンジス川左岸にある。ヒンズー教の聖なる七都市の一つ)に着いてから半年間、彼は仏教徒の法衣を着る。その後ヒンズー教徒に招かれて、市内のサンスクリット大学で中国語と日本語を学びながら、同時に教えた。「今でも勉強を続けていれたらなあ、と思います」その後、彼はグラフィックデザインの工房を開くためにネパールに向かう。しかし、それは失敗して、西ベンガルでソーシャルワークと地域振興の仕事に携わることになる。

カーリーの寺院に滞在した後、「狂人のように放浪しながら」最終的にクラウスは巡礼の旅に出た。動物の皮を縫い合わせ、その上にワックスとニスを塗って一艘のカヤックを作り、ガンジス河を下る。「その後の二年間、ほとんど徒歩でインド中を旅しました」

1976年にドイツに帰る。「ワールドパスメ[ト」を発行していたゲリー・デイビスの「世界市民」の話を聞いて、世界政府の仕事を始め、平和運動の活動家になる。1980年に世界連邦機構の議長に選任されから、幾つかの国連の会議を含む国際会議に出席する。そして、民主的で実際的な「世界憲法」を収集する作業をする。

この仕事や後の歴史平和社会学会の会員であることを通して、彼は「平和社会学者」とか「歴史平和研究家」とか「平和歴史学者」というような肩書きを持つこととなる。「コンピューターで私の名前を検索してみてください。少なからぬ記事や論文が出てくると思います」

彼が本気になって、キール大学で政治科学、歴史、国際法の研究を始めたのは41歳の時である。(私は「遅咲きの花なんですよ」彼は冗談で言う)1990年に博士号を取得した後、日本政府のベルリンセンターの奨学金を得て日本で研究を続けることになる。

彼の研究テーマは日本の政治家であり平和主義者であった幣原喜重郎(1872-1951)だった。「彼は1920年代の国際政治の舞台で中心的な役割を演じていました。当時、日本は主権国として、西欧諸国が政治目標と理解されていたこと、つまり戦争を中止・廃止して効果的な世界平和機構と創設しようという動きを支持しながら、それに積極的に参加する努力もしていたのです」

幣原は1945年10月から1946年5月まで首相でしたが、戦争廃止をうたった日本国憲法9条を1946年1月24日にダグラス・マッカーサーに提案したのも彼であります。「実業家としても、彼は日本の国益に反するようなことに関係しなかった。決定的に他と異なっていたのは彼が採った方法でした」

クラウスは、日本政府が外国からの圧力に抗して9条の精神を守ることについてずっと良心的であると信じている。

「読売新聞が一国平和主義を批判しながら改憲の議論を提起するなど、9条は侵食され続けていますが、その「軍事力を使わない」という中心の一点は変わっていません。だから、日本が自衛隊を持つ限り、他の国々は、なんとしても、戦争の悪習から脱するために国家主権を制限するという9条を「支持」することによって、日本が“一国平和主義”であるという境遇を認めなければいけません」

もし他の国、例えばドイツなどアメリカのブッシュ政権の戦争挑発主義に対抗する勇気を持った国が、この貴重な日本国憲法的「行動」を支持するならば、その議案は公式な議論討論の場に開かれたものとなるでしょう。そして、国際連合の戦争廃止問題についての議論は、どんな国にとっても反対することは非常に困難なものとなるでしょう。

「もし充分な数の国々が先例に従うならば・・・」彼は続ける。「安全保障理事会の常任理事国を含む全ての国々、そして結果的にはアメリカも武装解除することがあり得ます」

もちろん多くの障害があるだろう。今現在、富と力はごく限られた国々が握っている。より公平な富の分配が行われるようにならなければ、不平等が存在する世界中の大部分に根強い怒りが滞留する。例えばアメリカは、世界人口の6%にすぎないが、世界中の富の50%を独占している。

「私たちは、ベルリンの壁が崩壊した後の1990年代、“平和の配当”ともいえるものを全て浪費しましました。良いチャンスを逃してしまったのです。ヨーロッパは国連に入って、「我々は国連を支持する」と言うべきです。私たちは国連に本物の力を与えなければなりません。そのために国連はあるのですから。しかし、そのプロセスにおいてはアメリカの力を必要とするかもしれません。もしヨーロッパの国々が、日本が成し遂げたように、国家主権の一部を放棄することによって国連に合法的に権限を与えるなら、アメリカも協力するでしょう」



クラウス博士の紹介記事

2012-07-11 09:44:00 | 平和

『歴史平和学者クラウス博士の紹介記事』

ジャパンタイムズ 2003年3月15日

《 歴史学者 平和に向けて 国際連合への明確な権限委譲の道を探求 》

by:アンジェラ・ジェフス  末F渡辺寛爾 japantimes-interview-s.jpg

ドイツ生まれのクラウス・シルヒトマン氏は歴史平和学者である。その人生後半において、あらゆる意味での「探求者」としての生き方を見出した学者だ。

彼は現在、埼玉県の日高市に住んでいる。私たちは、ちょうとジャパンタイムズ社との中間地点にある、彼がかつて教鞭をとっていた上智大学の校門前で会うことにした。彼の最大の関心事は国際連合に何が起こっているかだったが、インドへ研究旅行に出かける準備中でもあった。これは彼をアメリカのイラク攻撃から近い場所に置くことになる。彼の当面の疑問は、そこで何が起こるのか?・・・ということであった。

「国際連合は、現在、世界政府に代わる役割を果たすべく、大変な努力をしていることが分かります」「しかし、国際連合には、何の統治権も、平和に向けての権限委譲もなく、それが本来達成すべき内容を考えると制限された状態にあります」更に彼は言う。「実に日本の平和憲法第9条は世界政府の樹立を目指しているのです」

世界平和への提案は、国際連合で半世紀以上も扱われています・・・彼は説明を続ける。

通常、ある議案が提出されたら、次に続く民主的なステップは何でしょうか? その議案は支持される必要があります。では、その前には何が成されるべきでしょう? 議論です。そして、投票という審判を受けることになるのです。国連に本当の権力を持たせるという問題は、今まで公式には議論されたことがありませんでした。どの国も日本の戦争廃絶への動きを支持するという提案をしなかったからです。

彼は第二次世界大戦が終焉する一年と三ヶ月前にハンブルグに生を受けたが、東西分断という紛争の悪夢はほんの10年余り前に終わったばかりだった。「心の中に傷はありません。母が私を守ってくれました。しかし、戦争の問題は10代の頃から私の心の中の大きな部分を占めていました」そして、彼は「白いミルクが黒色に変わる」という一行を入れてヒロシマを詠った詩を書いたことを思い起こす。

彼は件p家になろうと思い立って高等学校を中退したが徴兵を逃れたいと思った。ローマでの一年間を絵画と音楽(トロンボーンジャズ)で過ごした。学生時代に仏教についての書物を読んだこともあり、赤レンガの学校の内で学ぶよりも外の世界で学ぶ方がより良いと判断した。そして、1964年に陸路でインドに向かう。「トルコで知り合った友人がパキスタンで病気になったので、その後は一人旅でした」

バラナシ(北インド、ガンジス川左岸にある。ヒンズー教の聖なる七都市の一つ)に着いてから半年間、彼は仏教徒の法衣を着る。その後ヒンズー教徒に招かれて、市内のサンスクリット大学で中国語と日本語を学びながら、同時に教えた。「今でも勉強を続けていれたらなあ、と思います」その後、彼はグラフィックデザインの工房を開くためにネパールに向かう。しかし、それは失敗して、西ベンガルでソーシャルワークと地域振興の仕事に携わることになる。

カーリーの寺院に滞在した後、「狂人のように放浪しながら」最終的にクラウスは巡礼の旅に出た。動物の皮を縫い合わせ、その上にワックスとニスを塗って一艘のカヤックを作り、ガンジス河を下る。「その後の二年間、ほとんど徒歩でインド中を旅しました」

1976年にドイツに帰る。「ワールドパスメ[ト」を発行していたゲリー・デイビスの「世界市民」の話を聞いて、世界政府の仕事を始め、平和運動の活動家になる。1980年に世界連邦機構の議長に選任されから、幾つかの国連の会議を含む国際会議に出席する。そして、民主的で実際的な「世界憲法」を収集する作業をする。

この仕事や後の歴史平和社会学会の会員であることを通して、彼は「平和社会学者」とか「歴史平和研究家」とか「平和歴史学者」というような肩書きを持つこととなる。「コンピューターで私の名前を検索してみてください。少なからぬ記事や論文が出てくると思います」

彼が本気になって、キール大学で政治科学、歴史、国際法の研究を始めたのは41歳の時である。(私は「遅咲きの花なんですよ」彼は冗談で言う)1990年に博士号を取得した後、日本政府のベルリンセンターの奨学金を得て日本で研究を続けることになる。

彼の研究テーマは日本の政治家であり平和主義者であった幣原喜重郎(1872-1951)だった。「彼は1920年代の国際政治の舞台で中心的な役割を演じていました。当時、日本は主権国として、西欧諸国が政治目標と理解されていたこと、つまり戦争を中止・廃止して効果的な世界平和機構と創設しようという動きを支持しながら、それに積極的に参加する努力もしていたのです」

幣原は1945年10月から1946年5月まで首相でしたが、戦争廃止をうたった日本国憲法9条を1946年1月24日にダグラス・マッカーサーに提案したのも彼であります。「実業家としても、彼は日本の国益に反するようなことに関係しなかった。決定的に他と異なっていたのは彼が採った方法でした」

クラウスは、日本政府が外国からの圧力に抗して9条の精神を守ることについてずっと良心的であると信じている。

「読売新聞が一国平和主義を批判しながら改憲の議論を提起するなど、9条は侵食され続けていますが、その′R事力を使わない≠ニいう中心の一点は変わっていません。だから、日本が自衛隊を持つ限り、他の国々は、なんとしても、戦争の悪習から脱するために国家主権を制限するという9条を「支持」することによって、日本が“一国平和主義”であるという境遇を認めなければいけません」

もし他の国、例えばドイツなどアメリカのブッシュ政権の戦争挑発主義に対抗する勇気を持った国が、この貴重な日本国憲法的「行動」を支持するならば、その議案は公式な議論討論の場に開かれたものとなるでしょう。そして、国際連合の戦争廃止問題についての議論は、どんな国にとっても反対することは非常に困難なものとなるでしょう。

「もし充分な数の国々が先例に従うならば・・・」彼は続ける。「安全保障理事会の常任理事国を含む全ての国々、そして結果的にはアメリカも武装解除することがあり得ます」

もちろん多くの障害があるだろう。今現在、富と力はごく限られた国々が握っている。より公平な富の分配が行われるようにならなければ、不平等が存在する世界中の大部分に根強い怒りが滞留する。例えばアメリカは、世界人口の6%にすぎないが、世界中の富の50%を独占している。

「私たちは、ベルリンの壁が崩壊した後の1990年代、“平和の配当”ともいえるものを全て浪費しましました。良いチャンスを逃してしまったのです。ヨーロッパは国連に入って、「我々は国連を支持する」と言うべきです。私たちは国連に本物の力を与えなければなりません。そのために国連はあるのですから。しかし、そのプロセスにおいてはアメリカの力を必要とするかもしれません。もしヨーロッパの国々が、日本が成し遂げたように、国家主権の一部を放棄することによって国連に合法的に権限を与えるなら、アメリカも協力するでしょう」