庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

さようなら原発1000万人 アクション

2012-07-16 22:29:00 | 政治
さようなら原発1000万人 アクション」に賛同署名した。現在総計800万人弱。 

原発が全て無くなれば、当面、電気不足になり、大小の不便は起こるだろう。しかし、自然界はもともと「膨大なエネルギー」で満ちている。大自然とはそもそも、あらゆる「エネルギー」のカタマリみたいなものだ。こんなことは心ある人々は皆知っている。 

覇権や利権好きの人たちには期待しない方が賢明であることは言うまでもなく、日本も含めて世界のより多くの人たちがその一部でも取り出す努力を進めれば、電力供給に限っても、たちまち解決するであろうことは明らかで、まあ、先の人たちの邪魔に右往左往しなければ、まちがいなく、「心配無用」のエネルギー社会が実現する・・・と私はここに予言しておく。 

似たような思いでいる方は、ぜひ署名参加していただければ・・・と願う。

読書術 3

2012-07-13 13:02:00 | 追憶

概して病弱な子供は熱心な読書家になる。一つは他に楽しい遊びを知らず、一つは家庭の中にそれなりの書物と環境がある場合。加藤周一などはその典型で、『羊の歌』の「病身」の章では、その辺りの事情が詩的ともいえる美しい表現で語られている。もっとも彼の書いたものは大体において詩的なのだが・・・。

子供時代の私はさほど病弱でもなかったが強靭でもなく、しばしば原因不明の熱を出して、幼稚園児の頃に一時、今治の病院に入院していたことがある。しかし、そこにあったのは書物ではなく、若く美しい看護婦さんの優しい笑顔と、夕方五時になると決まって街のどこかから流れ響くドヴォルザークの「家路」だった。

「遠き山に日は落ちて・・・」の旋律は、その後長く私の耳奥に残り、いつどこでこのメロディーを聞いても、あの白い病室とアルコールの匂いと、病院という秩序正しく閉じた世界の暖かさを、ある種の哀愁と共に思い出す。そして家庭の中には、当時、母が読んでいた『婦人の友』の他に、父の仕事関係の実用書や辞書類を除いて書物らしい書物はなかった。

生家の周囲には大自然の運動場があり無限に広いプールがあり、元気この上ない漁村の子供友達が大勢いたから、屋外での遊びに事欠く要素は一つもなかった。だから、ある年齢に達すると幼稚園という窮屈で退屈な檻のような施設に通わなければならない、という事の理由が納得できるはずがない。

しかも、その幼稚園は一山超えた四kmも彼方にあり、そこまで子供用の自転車で行けというのだ。私が毎朝、お隣の玄関柱にしがみ付いて泣きながら登園を拒否した・・・という話を母はよくしていた。それでも、狭い幼稚園の中庭の様子や「お昼寝」の一刻や遠足の風景などをかすかに覚えているということは、ある程度はこの苦行に耐えていたのだろう。

小学校に上がっても、原因不明の発熱はときどきやってきて、これを幸いによく学校を休んだ。外で遊べなくても学校よりはまだまし。カッチンカッチンと正確に振り子を揺らす柱時計の音《ね》を聞き、天井板に散らばる節模様の中に様々な鬼妖怪の姿を見るのに飽きたら、たまに買ってくれるプラモデル作りを除いて、小学館の月刊誌『小学○年生』を眺めるくらいしかすることがなかった。この子供向け学習雑誌の中には、算数や国語などの他にも、それなりに面白い科学的・件p的記述もあったはずなのだが、私の記憶には「鉄のサムソン」などマンガの類しか残っていない。

そして、小学校六年生の時に、この繰り返し訪れる発熱の原因が、どうやら扁桃腺《へんとうせん》の異常にあるらしいという診断が下された。再び、幼稚園の頃に入院していたあの病院に舞い戻って切除手術を受けることになる。

その手術の手順はまことに原始的なもので、2012年現在の内科医が、もしも同じことを自分の子供にしたら、私は躊躇なくその医者を殴り唐キだろう。優しい看護婦は後ろから私の両目を塞いでことの成り行きを見えないように努力していたけれども、指の間には隙間《すきま》というものがある。浣腸器のような太い注射器を喉の奥にズブリと刺して部分麻酔した後、キラリと光るハサミを突っ込んで扁桃腺の根元からパチンと切断する過程を、私は全て見ていた。51ysHKaVKfL__SS500_.jpg

ところが、あの麻酔注射は何の用をなしたのか・・・それはまさに「これまで生きてきた中で最大の痛み」だった。入院期間は一週間ほどだっただろうか・・・術後3日ほど経ち、やっと少量の水が飲めるようになった頃に、父が「よく頑張った!」、と最たる苦行に耐えた褒美《ほうび》として、「今治タイガー」というステーキハウスに連れて行ってくれたのだが、当時は余程のことがなければ目にすることのなかった分厚いステーキが私の喉を通過することはなかった。しかし、この苦行の褒美はステーキだけではなかった。

父母の出自については、別に詳しく述べることもあるだろう。ただ少し母方の事情に触れると、母は十六歳の今治女学校卒業直前に、父つまり私の祖父を佐世保の軍需工場の爆撃で亡くし、その後多くの同級生が選択した教師への道を諦《あきら》めて、ちょうど終戦直後のその歳、戦後処理の任務に当たっていた海軍仕官(博多武官付)の妻になった。

彼女は長女で、幼い頃に病死した男子の他、下に三人の姉妹がいた。その末っ子とは歳の差が十四もあったが、彼女がちょっと変わった女性で、当時としては珍しく、周囲の反対を押し切って単身アメリカ西海岸に留学し、帰国後、貿易商社の秘書を仕事とした。51kz0vcEuKL__SS500_.jpg

その「Yねえちゃん」(と私は呼んでいた)が、入院中の甥(私)への見舞い品として置いて行ったのが、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』とジョージ・ウェルズの『宇宙戦争』の二冊だった。この二冊の本は、私と同世代の少年たちが活躍する、はるか彼方《かなた》の世界に大冒険の数々が確かに存在することを鮮やかに教え、ビルよりも高い脚を持った宇宙船が簡単に人類文明を破壊し、タコのような火星人の気色の悪い触手が病室のドアの隙間から今にも侵入してくるのではないか、と錯覚するくらい強烈な衝撃を私に与えた。

扁桃腺熱の終わりの時は、その後遭遇するであろう多くの書物がもたらす衝撃の歴史の、始まりの時でもあったのである。

 (その4につづく)



巧みの技

2012-07-11 11:42:00 | 大空

昨日は若干八歳のカイトボーダーR君の体型に合わせるために、FM君から頂いた122cmツインチップのフット・ストラップ位置を変更する作業に取り鰍ゥった。頑丈に粘着されたフットパット剥がしに朝から少々汗をかき、先日、測っておいたデルリン位置にチェックを入れて堀江のF君の元へ持っていく。GOPR0069.MP4_000022455s1024pix100kb.jpg

彼はすでにメスネジに丸パッキンを蝋着《ろうちゃく》させた部品を4個作って待っていてくれた。特殊なドリルでデッキからボトムに穴を開け、そのパッキン付きメスネジを適当な位置に固定するのだが、その作業手順の素早く鮮やかなこと・・・板を抑《おさ》えて彼の器用な手際《てぎわ》を見ながら、私は、空関係の友人であり職人技術者でもるO君のことを思い出していた。

O君は、ある大企業のスカイスメ[ツ部門でPPGユニット製作の責に任じていた男だが、彼が作ったエンジンユニットは、世界中のPPG(モーターパラ)愛好家に信頼され、後に、新任社長の一声で、この企業が空の分野から撤退した後も、次々に舞い込む注文や部品の供給や面唐ネ問い合わせへの対応に孤軍奮闘していた。image004.jpg

私は十年近くそのディーラーをしていた。利に疎《うと》い職人気質の彼とはどこか気が合うところがあって少し深い付き合いをすることになるのだが、互いに共通した意見の一つは、「いわゆるモノ作りの世界で、「巧《たく》みの技」を保持している国は、日本とドイツとイタリアである。その理由はこれらの国々の巧み職人の長い伝統の中にあり、ほとんど遺伝的ともいえる繊細な美的感性と洗練された件p的才能によるものであろう」というものだった。1152529729.jpg

実際、十九世紀末期に現代のハンググライダーに酷似したものや複葉型にしたような飛行道具を創作し、二千回以上にもわたる滑空実験を繰り返しながら揚力・抗力(揚抗比)などの諸データを蓄積して、二十世紀初頭のライト兄弟による動力飛行を導いたのは、ドイツのオットー・リリエンタールだった。イタリアの十五世紀には、あの超天才・レオナルド・ダビンチがいた。彼は成人してから四十年間に渡って飛行の問題にも取り組み、鳥の飛行翼の構造を解剖学的に解明し考案したオーニソプター(羽ばたき翼)で人間の筋力が最大に働くように考えたり、ヘリコプターの原型らしきもののスケッチを残しているのは有名な事実である。このような製図は十八世紀後半までのどんな航空関係者にも知られることは無かった。image001.jpg

あまり広くは知られてないが、日本でも、幾らか有名な愛媛・八幡浜の二宮忠八に先立つこと百年以上の江戸時代中期、備前(岡山)の表具師(家具職人)・浮田幸吉《うきたこうきち》は、リリエンタールの滑空翼に似たものを自作して、橋の欄干からの滑空飛行に成功した・・・という間接資料がある。

PPG(モーターパラ)に関しては、フランスのアドベンチャー社が先駆けるのだが、使用エンジンはドイツ製のソロ210《ツーテン》という頑強この上ないものだったし、ドイツのフレッシュブリーズ社は当然、長い間これを使っていた。イタリアのフライプロダクツ社も同様。日本ではある零細企業の極めて優秀な職人が航空用の超小型二気筒250ccエンジンを作り上げて、世界のPPGフライヤーを驚かせた。このエンジンの信頼性は他の群を抜いていた。私が南アの世界戦で使ったのもこのタイプで、競技用に持ち込んだ3台を含めた5台が、大会終了後、現地で完売したことはどこかの記事にも書いた。

巧み職人の世界が空の世界に跳躍すると、またまた長い長いお話しが始まる。また別の機会に触れることもあるだろう。



クラウス博士紹介記事 ジャパンタイムズ

2012-07-11 10:05:00 | 平和

 2019年7月21日、参院の通常選挙がもうじきやって来る。選ばれる国会議員は、もちろん国政に関わっていくわけで、彼ら(といっても大方は法務官僚)が作る法律は、否応なく我々国民すべてを強制する。

ところが、今回(だけではない)の争点、従って勝敗のャCントは、言うまでもなく「改憲」、なかんずく「第九条の平和条項」をどうするか・・・ということになるだろう。

「押しつけ憲法論」が架空の作りごとであるという事実は、もうとうの前から、知る人は知っている。その確たる証拠も公開済みだ。必要ならここへも何回でも掲載する。

しかし、憲法について、私たち国民がまず知るべきことは、憲法はそこらの法令などとは全く異なり、向き(ベクトル)が逆になっているということだ。

つまり、「法令は国民を拘束し、憲法は法令や、それらを作る人間を拘束する」という大原則で、これが、現在日本国が採用している、「立憲民主主義」の要だ。だからまあ、所謂「権力」周辺の人たちが、人権規定や平和条項などを「押しつけられた」と感じるのは当然と言えば当然のことではある。

だがしかし、そもそも、憲法によって拘束されるべき人たちが、これら「憲法論議に火を付け扇動しようとする人たち」に成り上り下がりしてどうするか!、それを私たち国民が是としてどうするか!・・・ということである。改正にせよ改悪にせよ、それは統治を余儀なくされる国民の側から起こるものでなければならない。

日本という国家が、先のバカげた戦争で、数え切れないほどの悲劇や苦悩の末に「生み出した」平和条項の尊く希有なることを、世界中に向かって、声高に叫び続けている一人の人物を、今回ここでも紹介する。

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『歴史平和学者クラウス博士の紹介記事』

 ジャパンタイムズ 2003年3月15日


《 歴史学者 平和に向けて 国際連合への明確な権限委譲の道を探求 》

 by:アンジェラ・ジェフス  末F渡辺かんじ japantimes-interview-s.jpg


ドイツ生まれのクラウス・シルヒトマン氏は歴史平和学者である。その人生後半において、あらゆる意味での「探求者」としての生き方を見出した学者だ。

彼は現在、埼玉県の日高市に住んでいる。私たちは、ちょうとジャパンタイムズ社との中間地点にある、彼がかつて教鞭をとっていた上智大学の校門前で会うことにした。彼の最大の関心事は国際連合に何が起こっているかだったが、インドへ研究旅行に出かける準備中でもあった。これは彼をアメリカのイラク攻撃から近い場所に置くことになる。彼の当面の疑問は、そこで何が起こるのか?・・・ということであった。

「国際連合は、現在、世界政府に代わる役割を果たすべく、大変な努力をしていることが分かります」「しかし、国際連合には、何の統治権も、平和に向けての権限委譲もなく、それが本来達成すべき内容を考えると制限された状態にあります」更に彼は言う。「実に日本の平和憲法第9条は世界政府の樹立を目指しているのです」

世界平和への提案は、国際連合で半世紀以上も扱われています・・・彼は説明を続ける。

通常、ある議案が提出されたら、次に続く民主的なステップは何でしょう? その議案は支持される必要があります。では、その前には何が成されるべきでしょう? 議論です。そして、投票という審判を受けることになるのです。国連に本当の権力を持たせるという問題は、今まで公式には議論されたことがありませんでした。どの国も日本の戦争廃絶への動きを支持するという提案をしなかったからです。

彼は第二次世界大戦が終焉する一年と三ヶ月前にハンブルグに生を受けたが、東西分断という紛争の悪夢はほんの10年余り前に終わったばかりだった。「心の中に傷はありません。母が私を守ってくれました。しかし、戦争の問題は10代の頃から私の心の中の大きな部分を占めていました」そして、彼は「白いミルクが黒色に変わる」という一行を入れてヒロシマを詠った詩を書いたことを思い起こす。

彼は件p家になろうと思い立って高等学校を中退したが徴兵を逃れたいと思った。ローマでの一年間を絵画と音楽(トロンボーンジャズ)で過ごした。学生時代に仏教についての書物を読んだこともあり、赤レンガの学校の内で学ぶよりも外の世界で学ぶ方がより良いと判断した。そして、1964年に陸路でインドに向かう。「トルコで知り合った友人がパキスタンで病気になったので、その後は一人旅でした」

バラナシ(北インド、ガンジス川左岸にある。ヒンズー教の聖なる七都市の一つ)に着いてから半年間、彼は仏教徒の法衣を着る。その後ヒンズー教徒に招かれて、市内のサンスクリット大学で中国語と日本語を学びながら、同時に教えた。「今でも勉強を続けていれたらなあ、と思います」その後、彼はグラフィックデザインの工房を開くためにネパールに向かう。しかし、それは失敗して、西ベンガルでソーシャルワークと地域振興の仕事に携わることになる。

カーリーの寺院に滞在した後、「狂人のように放浪しながら」最終的にクラウスは巡礼の旅に出た。動物の皮を縫い合わせ、その上にワックスとニスを塗って一艘のカヤックを作り、ガンジス河を下る。「その後の二年間、ほとんど徒歩でインド中を旅しました」

1976年にドイツに帰る。「ワールドパスメ[ト」を発行していたゲリー・デイビスの「世界市民」の話を聞いて、世界政府の仕事を始め、平和運動の活動家になる。1980年に世界連邦機構の議長に選任されから、幾つかの国連の会議を含む国際会議に出席する。そして、民主的で実際的な「世界憲法」を収集する作業をする。

この仕事や後の歴史平和社会学会の会員であることを通して、彼は「平和社会学者」とか「歴史平和研究家」とか「平和歴史学者」というような肩書きを持つこととなる。「コンピューターで私の名前を検索してみてください。少なからぬ記事や論文が出てくると思います」

彼が本気になって、キール大学で政治科学、歴史、国際法の研究を始めたのは41歳の時である。(私は「遅咲きの花なんですよ」彼は冗談で言う)1990年に博士号を取得した後、日本政府のベルリンセンターの奨学金を得て日本で研究を続けることになる。

彼の研究テーマは日本の政治家であり平和主義者であった幣原喜重郎(1872-1951)だった。「彼は1920年代の国際政治の舞台で中心的な役割を演じていました。当時、日本は主権国として、西欧諸国が政治目標と理解されていたこと、つまり戦争を中止・廃止して効果的な世界平和機構と創設しようという動きを支持しながら、それに積極的に参加する努力もしていたのです」

幣原は1945年10月から1946年5月まで首相でしたが、戦争廃止をうたった日本国憲法9条を1946年1月24日にダグラス・マッカーサーに提案したのも彼であります。「実業家としても、彼は日本の国益に反するようなことに関係しなかった。決定的に他と異なっていたのは彼が採った方法でした」

クラウスは、日本政府が外国からの圧力に抗して9条の精神を守ることについてずっと良心的であると信じている。

「読売新聞が一国平和主義を批判しながら改憲の議論を提起するなど、9条は侵食され続けていますが、その「軍事力を使わない」という中心の一点は変わっていません。だから、日本が自衛隊を持つ限り、他の国々は、なんとしても、戦争の悪習から脱するために国家主権を制限するという9条を「支持」することによって、日本が“一国平和主義”であるという境遇を認めなければいけません」

もし他の国、例えばドイツなどアメリカのブッシュ政権の戦争挑発主義に対抗する勇気を持った国が、この貴重な日本国憲法的「行動」を支持するならば、その議案は公式な議論討論の場に開かれたものとなるでしょう。そして、国際連合の戦争廃止問題についての議論は、どんな国にとっても反対することは非常に困難なものとなるでしょう。

「もし充分な数の国々が先例に従うならば・・・」彼は続ける。「安全保障理事会の常任理事国を含む全ての国々、そして結果的にはアメリカも武装解除することがあり得ます」

もちろん多くの障害があるだろう。今現在、富と力はごく限られた国々が握っている。より公平な富の分配が行われるようにならなければ、不平等が存在する世界中の大部分に根強い怒りが滞留する。例えばアメリカは、世界人口の6%にすぎないが、世界中の富の50%を独占している。

「私たちは、ベルリンの壁が崩壊した後の1990年代、“平和の配当”ともいえるものを全て浪費しましました。良いチャンスを逃してしまったのです。ヨーロッパは国連に入って、「我々は国連を支持する」と言うべきです。私たちは国連に本物の力を与えなければなりません。そのために国連はあるのですから。しかし、そのプロセスにおいてはアメリカの力を必要とするかもしれません。もしヨーロッパの国々が、日本が成し遂げたように、国家主権の一部を放棄することによって国連に合法的に権限を与えるなら、アメリカも協力するでしょう」



クラウス博士の紹介記事

2012-07-11 09:44:00 | 平和

『歴史平和学者クラウス博士の紹介記事』

ジャパンタイムズ 2003年3月15日

《 歴史学者 平和に向けて 国際連合への明確な権限委譲の道を探求 》

by:アンジェラ・ジェフス  末F渡辺寛爾 japantimes-interview-s.jpg

ドイツ生まれのクラウス・シルヒトマン氏は歴史平和学者である。その人生後半において、あらゆる意味での「探求者」としての生き方を見出した学者だ。

彼は現在、埼玉県の日高市に住んでいる。私たちは、ちょうとジャパンタイムズ社との中間地点にある、彼がかつて教鞭をとっていた上智大学の校門前で会うことにした。彼の最大の関心事は国際連合に何が起こっているかだったが、インドへ研究旅行に出かける準備中でもあった。これは彼をアメリカのイラク攻撃から近い場所に置くことになる。彼の当面の疑問は、そこで何が起こるのか?・・・ということであった。

「国際連合は、現在、世界政府に代わる役割を果たすべく、大変な努力をしていることが分かります」「しかし、国際連合には、何の統治権も、平和に向けての権限委譲もなく、それが本来達成すべき内容を考えると制限された状態にあります」更に彼は言う。「実に日本の平和憲法第9条は世界政府の樹立を目指しているのです」

世界平和への提案は、国際連合で半世紀以上も扱われています・・・彼は説明を続ける。

通常、ある議案が提出されたら、次に続く民主的なステップは何でしょうか? その議案は支持される必要があります。では、その前には何が成されるべきでしょう? 議論です。そして、投票という審判を受けることになるのです。国連に本当の権力を持たせるという問題は、今まで公式には議論されたことがありませんでした。どの国も日本の戦争廃絶への動きを支持するという提案をしなかったからです。

彼は第二次世界大戦が終焉する一年と三ヶ月前にハンブルグに生を受けたが、東西分断という紛争の悪夢はほんの10年余り前に終わったばかりだった。「心の中に傷はありません。母が私を守ってくれました。しかし、戦争の問題は10代の頃から私の心の中の大きな部分を占めていました」そして、彼は「白いミルクが黒色に変わる」という一行を入れてヒロシマを詠った詩を書いたことを思い起こす。

彼は件p家になろうと思い立って高等学校を中退したが徴兵を逃れたいと思った。ローマでの一年間を絵画と音楽(トロンボーンジャズ)で過ごした。学生時代に仏教についての書物を読んだこともあり、赤レンガの学校の内で学ぶよりも外の世界で学ぶ方がより良いと判断した。そして、1964年に陸路でインドに向かう。「トルコで知り合った友人がパキスタンで病気になったので、その後は一人旅でした」

バラナシ(北インド、ガンジス川左岸にある。ヒンズー教の聖なる七都市の一つ)に着いてから半年間、彼は仏教徒の法衣を着る。その後ヒンズー教徒に招かれて、市内のサンスクリット大学で中国語と日本語を学びながら、同時に教えた。「今でも勉強を続けていれたらなあ、と思います」その後、彼はグラフィックデザインの工房を開くためにネパールに向かう。しかし、それは失敗して、西ベンガルでソーシャルワークと地域振興の仕事に携わることになる。

カーリーの寺院に滞在した後、「狂人のように放浪しながら」最終的にクラウスは巡礼の旅に出た。動物の皮を縫い合わせ、その上にワックスとニスを塗って一艘のカヤックを作り、ガンジス河を下る。「その後の二年間、ほとんど徒歩でインド中を旅しました」

1976年にドイツに帰る。「ワールドパスメ[ト」を発行していたゲリー・デイビスの「世界市民」の話を聞いて、世界政府の仕事を始め、平和運動の活動家になる。1980年に世界連邦機構の議長に選任されから、幾つかの国連の会議を含む国際会議に出席する。そして、民主的で実際的な「世界憲法」を収集する作業をする。

この仕事や後の歴史平和社会学会の会員であることを通して、彼は「平和社会学者」とか「歴史平和研究家」とか「平和歴史学者」というような肩書きを持つこととなる。「コンピューターで私の名前を検索してみてください。少なからぬ記事や論文が出てくると思います」

彼が本気になって、キール大学で政治科学、歴史、国際法の研究を始めたのは41歳の時である。(私は「遅咲きの花なんですよ」彼は冗談で言う)1990年に博士号を取得した後、日本政府のベルリンセンターの奨学金を得て日本で研究を続けることになる。

彼の研究テーマは日本の政治家であり平和主義者であった幣原喜重郎(1872-1951)だった。「彼は1920年代の国際政治の舞台で中心的な役割を演じていました。当時、日本は主権国として、西欧諸国が政治目標と理解されていたこと、つまり戦争を中止・廃止して効果的な世界平和機構と創設しようという動きを支持しながら、それに積極的に参加する努力もしていたのです」

幣原は1945年10月から1946年5月まで首相でしたが、戦争廃止をうたった日本国憲法9条を1946年1月24日にダグラス・マッカーサーに提案したのも彼であります。「実業家としても、彼は日本の国益に反するようなことに関係しなかった。決定的に他と異なっていたのは彼が採った方法でした」

クラウスは、日本政府が外国からの圧力に抗して9条の精神を守ることについてずっと良心的であると信じている。

「読売新聞が一国平和主義を批判しながら改憲の議論を提起するなど、9条は侵食され続けていますが、その′R事力を使わない≠ニいう中心の一点は変わっていません。だから、日本が自衛隊を持つ限り、他の国々は、なんとしても、戦争の悪習から脱するために国家主権を制限するという9条を「支持」することによって、日本が“一国平和主義”であるという境遇を認めなければいけません」

もし他の国、例えばドイツなどアメリカのブッシュ政権の戦争挑発主義に対抗する勇気を持った国が、この貴重な日本国憲法的「行動」を支持するならば、その議案は公式な議論討論の場に開かれたものとなるでしょう。そして、国際連合の戦争廃止問題についての議論は、どんな国にとっても反対することは非常に困難なものとなるでしょう。

「もし充分な数の国々が先例に従うならば・・・」彼は続ける。「安全保障理事会の常任理事国を含む全ての国々、そして結果的にはアメリカも武装解除することがあり得ます」

もちろん多くの障害があるだろう。今現在、富と力はごく限られた国々が握っている。より公平な富の分配が行われるようにならなければ、不平等が存在する世界中の大部分に根強い怒りが滞留する。例えばアメリカは、世界人口の6%にすぎないが、世界中の富の50%を独占している。

「私たちは、ベルリンの壁が崩壊した後の1990年代、“平和の配当”ともいえるものを全て浪費しましました。良いチャンスを逃してしまったのです。ヨーロッパは国連に入って、「我々は国連を支持する」と言うべきです。私たちは国連に本物の力を与えなければなりません。そのために国連はあるのですから。しかし、そのプロセスにおいてはアメリカの力を必要とするかもしれません。もしヨーロッパの国々が、日本が成し遂げたように、国家主権の一部を放棄することによって国連に合法的に権限を与えるなら、アメリカも協力するでしょう」

 


緑の世界史 クライブ・ャ塔eィング著

2012-07-07 19:53:00 | 拾い読み

・人類史の99%・・・人類の出現以来、今日までの200万年間で、最近の2000??3000年を除けば人類は狩猟と採集で生活を営み、ほとんどの場合、小さな集団で移動しながら暮らしていた。これは紛れもなく、最も環境に適合した融通のきく暮らし方であり、自然生態系への影響も最小限に抑えることができる。p351185067010.jpg

・・・狩猟採集民は、飢えの恐浮ノさらされながら暮らしているわけではない。それどころか、広範囲の食料資源から、栄養的にも優れた食事をしているのである。・・・彼らにとって、食料を集めたりそのほかの生きるための労働に費やさなければならない時間は一日のうちのほんのわずかに過ぎず、遊びに費やす時間や祭祀に当てる時間はふんだんにある。p38

・ブッシュマン・・モンゴンゴの木から取れる非常に栄養価の高い実・・穀物のカロリー5倍、蛋白質10倍。常用植物84種のうち通常23種類、日常17種類だけでも今日の必須栄養水準と比較して、ブッシュマンの食事はなんら遜色がない。カロリー摂取量は必要水準を上回り。蛋白質は3割以上も多い。・・・こうした食物を手に入れるために必要な労働は、決して長時間ではない。平均して週に2日半程度。農耕民とは異なり、労働量は一年中ほぼ一定で、乾季の最盛期を別にすれば、食料調達のために一日10km以上を歩き廻ることはますない。・・・女性は毎日1??3時間働き、残りの時間は余暇を楽しんで暮らしている。男性の狩りはおそらくもっと断続的で、1週間続けて狩りをすれば、2??3週間は全く何もせずに過ごすのだろう。さらに集団の約40%の人々は、食料調達のための仕事をまったくしていない。10人に1人が60歳を超えて長老として敬われ、女性は20歳、男性は25歳頃になって結婚するまでは、食料を集める義務はない。東アフリカのハッツァ族、オーストラリアのアボリジニもでも、事情は良く似ている。p40

・ここで上げた全ての種族は、今では生活条件の悪い辺境地域に追いやられてしまっている。したがって、彼らと同じような集団が、かつて更に好条件の場所で生活していた時には、暮らしぶりははるかに余裕のあるものだったと考えてもよいだろう。残存する多くの先住民が、はるかに労働のきつい農耕に見向きもしないのは当然である。p40

・あるブッシュマンは、人類学者にこう言ったという。「ふんだんにモンゴンゴの実があるのに、何でわざわざ作物をうえたりしなければいかんのかね」と。ノンビリ過ごす時間は、必要以上に食料を集めたり、移動の妨げにしかならない道具を作るよりは、はるかに貴重である。・・・・16世紀にブラジルを訪れたャ泣gガル人も、これと同じような状況をインディオに認めていた。「インディオたちは奴隷でない限り、自分が使う金属器を買うのに必要なだけ働いて、あとは余暇を楽しんでいた」p41

・もっとも信頼に足る推定に寄れば、一部地域で農耕が始められる直前の約1万年前、世界の総人口は多く見積もっても400万人を超えることはなく、それ以前には人口はこれよりかなり少なかったと考えられる。p44

・人類の4大特徴・・・脳、2足歩行、言語、技術的手段(道具)

・本書を読み終わって私が最初に感じたのは、現在、私たちはいかに地球本来の自然を失って貧しい環境に住んでいるか、ということだ。これは、ガラバゴス諸島を訪れた時に、環境客の立ち入りが制限されている島で実感した。島の動物はまったく人間を恐れず、ツグミの一種が頭に止り、ャPットに首を突っ込んでハンカチを引きずり出す。イグアナはまったく人間を無視し、海に潜るとアシカが身体をすり寄せてくる。地球の歴史から見れば、つい最近までこうした豊かな自然が地球のあちこちに広がっていたのに違いない。

・1940??50年代の私の子供時代ですら、東京の都心に近い住宅街でまだ週十種のチョウが採集でき、少し郊外に足を伸ばせば100種類を超える野生植物が容易に集められた。鳥も年間を通して30種くらいは庭で観察できた。過去30??40年をとっても身辺の環境の貧困化は急速に進行した。自然に恵まれた農山村地域の変化はもっと激しい。だが、わたしたちは残された自然を更に貧しくして、子孫の手に渡そうとしている。・・・(訳者・石弘之 あとがき)



読書術 2

2012-07-07 10:00:00 | 追憶

脱線ついでに、私の読書歴を記憶の射程の及ぶ範囲まで辿《たど》ってみる。遠くは初めて文字を読み始めた頃にまで遡《さかのぼ》るが、私が「あいうえお」を覚えたのは、たぶん幼稚園に上がる前の頃だったのだろうと思う。

母はやっと文字を書き始めた一人息子の落書きがよほど嬉しかったのだろう。旧家の南に面した小部屋の壁には、拗音《ようおん》の「ぁ」が抜けた「かあちん」という、縦に大きな赤字がいつまでも残されていた。

昭和三十年代の中頃、終戦直後の混乱期はとうに過ぎてはいたものの、瀬戸内の小島の南岸に位置する小さな漁村は、多少の差はあるにしても、どの家も並《な》べて貧しかった。

日本の島々の漁村のほとんどがそうであるように、この志津見という人口二百人ほど集落のすぐ裏手には山が迫り、田畑に供する平地に乏しく、小山の斜面の多くは段畑に利用されて蜜柑《みかん》や芋・スイカなどが植えられていたが、主食の米は山の反対側にある隣村から調達するしかなかった。

当然ながら、漁村の主産業は「漁業」ということになる。遠方に石鎚山系を望む燧灘《ひうちなだ》の海は様々な魚類だけでなく海藻類にも恵まれ、戦後の食糧難の時期も「食べる」という点では都市部ほど苦労することはなかったらしい。

旧家の庭には鶏《にわとり》が数羽と一頭の山羊《やぎ》が飼われていて、彼らは私たち家族に、かなりの栄養源を提供していた。生みたてのまだ暖かい卵を鶏舎に取りに行き、柔らかく膨《ふく》らんだ山羊の乳を搾《しぼ》るのは、姉と私の毎朝の仕事になった。

家の裏山の南斜面は山頂近くまで何段にもわたる蜜柑畑になっていた。私が物心ついた頃には、元職業軍人の父が戦後関わり続けた漁業関係の仕事は、徐々に政治世界の色合いを濃くし始めていたのだが、蜜柑や八朔《はっさく》生産との兼業は私が高校を卒業するまで続いた。

ここでの作業は初冬の収穫期だけでなく真夏の摘果《てっか》や散水や消毒散布などで結構な体力を要し、時には熱中症気味になってクラクラすることもあった。しかし、父も母もまだ若く、六つ年上の姉も小・中・高と徐々に成長していく私も、それらの作業が嫌だと思ったことはない。

段畑をつなぐ畦道《あぜみち》には一本の大きなビワの木があり、初夏になると黄色い花のような多くの実がなった。姉か私が素早く木に上って甘い実を集める。父と母は下で笑いながら見ている。眼前には漁村の全景が箱庭のように見え、南に広がる大きな海原は遠く四国山脈まで続いている。爽やかな潮風が段畑の斜面を駆け上がり、畦道に腰鰍ッて一休みする皆の頬をなでる。

後に故郷から遠く離れて生活するようになるまでの生家での出来事で、この蜜柑畑《みかんばたけ》での時間ほど、「家族の絆」というものを感じていたときはなかったかもしれない。

  (3につづく)



モンチ海岸

2012-07-06 21:46:00 | 海と風
久々のモンチ海岸は前線性の不安定な南風5~10m。15㎡にデカ板で出てはみたものの、まあ走るだけの数十分でありました。
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 ラムエア・カイトを回収するときは、インフレよりはるかに多く複雑なラインに注意が必要。こいつにからみ獲られると、たぶんエライ目にあう^^;

 
 


読書術

2012-07-04 12:02:00 | 追憶

私の乱読癖は、無謀にも加藤周一を真似て「一日一冊」を実行していた高校時代に身に付いてしまった・・・ということはどこかに書いた。若い時に染み付いた癖は、善かれ悪しかれ、簡単には抜けない。

当時の岩波文庫は★の数で価格が決まっていた。★一つが50円の単位で、★三つなら150円、五つなら250円・・・という具合である。また、岩波新書は一冊だいたい180円、それ以上はおよそページ数で値段が決まっていた。

平均して毎日200円程度の金銭を必要としていたわけだが、それは月5000円の小遣いの範囲を大きく超えるものではなく、懐が寂しくなれば、たいがい高校を“エスケープ(こっそり学校を抜け出すこと)”して、近くの図書館で過ごしたり、店主にハタキで邪魔されながら立ち読みするのが、私の密かな楽しみになっていた。

あの頃の今治西高等学校は、猛烈な進学校の一つであったにもかかわらず、奇妙に大らかなところがあって、このエスケープが理由で怒られたり説教された記憶などはない。進学校の常として、当時、国立一期校への道に漏れた、落ちこぼれ的生徒たちは、端《はな》から大きな問題にされていなかったのかもしれない。ただ、一度だけ職員室に呼ばれたのは、数学のS先生の授業中、いつものごとく教科書の間に英語の読本を挟んで読書に浸っていたのが原因だった。

S先生はまだ二十代半ば、新任情熱教師の典型みたいな人だった。いつも白衣を着て右手に鞭(指示棒)を持ち、たぶん理路整然と数学理論を説いていたにちがいないのだが、高校2年にもなった私は、すでに私立文系に進むことを決めていたから、理系のみに必要な数学や物理や化学の教科への興味から遠いところにいた。

しかし、この先生が嫌いだったわけではない。他の日本史や世界史や古文・漢文などの場合と同様、私(だけではなかったろう)は、教科授業の良し悪しと、その教師自体の良し悪しを明確に分けてとらえていた。S先生の授業内容は私に何も教えなかったろうが、彼の単純明快にしてスッキリとした人柄には一種の好感を伴った敬意を持っていた。

ある日、あまりに平然と授業を無視する私の行為に、どこか意所《いどころ》の悪かったらしいS先生の大きな声が怒気を含んで聞こえてきた。「K!ちょっと前へ出て来い!」 私は「あらら?」と呟きながら教壇の横まで進み出た。クラスは静まりかえり、皆の注目は次に起こるS先生の行動とそれに対する私の反応に集まった。

その直後、突然、振り下ろされた小柄なS先生のムチを避《よ》けようと思えば避けられたかもしれない。当時の私は、剛柔流空手を少しかじった硬派としての一面も持っていて「オヤジ」という、もっともなあだ名が付けられていた。しかし、それは私の全く予期していない行動だった。五部刈りの坊主頭はまともにムチを受け、ピシリという乾いた音が教室に響いた。私は一歩間を詰めて「しわくなら素手でしわけ!!」とだけ言って席に戻った。その結果、「あとで職員室に来い!!」・・・となったわけだ。

放課後の職員室には二つの空気が流れていた。どこの組織にもあるだろう「体制順応」の空気と「体制嫌悪」の空気である。あえてもう一つ加えるなら「どっちつかず」の空気もあったであろう。行きたくもない職員室にしぶしぶ出向きS先生の机の前に立つと、先生は複雑な表情を浮かべながら「ムチで叩いたのは私が悪かった。君の気持ちは分かる。でも、少しは私の授業にも興味を持ってほしい・・・」と謝罪とも説教とも同情ともつかないようなことを言った。この時、十七歳の少年の感性はことの全てを把握していたのかもしれない。

私よりも十年ほど早い学生時代を東京の国立大学で過ごした彼は、何らかの形で、あの六十年安保に象徴される反体制の空気に触れていたはずで、狡猾《こうかつ》で理不尽な権力の横暴と、底の浅い学生運動の決定的挫折にも遭遇していたはずだ。そして今、地方の一教職公務員を生業《なりわい》とする自分の立ち位置を、時に悲哀と苛立《いらだ》ちをもって眺めることもあったろうと思う。私の目からなぜか大粒の涙が溢《あふ》れた。

隣の机で一部始終を聞いていた化学の中年教師は「このクソ生意気が・・・!」と吐き捨てるように呟き、少し離れた机の物理の熟練教師は「K!オマエは大物になるぞ・・・!」と明るく笑った。その後、ますます化学の時間が嫌いになり、物理の教師が好きになったのは言うまでもないが、この事件がその後の私の成績の変化に何らかの影響を与えたということはない。

  (脱線気味のまま、2へつづく)

  



言葉が輝くとき

2012-07-04 08:35:00 | 拾い読み
「私たち日本人にいちばん欠けているものは何か、といいますと、自分が独りでこの地上に生きている、たった独りで生きているのだという自覚ではないでしょうか。」

- 辻邦生 『言葉が輝くとき』middle_1187945045.jpg

 辻は加藤周一の6年後輩にあたるが、加藤同様、フランス文学者の渡辺一夫に師事している。辻は仏文専攻だから当然。加藤は医学部であったにかかわらず、仏文教室に出入りして渡辺から大きな影響を受けている。

彼は学生時代に急性肝炎で生死の境から蘇り、楠(くすのき)の新緑の輝きに包まれて、「死を見つめ、感じたときに、かえって生きているという誰にも当たり前の平凡なことが、突然考えられないくらいすばらしいものである」ことに気づく。

「いよいよ退院となって、ちょうど5月でしたが、東大病院を出て、大学の構内を歩いていましたら、大きな楠がたくさん茂っているのですね。楠はちょうど燃え立つような新緑です。この緑の輝きの美しさに、これが「命」なんだと感動し、その時初めて生きているって本当に嬉しいことなんだと思いました。そして、この嬉しさは「死」というもの、自分が死んでこの世からなくなってしまう、一人ぼっちでお墓の中へ入ってゆく、そういうことと裏腹にあるということに気づいたのです。」

人間は、否応なく、たった独りで生き死にする実存であり、深く深く見詰めてみると、その在り方が実はとんでもなく素晴らしいことであるということ。この体験感覚がその後の彼の生き方の基調となったに違いない。