katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

kameyaさん教室

2023-10-26 01:33:49 | 出張教室
今日は今週末のイベントで、代替えのkameya教室。それではまずりょうさんから。そうね、今は集中して髪の毛をやっているんだけれど、自宅でパーツ切りをしているのね。それがかなり切って

いたので、もう切る・・・って事は慣れて来た気がして、それならワンステップ上げる為の話なんだけれど、ただ切る・・・って言うのを他の文字に変えると、ただ打つ、ただ描く、ただ弾く、

何か感じ無いかなぁ?ただ・・・って、大まかに聞こえないかな?要するに繊細さが足らないのね。でも最初はそれでもそのただって言うのが、反復練習になると、その行為に慣れる。

つまりただ打つ・・・では、バットやラケットに当てるって事だったり、遠くに飛ばすとか、強く打つとか、ただ描くとなると、丸く描くとか、文字を描くとか、それが鉛筆だったり、筆、ペンに

慣れるって事だったり、弾くとなると、ドレミファソラシドって音が出せるって事になる。そんな感じだとすると、繊細さってのは、ただ切るのでは無く、揃えるって感じだとするとね、それには

まずお手本の1枚をまず切る。例えばその太さの表現を蕎麦、うどん、きしめんとするとね、それがうどんだとすると、そのお手本のうどんを見て切る。そうすると、うどんに切れれば成功。

だけど、もし蕎麦が切れたら失敗。だって蕎麦はうどんより細いから、元には戻らないのね。でももしきしめんなら、太いから切り直せるのね。そうして一軍、二軍を振り分けるようにするのね。

こうした事で、成功と失敗の判断する目も養うのね。それをただ切っていると、成功も失敗も同じ気分で、ノープレッシャーでやる事になるのね。それを失敗したパーツだな・・・ってガッカリと

成功したって満足感をキッチリ味わって、次へ進んだり、逆戻りして切り直すってプレッシャーの意識の中で、判断をする目も養うのね。これを繰り返すと、出来る意識と、出来なかった意識を

持つ中で切る・・・って事になるから、目的意識が全く違う状況の中で切る練習になるのね。それを上手い人達になると、まずはおかみさん。

これと、

この違いが判るかなぁ?上は大きく普通に入れた後で、半端が出たから三角を入れたのね。つまり入れただけなのね。しかも三角2枚で済むのね。つまり能率効率でやったみたいなのね。

それを後半のは、5枚切る事になるのね。倍以上切る事になるんだけれど、もしこっちが綺麗に見えたとする・・・つまりひと手間もふた手間も多くなるのね。ほら美しさってこう言う事なのね。

つまり能率効率でやるのでは無く、何がどう美しいか?を大切にする事なんだけれど、何処が、何が美しいか?をこうして見比べた時に、出来る出来ないの前に、感じる事が出来ない人はそこまで

しか上手くならないのね。そもそも技術の前に感じるって言うのは、技術は要らないのね。老若男女誰にでも権利があるもので、味覚は食べて、何か美味しいって感じる・・・作れない癖にとか、

聴覚は聴いて、何か良い音だって感じる・・・楽器が弾けない癖にとか、視覚は見て、何か綺麗って感じる・・・描けない癖に・・・ってね。ほら何にも出来なくても感じる事は出来るのね。

でも、それが・・何になるの・・・って感じだと、意識する事が無いのだから、キチンと真似をすれば出来るのね。つまりこんな人に向いているのは、考える事をせずに、レシピや図面、楽譜と

言った、お手本通りにやる側になると良いのね。でも感じられるって言う人は、どう感じる?って言うのを、掘り下げる事で、自分にしか感じる事の出来ない感覚を、文字で比喩をしたりすると、

素敵な歌詞、素敵な文章、素敵な俳句と言った、文字による表現となり、音色と言う音で表現なら、風ひとつにしても、そよ風なのか?嵐なのか?なんて違いを表現するのに、強く弾いたり、

弱く弾いたり、悲しい時はどんな音?嬉しい時は?怒っている時は?・・みたいな喜怒哀楽を表現出来たり、モザイクの場合は、硬いタイルで四角いのに、サラサラな髪の毛なのか?ソバージュか?

で、切り方や張り方が大きく変わって来るのね。それをただ切るでは無く、まず感じる意識って思うと、その意識は今まで無かった事であればあるほど、結果が大きく変わって行くものなのね。

こんな事を前提に言えば、おかみさんは切る張るだけなら、とても上手い人なのね。でも上のようにやろうとしたのね。でも下の方のやり方を見せると、こっちが綺麗って思ったようで・・・。

これを見せただけで出来ちゃうのね。ほら比べれば一目瞭然になる。そして腕があると真似が出来る。でもそれを自分で考える・・・って言うのは、あれこれと方法論を比較しないとならない。

それが経験値なのね。それはありとあらゆる失敗例を知っているって事なのね・・・だからこっちが良いって思えるのね。でももし最初に考えた事しか浮かばないとか、これで良いっか・・・って

場合、どんなに綺麗に切れて張れても、それでは何十年やっていても、結果は余り変わらないのね。でも意識を変えられれば、思い込む事無く、自分の正解を見つけようとする為に、自分と

向き合う事に慣れても来るのね。そして最後は棟梁。

そもそも虫が嫌いなのに、虫を作る・・・こんな人はどうするか?って言うと、蝶を調べずに、
大体蝶を作ろうとするのね。苦手なら苦手なんだから、そもそも良く知らないのね。

でもこの絵に必要だから、作りたいんだけど・・・ほらまた、だけど・・・このだけどの後が本音だから、こんな表現の場合は、作りたいよりも、だけどだから、嫌々でーすって意味になる。

せめて作らなきゃ・・・なら、多少嫌だとしても、何とかしなきゃ・・・になるから、前向きになるが、作りたい・・・だけど・・・は、かなりニュアンスが変わるのね。それもまた意識。

その時に、そんな人が切る張るが上手いとして、更に目も持っているとする。そうすると何が起こるか?って言うと、何か変?って感じるのね。ここで感じられる人は、その理由は一目瞭然。

タイルを切る、張るの技術を持っている、そして正しい目も持っている。ここまでは完璧なのに、何故、何か変?になるのか・・・それは作るモチーフをきちんと向き合わないからなのね。

作る人の好みなんてどうでも良いのね。作るのなら、何がどうなっているのか?を知らないと、大体こんな感じ・・・って、大体の絵で、完璧なモザイクをしても、大体の絵を完璧にしただけ。

まずはそこを是正なのね。そこを意識した上で、この蝶は一体どんな比喩の為に入れるの?って言うのは、好きでも無いのに、入れたい理由があるのだから・・・そして2匹も。

もう粗方、棟梁がやりたい事は判るのね。これは孫なんだろうね。そして意識もしているんだろうね・・・何を?大きさを変えて年齢差を出したいんだろうね。所がその意識の中に、最初よりも、

小さくした・・・って思い込むと、ひと回りくらい・・・って事になると、見ている方側としては、そんなの意識はしていないから、本人が思うほど感じないのね。つまり少し誇張しないと。

ただそこでもし、大きい蝶のように公平に同じ模様にしようなんて意識をしていたとすると、小さいと切れないかも知れない・・・と意識をして、小さく知すぎないに・・・なんて事があるかもね。

それでは意識がマイナスに作用してしまうのね。その時の意識は、何を一番大切にするべきか?なのね。俺はその時にまず、大きい方よりも、小さいのは、頼りなく、か弱く・・・でも同じっぽく

って意識をすると、全体的に小さくして、更にか細く切る事で、弱々しく、でも、同じように・・・って事で、どっちが私・・・って同じものを作って選ばせるのでは無くて、こっちが私

って判るように・・・誰が見ても・・・って意識するのね。ほら意識するとこうなる。つまりおかみさんも、棟梁も条件が一緒なら、感じるってモザイクの腕には一切関係のない事が重要になる。

その癖、ひと度ヒントがあれば、はい判ったぁ・・・って、俺要らずになるのね。厄介でしょ?ほんの少しの意識の話ね。そんなこんな後は、ちょっと野暮用。そうそう昨日の小物作品は・・・

ただ張るだけ・・・デザインなんて、こうやって見てしまえば、真似るのなんて、簡単な話で、0を1にするって言うのは、考えまくらないとならず・・・こんなに沢山作れば、似たようなものも

出たりもする。しかも見せればタイルさえあれば、簡単・・・デザインだの、アイデアなんて言うのは、もろいものなのね・・・それを大作の場合なら、絶対に不可能にしてやる・・・って、

意気込みも出せるが、簡素化すればするほど、簡単に思われるもので・・・中々難しいのね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする