今日は午後からさくら教室。それまで絵馬のペーパー掛けとペンキ塗り。その後、鬼滅の刃の無惨の続き。
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そうね、こう言うスタイルって、作詞作曲ってオリジナル感は無いものの、感じとしては編曲な感じだったり、DJが繋ぐ行為に似ていると思うのね。メロディとは違って、イントロや間奏を作って見たり、曲を作るのとは別の分野って感じ・・・。
つまりキャラはあって、それらを組み合わせて、更にバックを見付けて合体・・・それも技術なんだけれどね。ただ中々判って貰いづらい。そうかと思うと、何か春画な感覚でもあったりする。人の絵を使って似せる事での評価・・・。
勿論、モノマネとはそう言うものだし、YouTubeなんかで、人の歌を歌って見たとか、描いたとか、オリジナルでは無いが、その技術を見て貰うってスタイルはあるものだから、別に問題は無いのかも知れないが・・・。
これが作者本人の依頼なら、それは名誉でもあるが、こっそり作っている感じもして・・・だから比喩として、御法度の春画みたい・・・な気分って表現をしたのだけれど・・・。さてそれではさくら教室。
そうね、今日一番の話は、いつもより調子が良かったのかな?・・・このパーツ細過ぎるかな?って言われたのね。細過ぎる?・・・気にならないかな?この文章。要するに今までやって来たパーツよりも痩せたパーツが切れたって話。
これを細過ぎって言葉の反対の太過ぎ・・・同じ過ぎだけれど、どっちが良い事な気がする?これが良く言う正解は無い癖に失敗はある・・・って表現なのね。そもそもどちらも、過ぎって事には変わりないのに、何か響きとして太過ぎってよりも、細過ぎの方が良く聞こえないかな?
じゃそのニュアンスの違いの説明としては、太過ぎるってパーツはもっと細く出来る感じがしないかな?なら、是正はいくらでもある気がしないかな?逆にもっと太いのも出来そうだし・・・けど逆に細過ぎるって何か変な気がしない?余裕すら感じるのね。
もっと細過ぎって出来んの?・・・つまり限界があるのね。最高に細いパーツはそこまでしか出来ないはずなのね。なら太くする方向しか無い事になる。同じ、過ぎるって言葉でも、細過ぎるって文章はおかしいって事にならないかな?
ただ、さくらがそう言うのも判るのね。それは体調によって思うように切れない。その時の体調で全力で切ったパーツは、こんなもんか・・・って判断をする事になる。だから、もしその時に75%の体調で切ると75%Maxパーツになる。
でもそれが全力だから、こんなもんか・・・となる。ただ、実はそんな簡単な事じゃ無くて、75%の体調であっても、見る眼が体調通りとも限らない。体調に並行ならその通りだけれど、こんなもんか・・・の見切りが甘ければ、体調を考慮し、
これが限界だなと、本来は75%なのに65%でもOKにしてしまう可能性もあるし、逆に体調が65%なのに、本来の眼で取り締まれば、出来ない、出来ないと追い込む形になる。ただそれはもう1つさくらには欠点があるからなのね。
自覚の無い頑固な事。簡単に言うと、1から10って順番があったとすると、1.2.3.4・・・と順番にやりたい性格なのね。つまり体調が良かろうが悪かろうが、前回の場所を引き継ぎたくなるのね。病気を受け入れるやり方なら、今日の自分をまず知る事。
今日の私はどの位?とね。つまり前回のパーツを切って見て、調子が良さそうなら引き継ぎ、悪いなと判断すれば、例え1.2.3・・・次は4であっても、7をやったりすれば良いだけなんだけれど、性格上それを何故4が出来ないんだろう・・・
調子が悪いのは理由にならない・・・と押し通す。そんな性格。だから前回の自分と比べて見劣りしたり、安心したりの繰返しになる。それを今日の自分で判断を誤らなければ、常にその日の全力でやるのだけれど、その日の自分にあったレベルに合わせて変えられれば・・・
ただその時に、変える事がもし出来たとしても、4の出来ない不満な気持ちを持ったままだと、ストレスになるのね。心の中と結果がバラバラだから。それを7でも出来て良かった・・・質を下げずに済んだぁと思えれば、ストレスは軽減する。
人の心理とはそう言うもの。そうね、折角鬼滅をやっているから、1つ参考になるかも知れない話として、何故炭治郎が主役なんだと思う?って話なんだけれどね・・・。俺はこう思うのね。当然駆け出しの炭治郎は成長段階。
腕も心も未熟なのね。だから柱と言う先輩から大きく見劣りする。では柱が立派なら、柱が主役で良いだろう。はぁ?って事なのね。良く見ていれば判る事で、ほとんどの柱は鬼は殺せ・・と言う。でも炭治郎はそうは言わない。
何故なら妹が鬼だから。鬼は殺すが、鬼になった者への哀れみを持っている。だから主役なのね、きっと。つまり器が違うのね。腕は磨けば時間である程度の腕にはなる。けれど心持ちって言うのは簡単な事では無いし、腕を磨く努力は誰でもするが、
心持ちを磨く人は少ない。修業なんて言うのはそう言う事。俺には炭治郎を助けた柱以外は、腕だけの人にしか見えないから、炭治郎に簡単に肩を並べられてしまう人達にしか思えない。能力の見極めと言うのなら、それを見極める眼で、さくらに伝えられれば、
人には色々と能力の違いがある。増して、自分の中に見劣りする日とそうで無い日がある・・・それが病気と言うのなら、月並みではあるけれど受け入れる事。しかし、ただ判ったって受け入れるのでは無く、どう回避出来るのか?であって、
それにはいついかなる時も、腕先行では無く、今日の自分の判断をする眼・・・心持ちって言うのはそんな事だったりする。それさえ出来れば、無理をして1.2.3.4とはやらなくなるし、そうしないとならない理由は何1つ無い訳で。
勿論仕事ならマニュアル通りになるだろうから、鬼は殺せ・・・ってスタイルにはなるが、親方様も、炭治郎を助けた柱も、炭治郎を育てた元柱も、そしてその人達に影響を受けた炭治郎も、それらの器である・・・だから主役なんだと思う。
その人達は他の柱とは違って、鬼は殺すが、腕のみでただ殺せとは言わない人達だから。ただ仕事は上司がどっちの人か?によって、変わって来るし、もっと言ったら、どうであろうと1.2.3.4・・・の心持ちのさくらは、左右されない頑固・・
そこが柔軟になると、もう少し楽になれるとは思うんだけど・・・。俺の説得や説法では、煮込み方が悪いのかな?芯まで出汁が届かないから、届いたとしても、ちょっと固めな大根って感じなのね・・・。
人とは違うって言うのは、自分の中に鬼がいる・・・その位で丁度良いんじゃないかな?そう思えば、極端な自分がいる。きっとそれは並大抵な事じゃ無いんだろうけれど、それを抱えて生きるって言うのは、人と同じじゃ無くて、人とは違う工夫が必要になるのね・・・