今日は午前午後と健さん教室。と言う事で、足場があるものの完成しているんで、みんなで作ったカットTB南篠崎店へ送迎からスタート・・・。どうですか?
良いです・・・って。更に言えば、自分のをついついじっくり見ちゃうって。そんな中、学生の時に、箱根の森のように入場料が掛からず、外にこうして見て
貰えるようなものがいつか作りたい・・・って思っていたらしいのね。だから、思い描いていたものはアライグマでは無かっただろうけれど、趣旨としては
ほぼ思い描いていた事だった・・・しかもエキストラでは無く、役名も付くような大事な箇所での参加・・・そう考えたら、一層どうですか?って感想を
聞くと、また機会があったらやって見たい・・・って。ここが一番大事な所なのね。やりたくないと思う人もいるけれど、やれない人もいるのね。それは未熟
だから頼めないから。でも先生の目でこの人の腕なら・・・と思っても、時間が合わない・・・って事になると、その機会を逃す事になる。それは経験値を
逃す事でもあるのね。健さんはこうして2マスだったりすれば、時間に余裕もあるし、この腕、そして何よりやりたい・・・って言う気持ちとなれば、条件が
相当満たしているのね。しかも今後もとなると、当然そんな機会があれば、上位に話す事になるから、もうメンバー的になる。つまりやりますか?では無く、
こんな話だよ・・・って言うだけで済むから様子伺いが要らなくなる。やる前提だから。常にその機会に自分が合わせる方向になるから。こうして条件を
持っている人からその席は徐々に埋まって行く。そのスペースが常に一定ならみんなで・・・って余裕があるが、狭いスペースでは限られた人しか出来ない。
でも・・・麻布小は今までに無い大きさの壁画。と言う事で、当然その時はやりたいって話になった。こうして声は掛けて行くだろうが、いつかもっと、
ハードルの高い仕事も来る。その時にこの人の腕は・・・?って時に、自分の腕前をクライアントに見せられる作品を1つ持っているのと、無いのでは、説得力
が違うのね。そんな事も想定して自分の作品を作る事になると、いつかまたやりたい・・・って目標があって作るのと、ただ楽しく自分の為だけに作る・・
とでは、モチベーションが大きく違うのね。例えば自分の為って場合、考え方一つだが、例えばこれは自分のものだから・・・と作った場合に、だから寄り
丁寧にやらないと手元に残すんだから・・・って作る人と、これは人のだから・・・って、まっ良いかぁって、自分のよりも手を抜くような気持ちになる
人の差は歴然。逆に自分のだから・・・と気を抜き、人のだから・・・っていつもよりも気は抜けない・・・と思うのでは、これまた差は歴然なのに、
じゃ頼む時にどっちに頼むとなったら、後者になるでしょ?所が、クライアントに見せて参加を認めさせるとなると、自分の作品を気楽に作っているようでは
果たして認められる作品になっているのか?・・・になる。これが常にどんな時であっても、自分が作った作品である・・・ってスタイルなら、例えコースター
でも、気は抜けなくなるものなのね。だから上手くなると、無意識にそんな気持ちになり、気楽に作るつもりだったに・・・こんなに凝るはずじゃ無かった
のに・・・なんて事になるのね。それが良くある話に、プレゼントの作品を作っていたのに、いざ完成したら何か惜しくなった・・・って人がいたのね。
それ最高じゃん。手元に残したいくらい良く出来たんだね・・・そしたら胸張ってプレゼント出来るね・・・って話。それは大事な人へならとても良い話だが
・・・これが何となく・・・程度の人へプレゼントする作品か?となると、上手くなったね・・・って言われるようになったら、絶対に気楽にあげては行けない・・・って教えている事例なのね。
本人は気楽に良かれ・・・と思ってプレゼントしても、俺が上手くなったね・・・って認めた腕に、更に貰った人が良いでしょ?って自慢してしまったら
・・・しかもタダで。更にもし共有した友人に話したとしたら?ギクシャクするのは間違いないのね。その腕で自覚無くタダで・・・のループから抜け出せなくなるのは当然な話なのね。
まっまたの機会にやって見たい・・・なんて人は、この話に該当するのは当然な話で、そんな気は無い感じだから何も心配は要らなそうだけどね。
まぁただ言わんとしていた事は、あの壁画を見てきっと思う事があるだろう・・・きっと。何しろ学生の時に思っていた事が現実になったのだから。
本人も言ったが、学生の時に思い描いていた事がいつしか忘れ去られていて、単なる思い出になりつつあったのに、今になってこうして実現した。もし目指す
なんて事をしていたのなら、夢は薄れて行ったんだろうし、もうそんな事をしようとは思ってもいなかっただろう。目指した時には叶わずに、忘れた頃に叶う。
でもモノには必ず理由がある・・・って考え方の俺が説明をするのなら、例えば棟梁だったとしよう。洋裁に陶芸、木彫に仏像彫刻、そしてモザイク・・・
あれこれとやって来た。こんな人がいつか外で人に見られる作品を作りたい・・・と願っていたとする。近道なら、最初からモザイクに決めるべき。
違うかなぁ〜。だって他の分野は外には出せない。つまりこうして趣旨にあった事を選べば近道になる。ただそう簡単に行かないのは、その分野の中で一番
マニアックな分野なモザイク・・・出会う機会の可能性はとても低い。勿論、今ではそこそこ広まりつつあるのだけれど、健さんが学生の頃となると、
俺はタイル屋だったし、って事は今活躍されている人達のほとんどは居なかったはずだし・・・ただ俺と出会った人達は、人それぞれの熱量の差はあるも、
物作りってくくりでは、繋がっていたって話。つまりそのくくりと、非常に可能性の低い確率のマニアックな分野をやって見たい・・・と探してくれた人達。
そしてみんな体験をして・・・ってスタートは一緒でも、その先に、じゃまた・・と何度も繰り返して、更に言えば勇気を持って自分超えをする作品に
挑んでいる人・・・つまりそこまで来ると、確率は非常に低く、しかもあれこれと体験番長のように巡っていたから見つかった・・・と思えば、偶然では無く必然に思えるのは、俺だけでは無いはず。
つまり近道も遠回りも無く、その日が来ただけなのね。その人にはその人の出会うまで必要な遠回りな時間が必要だっただけなのね。そして一緒にやって見たい・・・と新しい目標が出来た。
こうなると先生としては、そこに追加事項としての指導が必要になる。簡単な話で、目指す事無く出会って見つけたのなら、この先も目指さなくて良い。
ただ続けてさえいて、ただやって見たいって思うだけで・・・。これが逆だとほぼ意味が無いのね。ただやって見たいと思って、ただ続かない・・・これは、
ただの憧れ。何も生まれない。だから継続は力なりって言うのね。ただ続けるに当たって、とても良い刺激になる材料を手に入れた健さんは、またって機会を
得たのだから、麻布小にも参加して貰うし、一体何をするんだろうか?って期待と不安が付きまとうはず・・・ただそれって、俺に関わらなければ、そんな
刺激をこの先の人生にある?・・・って事になると、もしかするとそれこそが、今後の本当の意味での楽しみになるのでは無いか?・・・俺はそう思うが・・
続けるって言うのは日常になってしまう・・・って事でもある。勿論、とても良い事なのに、当然悪い事でもある。当たり前になってしまうのだから・・・。
本来刺激ってものが無いと、ぼんやりしてしまうのね。ただ勿論、日常が人と接して気を使ったりの毎日なら、休みは独りで・・・となり、刺激は休日となるが、逆に仕事が孤独な作業だったりすれば、人と接するのが刺激なんて事も
あるだろうし・・・しかもどんどんと歳を重ねれば、新しい事にチャレンジと言っても、40の手習いなんて言葉があるように、ガンガン攻める人ならともかく、何か億劫で・・・となりがち。
それが単にモザイクが好きで続けているだけなのに、次から次へとまた何か変わった話がやって来る中に身を置くと、とても刺激的な案件がやって来る・・・
ただあれこれと分野を変えては、ちっとも上手くない訳で。それが継続は力なりとなれば、継続した分、上手くなっているのね。当然参加する腕に近づく。
理屈として当たり前なだけなのね。つまり悪意を持った説明なら、今後続けて行く健さんは、この作品よりも下手にはならない。だって10年後の健さんは
軽くこの作品を超える腕になっているはずだから・・・ただそれだけ。そして信じる者は救われるのか?触らぬものに祟りなしなのか?katsu株を持って勝負する?
ってな話なのね。あははは、どうやら健さんは、より信じる側に来ちゃったようなのね・・・まっ自分のやった壁画を見るって言うのは刺激的だからね。
健さんだけの人生なら、とっくに忘れていた事なのだから・・・。ただ新たなページがスタートをしただけなんだけれどね。だからまだ序曲・・・