今日はみどりがHand Art Marcheの販売用の作品を作りにやって来たのね。ただ、一見いつもの作品よりも簡単に思えたりするし、こんな小物には指導も無くても良さそうなんだけれど・・・。これがそうとは限らないのね・・・。
そもそもまず何をどう作るのか?って考えた時にね、ただ小物じゃん・・・とノリで作るのも良かろうが、もし真摯に向き合ったとしたら?・・・一体どんな違いが生まれるか?って話なのね。これが前者なら、自分が欲しい・・・なんて感じで作れると思うのね。
もっと言えば、売れなかったとしても自分が欲しいものを作っているんだから、最後は、じゃ私のに・・・ってある意味、残っていてもラッキー・・・なんて感じで済むと思うのね。これが真摯に向き合うと、単なる趣味趣向ってものでは無く、何が良いかな?とか、
どの位の値段の設定が良いのかな?とか、単に作品の良し悪しだけじゃなくて、普段考えない事まで考える事になる。そもそもいつもは一生に1作みたいな大作を時間も気にせずに、ただただ自分の持っている腕を自分の為に・・・って作り方をしているのね。
だから、お金や時間に縛られる作り方では無いのね。その作り方で結果は出ていて、その作り方に評価が出ているのね。それをもし本人もいくらか腕も上がった自信になっていたとしたら?その作品よりも小物だから・・・って思えば、簡単な気持ちになったりする。
しかも、本人が少しでもそんな気持ちを持っているとしたら?実はその評価をして下さった人達の眼もそう言う評価で見る事になる。つまり簡単に言えば、いつものみどりの作品よりも見劣りするように感じると言う事なのね。
しかも、それは大作が上手く見えれば見えるほどにね。恐らく販売作品を作るのが初めてなみどりはこんな事になっていると思われるのね・・・じゃもう少し掘り下げると、一体みどりはどんな部分が上手いと思われているのだろうか?・・・。
って事になった時、簡単な話でタイルを切る事・・・ここなのね。つまり徹底的に切った作品に評価はあっても、小物を徹底的に切って作ったとしても、その作り方は一切手間を惜しまずにお金に関係無くの作り方であって、価格を設定した時に完全に見合って無い。
つまりその作り方はもはや美術、芸術の方向性であって、クラフトとは全く違う作り方では無いのね。だから売るとなると、その価格に見合った作り方にならないと、むやみに時間を掛けて見合わない手間を掛ける事になるのね・・・。
とは言っても、そんな事ばかりに縛られると、得意の切るを封印する気持ちになるから、そうなるといかにアイデアだったり、色合いの妙であったり、人に見せてしまったら簡単に真似をされてしまうようなもので解決しないとならなくなるのね・・・。
要するにいつもはきちんと考えて、きちんと惜しまず切る・・ってスタイルから、思い付きやらひらめきやら、ってアイデアだけの相反する考え方で、作らないとならず、全てがいつものスタイルでは無い作り方になるから、その自覚が無いと、今まで自分が
全く役に立たないような気持ちになって行くのね。しかも本人に自覚が無く・・・そうね、高校生が小学生の問題が解けないような感じとでも言うのかな?・・・結構落ち込むのね。ただ、全てはそもそも作る前の考え方と姿勢の問題だと思うのね。
まずはいつもとは違う事の自覚を持つ事。じゃ何が?美術、芸術とクラフト。じゃクラフトとは?使うもの。使うと言うのは耐久性が問われる。まっ昔、子供の頃に歌った、こ、こ、金平糖、金平糖は甘い、甘いはお砂糖、お砂糖は白い、白いはうさぎ・・・。
うさぎは跳ねる・・・・ってあの歌みたいに連想させるのね。要するに見せるだけの美術、芸術から使う側の耐久性なんて日頃意識をしない側へ移行しないとならない。そうなると、細か過ぎるいつものパーツは使っている間に取れちゃうかも知れない。
例えば取り外しをする外側には細かいパーツを使わない・・・とかね。そうなると、こんな事を沢山言えば言う程、安全安心は手に入るけれど、規制をすればするほどにつまらない方向に行くものでね・・・見栄えと機能性は相反するのね・・・。
じゃ、ちょっと道を外して・・・。
まっ賛否両論あるだろうが、昔は歌詞でもそうだけれど、盗んだバイクで走り出すぅぅぅとか、酔って高速飛ばしたり、校舎の窓を壊したり、反社会性の歌が名曲になったりもした。勿論、あの頃だってそれはいけない事は変わらないんだけれどね。
ただ、聴いている側もきちんと悪いと判っていて聴いていた訳で・・・つまりほぼ大半は出来ない事を歌で歌ってくれたから、みんなの代弁者みたいな感覚だったんだけれど、今は増長させる・・・と言う判断でほぼこう言う事は今では難しいと思うけれど、
きっと良い歌ってのはいつの世も時代は超えるものだったりする・・・とする。仮定ね。だとしたら、名曲側になるのは、その人の個性がより活かされるって事になるとすると、みどりの場合、いつもの大作の方になると思うのね。
つまり感覚としては、いつもの反社会性的やら名曲やら大作では無いものを作る・・・事になる。ただそこに至るまで相当な時間が掛かったんだけれど、またそれとは違うスタイルなのだから、また1から・・・って謙虚な姿勢が必要なのね。
しかも、謙虚とは卑下をする事では無いから、きちんと意識を持つ。何が活かされて、何を変えるか?とね。そこでまた道を外して、最近のドラマでかぐやに紹介されて見たものに、陸王ってものがあって、100年続いた足袋屋さんが時代の流れで衰退して、
それを立て直す為に、足袋のノウハウを活かし、陸上シューズを作る・・・ってな話ね。まさにあの感覚だと思うのね。そうする為には・・・まず意識改革。おごり高ぶらず、卑下せず、自分らしく・・・まっ、俺もやっている最中なのね・・・。
何の変哲も無いものなんだけれど、これを見てみどりは寂しい・・・色が足りない・・・・って感想だったけれど、それならほぼ完璧な仕上がりなのね・・・俺にしてはね。何故なら理由は簡単で今回は完全なる脇役撤しって感じだから。
例えば、みどりの作っているものも俺のも、何かを上に置く・・・ってくくりは一緒だと思うのね。つまり置く前提で、置いたものの隙間が見せ所・・・って思うのが普通だと思うのね。さて、それじゃみどりは使う前提でそこに何かを置いたかな?・・・
多分置いていないと思うのね。ただね、もっと普通なら、もしかすると普通は何も考えないで素敵に作ろうと思うんだろうね。イメージはその小さなキャンバスの中で・・・って。こらこらすでに美術側になっているのね・・・。
要するに使う側になった時も、見栄えと機能性は全く違って、相反する側である・・・って前提でどっち側に立つ?って、まずはそっち側を決めるのね。そうすると、みどりのは色やら模様やら美しい、綺麗、可愛い・・・みたいを意識していると思うのね。
じゃ見栄え側ね。逆に俺のは、みどりに寂しい、色が・・と言われているのだから、それより落ちる・・・と考えるのが普通だけれど、それは違っていてね、俺のはこの台だけでは物足りなくて良いのね・・・この上に美しいものが乗る前提だから。
つまり乗るものの邪魔はしちゃいけないのね。脇役なんだから。つまり考え方としては、何にも置かない方が良いのがみどり側で、それは単品で美しいを目指したからであって、俺のは何も置かないと何の意味も無い台なんだけれど、じゃ何を乗せる?ここ。
例えばみどりがキッチン用品だったとしたら?日常品を置く事になる。つまり醤油みたいなね。じゃ俺のは?イメージは簡単で最高の1品を置いて欲しいのね。それがドールでも花瓶でもね。ただ、かなりスペースを取られるから、見える所は極一部。
つまりメインは側面となる。このガラスタイル変わったデザインだしね。だから、何も置かないと物足りないくらいで丁度良い。ただ、問題はそれを理解して貰えるか?なのね。陸王の話ではね、普通のシューズでは膝を悪くするので、それを防げるらしい。
つまり見栄えを気にすれば、有名メーカーのデザインの方が素敵に見える。しかしながら、足を痛めている選手には負担が掛からない足袋型シューズは、常識の形からは大きく変わっているので、とても見栄えは既存のものよりも劣る・・・。
また見栄えと機能性の話・・・。つまり足を痛めている選手・・・こう言った人達の比喩に当てはまるのが俺のに眼が行くお客さんであって、中々難しいだろうね・・・逆にみどりのようなものは、何も置いていない方が素敵に見えるはずだから、
販売作品として置いた時に、見栄えが良く販売意欲が増す気がするのね。俺のは単独では地味だからね・・・。以前みどりに大作を作る時に色決めすんな・・・って指導をした事があるが、実は今日も同じで、小物だから・・・では無くて、
何をどう置いて、何処が見えて、そこだけをこだわり、置いて見えなくなる部分は流す・・・こんな考え方だったり、使う部分と見せる部分の違いだったり、作り手の気持ちだけでは無かったりすると思うのね・・・。
要するにここもコンセプトだったり、考え方だったりすると思うのだけれど、きっと来る前からプレッシャーを抱えて来たと思うのね・・・当然小物だから簡単なんて思っていない・・・とね。ただ、こんな諸注意をしている最中、作らないと・・・って、
気持ちが強い分、話を聞くよりも進める事の方が大事なんだろうね・・・しかも、時間が勿体無いし、進めながら・・・みたいな事を言っていたが、実はそれこそが焦っているし、それこそ何も聞いていないだろうし、それこそがノリで作っていたのね。
本人は考えている・・・と思っていたんだけれどね・・・。しかもきちんと考えているつもりであって、きっとこんな事は何も考えていなかったと思うのね・・・つまりみどりは考えていたのでは無く、どうしよう?って悩んでいただけなのね・・・。
考えるって言うのは、そう言う事であって、タイルを置いて見て・・・やっぱこっちかな?あっちかな?は感であって、ノリなのね。だから、ノリで作ってます・・・って言えば、ノリでフィーリングで乗り切らないとならないから、次々比べたりしないとね
・・・って事になるから、きちんとしたコンセプトなんて事からは大きく外れる事になる。ここね。つまり小物はノリでも悪い事は無いから、それはそれで良いと思うけれど・・・けれどね、ダメなのは自分がノリです・・・では無く、きちんと考えていて、
・・・と、ノリが悪でと思っているから、そっちじゃダメとして、そっちよりな癖に、考えていると思い込んでいる事がダメなのね・・・それではストレスになるのね。勿論、それがいつもの大作ならダメだと思うのね。
勿論それとて、きちんと考えて、きちんと進められていれば、ここだけはノリで・・・なんて考え方もあるだろうけれどね。それともう1つアドバイスとしては、普通は1つのデザインが決まったら、小物は色違いで使い回しをすると思うのね。
それを色んな下地を試行錯誤で買って来て、尚且つ同じデザインを避けるようにすれば、規制に規制を重ねる事になり、どんどんとやりたい事を削って行くのだから、当然難しいのね。それをまさかこんな小物で悩んでいる・・・と自分を追い込む・・・。
そんな気持ちで作っていたと思われるのね。そんな事を踏まえて、まだ作るようなので、それを確認して、何をどっちよりで、どう作るか?って考えてから、後は切って張るだけ・・・ってスタイルか?ノリで気分で、何と無く作るか?は自由なのね。
例えばさくらは、フクロウをいろんな下地にワッペンのように張る・・・つまりいかにフクロウのデザインを完成度を高めて、繰り返すか?になる。そうかと思えばキウイは、同じ下地に同じデザインで色違い・・・まさに王道だったりしたのね。
そうやって比べるとね、三者三様でね、これも個性で良いと思うのね。だからダメなのは自覚。使うか?使わないか?で意味は変わって来る。使うに進めば、使うのだから綺麗だけではダメで、丈夫も必要になるが、丈夫過ぎるとゴツくなる。
ただ綺麗の度を超えると、いつもの大作になるし、一体どの程度が適当なのか?となると、腕が上がれば上がるほど、更に時間を掛ける作り方に慣れてしまえばしまうほど、いくらでも切り刻んで細かく出来たりもする。
けれど、それが芸術や美術、工芸まで届かないと、より使う側なのだからクラフトになる。まっ、俺のを見れば一目瞭然で、東錦の表札を作っている人のディスプレー台には見えないでしょ?・・・・簡単そうだしね・・・。
ただ、陸王の100年続いた足袋屋のノウハウを活かした・・・・って部分は、タイル屋を20年やってた・・・ここだとしたら?見どころは、どんな厚みの違うタイルやガラスでも、何を使っても平らになって高さが合うって事だったり、中心部のタイルが、
丈夫な床材になっている・・・そんなたわいも無い事だったりするのね・・・だってタイル屋なら誰でも作れるでしょ?きっとね。でも、作れない人もいるだろうね・・・きっと。そこを気が付いてくれた人がいれば、何かのきっかけにもなるような気もする。
ただアイデアなんてもんは、見てしまえば簡単に真似が出来たりするもんで、それを考えるまでが大変なのね。ただね、真似ばかりではね、誰かが何かを作ってくれないと、真似は出来ないのね・・・あはははは。
いずれにせよ、悩んだり、考えたり、そうした事をやったら、やった分だけは何かの役に立つのね・・・だって楽な事はしていないのだから・・・ただノリでやるのなら、楽しく、楽・・・ラクにやんないと・・・・きちんとやるならコンセプト。
自分がどっちよりでやるのか?はっきりすれば、真っすぐ進めそうだと思われるのね。それを何と無くだけれど、一応俺も何と無くだけど・・・見えて来たような気がするのね・・・・。