今日はキウイとお母さんの相席教室。キウイはドレスに手がぶつかった所に来たんで、いよいよ手に入ったのね。お母さんは右下の最後の咲いているバラ。それが高洲のサークルとは違ってアトリエにはタイルがいっぱいある。そんな中、新色に手が伸びたのね。
非常に単純な話だけれど、赤いバラを作るのだから、赤は沢山使いたい。所が絵画ならその赤を薄めたり、濃くしたりして濃淡で描いたり出来るが、モザイクは色を混ぜられない。そこで濃い部分を紫やエンジで薄い部分をピンクや白で・・・みたいにね。所が1㎝タイルには色に片寄りがあるのね。
例えば緑や青、ピンクにはバリエーションあるけれど、バリエーションの少ないものもあって・・・そんな中、わずかながら新色も出たりする。その中にピンクがあって・・・使いたくなるのも判るのね。ただ今まで使った事の無い鮮やかなピンクを急に使えば例え2.3粒でも影響は大きいのね。
例えば赤より濃く見せる紫、ピンクより明るく見せる白・・・こんな関係の中、鮮やかなピンクは、赤をも喰ってしまう位の影響力。たった2.3粒で。それは、単なるピンクでは左程の影響は無いが、鮮やか・・・ってここ。そこが影響力があるって事は良くも悪くも大きいって事なのね。
こう言うと使うの辞めようかな・・・って人もいるだろうが、使わなくても普通に終わるからそれはそれで安定した終わり方になる。ただ、使うとなると今までとは違う異物が入ってくる違和感のように見えるのね。ただ綺麗なだけで・・・つまり赤いバラがメインだったのに、2.3粒でメインになる・・・
そんな感じね。その時に起こる人の心理って言うのは、あっ、これ使いたい・・・その時には、もう赤を目立たせるって言っていた過去の自分はすっかり忘れて、今の気持ちのみに働いた・・・そんな心変わり・・・そんな気分なのね。では気分で変えたけれども、ピンクは前フリとして入ってもいる。
がしかし、鮮やか・・・の付くピンクは初めて。そんな状況確認をして、ここからは将棋や碁にも似た考え方で、そんな場合に起こる事は、常に全体を見て・・・と指導はしているけれど、ついついそこだけを見て決めたりしてしまうのね。大抵そんな場合、作る事に夢中で、自分の好きな色を使って、
さて今日は終わりにしようかな・・・と思った時、初めて離れて見る事になった時に、全体を見て・・・ここが変みたいになったりする。それは舞台を見るような感覚で、一列目で見る場合は、人の顔を観に行く感じだが、芝居を見る場合なら、全体を見渡せるような後ろに下がった方が見渡せる。
全くそれと一緒で、張っては引いて見て、また張って・・・とやれば、自分の作った作品がどう見えるか?と客観的な見方が出来る分、仕上がりも想像出来たりもするのね。それはまだ技術論以前の話であって、今回の場合は、ここまで作れるお母さんの話なんでもっと高度な話なのね。
では、異物にも思える鮮やかなピンクをどう使いこなすか?となった時、色決めみたいな事をするな・・・って指導もあったりする。そうね、今の流行りなら、ちはやふるに登場する団体戦の、ちはやちゃんでは無い女の子がこんな事を言うのね。競技カルタは下品で意味も無く競う的な・・・ね。
全くその通りなのね。ただ頭の1文字の早取りで良いのなら、あんな長々読む必要は無いのね。要するにカルタ自体に意味があって、その意味も判って・・・みたいな事を言うのね。それが単なる1.2回戦で争うような人達ならば、獲る事に必死で良いと思うが、段々と上手くなった場合、
一体その先に何をどう上手くなるつもりなのか?なのね。その姿勢として、単純に想像力・・・つまり1つ先を読むって事に繋がって行くのね。人のやる事ってのは全てに置いてほぼ一緒であり、何も考えずに感や偶然ではその先の上手さには繋がらないのね。
そこで切る技術が上手くなった人達は、その綺麗に切ったパーツをどう使う?とか、アトリエ以外でやっていた場合とアトリエの違いは何か?となった時、不自由と自由の関係だと思うのね。単純な話ならアトリエ以外はピンクを用意するのは俺・・・つまり普通の定番だけを持って行くのね。
それがアトリエなら豊富な色が見渡す限りある・・・って事になる。それをあるから自由で、無いから不自由って単純に考えるとそれは滑稽にも思えたりする。実はそんな単純じゃ無いから難しいのね。人って。常に言っている良い事と悪い事は背中合わせ。つまりここにもあるって事。
色があるって事は自由に選べるが、あるって事は迷うし、心変わりもする。しかし無いって事は不自由だが、最初から無いから、最初から最後まで一緒でありあるいみ無いから自由。考え方1つでどうにでも変わって来る。これを踏まえて考えると、アトリエのみでやっていたとしたら?
別の会場では不自由になるし、逆に別の会場からアトリエに来れば自由に選べる事になる。しかし、途中から・・・となると、今までどちらか寄りで作っているから、不自由になったりもする。簡単な理屈なのね。そんな状況確認さえすれば、そんな状況をどう打破するか?って置かれた環境の中、
工夫が必要になるのね。ここなのね。本当の意味での技術は。常に自分の都合で気分で変えて上手く行かない・・・では無くて、その中でどうする?って事が、切る事が上手くなった・・・って言われている人に必要な技術なのね。
おっと心持ちの話ばかりで詰まんない事になりそうなんで、それじゃまとめると、鮮やかなピンクが左下のみで使われるから目立つのね。と言う事は、そこだけに眼が行ってしまうからであって、あっちこっちに散りばめられれば、人の眼は分散する。つまり減らすんじゃなくて、増やすなのね。
幸いつぼみがあっちにもこっちにも良い位置にある。つまりそこにもなるべく大きく使えば、そのピンクの・・・鮮やかって言葉が散りばめられるに繋がると、鮮やかで赤の邪魔する存在にも思えるものが、逆に赤を更に鮮やかに照らす存在にもなるうる・・・ってな話。
モノの考え方ってのは何処から始めて、何処に着地するか?って事だったとしたら、赤いバラを作っているのだから、どれを引き立てて行くか?であり、邪魔をする事では無いのね。ただライバルがいるって言うのは、より向上にも繋がるが、バランスも乱れる。
作り手って言うのは生み出す人なのね・・・人の関係性では難しいだろうが、作り出すものなら、自分の考え1つで素敵なハーモニーにもなろう。しかし、ひとたび崩れれば、オーケストラのように色んな楽器で色んな人がいたとしたら、まとめるのは指揮者・・・つまり自分自身。
少ない色なら単純で済むが、沢山の音色をどうまとめるか?作り手は指揮者・・・感だけでは使えば使う程、一貫性が無ければ無い程、ズレが生じる。人のやる事はこうして、ほぼ全てが一緒って説明。あぁ、文字って面倒だわっ・・・何処まで伝わるか、判んないけど、ぶっちゃけちゃえば、
良くね、センスが無いだの、絵が下手だのって言って、やりもしないで無理って人がいんのよっ・・・やりたくないって言うのはそれで良いんだけれど、もしやりたいのに・・・って人が言っているセリフなら、こんなにナンセンスな話は無いのね。だってやった事無いのに判んの?って話。
簡単な話で、センスなんて想像力みたいな話なんだから、じゃ考えるの辞めれば良いじゃん。これで1つ悩み事が消えた。じゃ真似すれば、コピーで良いじゃん。これが最初は誰でも真似って話。つまり楽しむのは、タイルを切るって新鮮な行為を純粋に楽しめば良いのね。
切りたく無ければ並べれば良い。そんな人は色を楽しめば良い。いくらでもハードルは下げられるのね。ただ問題はどれを選んでも料金は一緒だって事・・・指導のね・・・ここなのね。その時に、最初は相談相手ってよりも話し相手くらいで十分だったりするけれど、段々と高度な事を必要とする
のね・・・しかも、本人の自覚無く。だからこっちも、その説明をすると、その説明疲れで、やっぱり辞めます・・・って言ったりもする。逆にそれなら言わないで置こうかなぁ・・・と思うと、聞かれるから答えると、自分の答えは決まっているのに、どっちが良いですか?みたいな事になって。
まっ、ハンドルネームがあるような人達の指導って言うのは、一筋縄では行かない・・・って話。それ位、複雑な事を質問されたりするのね。人の心の中に入ると、入った分、痛みも感じる訳で・・・疲れも倍増する。それが本気ならこちらも本気になれるが、じゃ辞めときます・・・ってあっさりでは、本気のスイッチは中々入れられないのね。ただ、あくまで趣味だし、もう十分な域には達していると思うのだけれど・・・・。
何処まで指導が必要なのか?・・・一体それは誰が決めるんだろう?って話。
いずれにせよ、ここまで上手いと欲も出るし、より良くしようと思えば難しい事も出て来る。しかし、難しいのは技術うんぬんの前に、自分の心持ちなのね。大作って言うのは最初の自分から随分と時間が経っちゃうからね・・・・最初の自分のまま行けるのか?変化したらどう変化させるのか?
一番やってはいけないのは、今までやった自分を台無しにしてしまう事。これだけは必ず注意はする・・・ただね、あくまで注意。選ぶのは本人じゃないと、やらされた・・・って気持ちが残るから。それにも良い事と悪い事がある気がするのでね・・・あはははは。
いずれにせよ、ここまで上手いと中々手ごわいのね・・・指導が。って話なのね。