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姑様、施設入所して丸一年

2020-01-07 | 介護

きょうは現在96歳の姑様が施設に入所してちょうど一年の日です。あっという間の一年でした。

それまでは週に4回、通所で介護を受け、一日はヘルパーさんが2回入り、土日は私たち夫婦でお世話していました。

介護度は4、そのまた一年前、部屋で転んで大腿骨頸部を骨折、金属入れる手術とリハビリして3か月後に退院。

家ではベッドに横になって眠っているのがほとんどで、しかも、すぐに行ける隣の家なので、ずっとお世話している拘束感はなく、楽な介護だったと言えると思います。

食事は自分で食べるけど、歩けないのでオシメを当て、それは夫がお世話していました。ビルの四階に住んでいたのですが、あとでつける予定のエレベーターは今に至るまでつけていないので、デイサービスのある日は、夫が介護用の背負い紐で運んでいました。

ケアマネさんは退院後、介護度が4になったところで施設入所を強く勧めてくれましたが、夫が自分で看ると、頑として聞き入れなかったのです。

当時の介護の様子はこうです。

7:40 オシメ替え、汚れていたら服の着替え、食事の世話、歯磨き、うがい。

8:20 施設の連絡ノート確認。替えのオシメと中当てパッド2枚、ノートを入れてバッグの準備。夫が背負って1階まで下ろし、施設の迎えを待つ。

16:00頃帰宅。背負って上がり、ベッドに入れる。

18:30  私の作った食事2人分を夫が運び、オシメ替えのあと、お茶淹れたりして一緒に食べる。私は自宅で一人ごはん(寂しいとは全然思わず好きなところで食べていた。リビングの座卓で大きいテレビ見ながら食べるのが、温泉旅館みたいでくつろいだ。あれ取ってこれしてと言われず、一人でゆっくり食べてよかった~)

食後の歯磨きは毎食後。

22:00頃、最後のオシメ替え。

週に一度ヘルパーさんが入る日は、9:00からオシメ替え、朝食の世話、歯磨き。洗濯機で洗濯開始。台所の流し台の掃除。

12:00からオシメ替え、私の作った昼ご飯を食べてもらい、その間に洗濯物を干す。歯磨き。

夜は通所の日と同じスケジュール。

土日は三食夫が世話。オシメ替えは4回。洗濯は私か夫のどちらかがする。

夫が夜の会合や、土日の用事の時は私が一部を替わっていた。

一番緊張したのは、ベッドからキャスター付きの椅子に移すとき。落としたら、本人は立てないので女ひとりではどうしようもない。幸いそんなことはなかったので良かったけど、筋力のない体はたとえ40キロでも砂袋のようにずしりと重い。よく持てていたなと今になれば思う。

コツは脚の間に自分の太ももを差し入れ、体をこちらに倒して、自分の体全体で移動させること。腕の力だけでは到底無理です。

10キロの米袋4つ、重ねて手で持ち上げるのはどう考えても不可能。それと同じこと。

夫と二人でお世話している時には、あれこれ言い合う余裕もなく、ケンカしたところでお世話はあるのなら、お互い気持ちよくしたいと思っていた。

人に夫がオシメ替えすると言うと、皆さん驚いていた。そこまでする男性はいないと。夫は仕事柄、人の世話は慣れている。便秘気味で週に一度の浣腸、とその始末。それでも出ないときは摘便(薄いゴム手袋嵌めて手で取りだす)していました。私は現場へ行ったことありません。後で話聞くだけです。一緒にすると言えば拒まれなかったと思うけど、夫は一人でしていました。

こうして書いてみたら、私の介護なんて、介護とも言えない楽なものだったと気が付きました。お世話したことで、自分の老後のことも具体的に考えられるようになったし、人の役に立っているいう気持ちいい体験をさせてもらったので全然悔いはありません。

昨年の1月6日日曜日夕方、夫が作りためたスピーカーボックスをお正月の間に壊してゴミに出す準備していて、重いものを持ち運びするうち、ひどいぎっくり腰になったのです。全然腰が動かせず、その日は私がオシメ替え、食事の世話は夫がした記憶があります。

ケアマネさんに相談したら、ショートで入れる施設を紹介され、翌朝、施設の職員さんが姑様を運び下ろし、とりあえずの着替えと歯ブラシ、コップだけ持って家を後にしました。

二週間の予定が夫の腰痛は回復せず、二か月後にはショートステイから特養枠で介護を受け今に至る。

と言うのがこの一年のあらましです。

初めは気になって、週に三度くらい見に行ってました。徒歩で15分くらいの施設なのです。家で看ていた時から軽い脳梗塞を何度か繰り返してものが言えなくなっていましたが、私たちの姿を見ると泣きそうな顔をするので、帰りたいのかなとも思っていました。

夫は一度家に連れて帰りたいと言っていましたが、それも無理だと悟り、せめてなくなったら通夜は家でしたいと言ってましたが、棺桶、どうやってビルの四階まで運ぶの、斜めにしたらお母さんがずれる、通夜のお茶出し、近所に頼む時代じゃないし、と私が反対し、諦めたようです。エレベーターだって縦に入れるわけに行かないですもんね。

ああ、長くなった。

長い私の人生の中で、姑様の大変なお世話はわずか一年間。今ではいい経験させてもらったと思えるようになった。

その只中にいる時は、いつまでこんなことが続くのかと閉塞感一杯。夫親族がたまに来ても私のことは全く無視、空気のような扱い。母親囲んで話している時は、その場に加わるのも遠慮しないといけない無言の雰囲気。

悪気ではなく、その立場にならないと分からないのだと思う。かつての私のように。ここは大いに反省しています。感謝は言葉に出さないと相手に伝わらない。

昨年の今頃、たった一言、夫親族から「お世話になってます」と言われたらもう少しは頑張れたと思うけど、夫から「いつもすまんのお」とシャボン玉ホリデーの植木等みたいに言われたら(古ッ!!)する気も持続したと思いますが。

頑張れたのはヘルパーさんとケアマネさんのいたわりの言葉、実母の「あんたが一番大変」という娘びいきの言葉、それに役に立てていると思うささやかな喜びと、時たま見せる姑様の無垢な笑顔。それだけかな。

夫は腰が治ったらまた家で自分が看ると言っていましたが、「私はもう知らない。私がしても自分がお世話したと思っているかもしれないけど、私とあなたは別の人間。感謝されたらするけど、誰からも感謝の言葉がないのでもうしない」と言いました。

たった一年しかたってないのにずいぶん昔の気がする。

一度、私の料理をわたしの親を引き合いに出してけなされたことは未だにとても悔しい。義妹が来て作ったもの食べて、自分の親の作ったのに似ていたので嬉しかったそうです。

そのことは三度くらい強く抗議しましたが、そのたびに何のかんのと言い逃れして、いまだに頭を下げません。

私の母は料理はとても手早い。それは農家で、ゆっくりつくる時間がなかったからだと思います。冠婚葬祭に春秋の親戚を呼んでのお客、大量の料理も手早くやっていました。手先はとても器用で、和裁は呉服屋の仕立てしていたし、子供の頃は私の服は全部は母が縫っていました。

それをあれこれ言われて、その時うんと言い返していればよかった。いまだに悔しい。まあ自分の中で折り合い着けてますけどね。

実にいろいろな教訓の詰まった介護生活でありました。以上。

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