満蒙開拓団の人々が北満から歩いて
新京にたどり着くというのは
日本で云えば東海道五十三次どころではない
見渡す限り広大な平原を止まることなく歩いて
歩いて逃亡をつづけるということでした
集団の中には身体の弱かった人や
歩けなくなった人はその場に残して、
また、乳飲み子を抱いた家族も
おられたでしょう
母親の背中で亡くなった子供はその場で
土に埋めて、逃亡の人々に遅れないよう追いかける
足手まといの我が子を現地の人々に渡したりして
兎に角、逃れる集団に遅れないよう、人間として
どん底の環境で新京へやってきたのでした
… … …
現地人に託された子供たちは
中国残留孤児として戦後、
日本で大問題になります
新京の日本人たちは、
この悲惨な話を聞いて
皆で少しばかりの金を集め、
見舞金としました
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