初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

親父の一番上のお兄さん

2020年01月09日 19時20分42秒 | Weblog


兄弟の大勢だった親父の

次の兄は、歯科医を開業して

いました。

親父の一番上の兄は

東大医学部の部長でした。

… … …

私がまだ、幼稚園に通っていたころ

朝早く、親父の一番上の兄貴が

夫婦で訪れたことがありました。

… … …

挨拶を交わして、その叔父さんを

見ると、首に包帯を巻いていました

叔父さんは、食道がん、でした。

言葉は交わせたのですが、

小さく切った食パンを牛乳にしたして

食べておられました…

… … …

叔父さんは、大きな大学ノートを

親父と母親に見せていました

その大学ノートには、

叔父さんの食道がんの、症状を

医学者として冷静に記録されて

いました…。

… … …

その一番上のお兄さんは、

末っ子の親父に最後の別れに

京都へやって来たのでした。

… … …

親父の兄弟は、みんな優秀で

医師、銀行の頭取とスゴいのですが

末っ子の親父だけ、映画界に勤める

異端児?でした。






抗生物質ペニシリン

2020年01月07日 19時18分48秒 | Weblog


現在の日本は、少子化で老齢化が

問題になっています。…

私の親父の時代は子沢山で大家族が

多かったようでした。

私の親父は6人兄弟の末っ子でした

親父の上の兄貴が真冬の満州へ

やって来たことがありました。

その叔父さんは、銀行の頭取でした。

… … …

親父と叔父さんはどこかで会ってから

日本へ帰国したようです…

しばらくして、その叔父さんは

急逝しました…

肺炎だったようでした。

叔父さんは、弟の親父に

最後の別れに満州へ

来たのかも知れません。

… … …

戦後、世界初の抗生物質の

ペニシリンが誕生します

青カビからフレミング博士が

発見するのです…

親父は、もう少し早く出ていたら

兄貴は助かったのに…

と嘆いていました…







新型ラジオ

2020年01月06日 20時01分33秒 | Weblog


ある日、親父は大きな箱を

持って帰ってきました…

箱を開けると新しいラジオが

出てきました…

… … …

当時のラジオは、並四(なみよん) と

呼ばれて、真空管方式で真空管を4本

使ったもので、検波管→増幅管→出力管

それに整流管の4本の真空管を使った

ラジオが一般的でした。

… … …

親父が買ってきたラジオは

選局ダイアル面が横長の

モダンなスタイルです。

ラジオの裏蓋を見ると

スーパーヘテロダイン方式と

書かれています。

小学生の私には

さっぱりわかりません。

… … …

受信周波数は中波で

535~1650キロサイクル?

で、ダイヤルを左に回していくと

長波帯があって、地元の満州語放送が

受信できる構造でした

… … …

当時、日本は戦時中なので

短波帯(たんぱたい)の放送を聞くことや

短波受信機を持つことは禁止されて

いました。

※添付写真のラジオは、当時のラジオでは

ありません。なんとなくこんな形だったので

参考に貼り付けました。



新京つれづれ

2020年01月04日 21時07分11秒 | Weblog


満洲國新京特別市は空気が乾燥

していて、雨が少ないところでした。

空気が乾燥しているせいか、近くに

見える大きな建物が実は遠くにあること

が、わかってきました。…

… … …

家のまわりの野原の向こうに

白っぽい大きな建物がありました。

夕方前のある日、一度行ってみようと

広い高梁畑(こうりゃん)の畦道を通って

歩いて出掛けました

… … …

歩けども歩けどもその、

白い大きな建物は遠ざかっていきます。

やっとたどり着いて標識を見ると

サナトリアムでした

空気が澄んでいるので結核療養所が

出来たのでしょう。

… … …

家から遠くに満鉄(まんてつ)の

線路が通っています。毎夕6時頃になると

流線型の特急列車アジア號(蒸気機関車)が

フォーンと汽笛を鳴らして走っていきます。


その線路脇に

満鉄駅・蒙家屯(もうかとん)が

ありました。…

… … …

その蒙家屯駅の近くに

大きな養鶏場があって新鮮な卵を

販売していました。

… … …

時々、母親に頼まれたお使いで

卵を買いに行っていました。

養鶏場の門は閉ざされていて

門の脇のインターフォンで

「卵を買いに来ました…」と告げると

門を開けてくれる不思議なところでした。