【きょうの人】 0725 聖宝(理源大師) 醍醐寺の開祖 修験道の中興
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■ 聖宝(理源大師) 醍醐寺の開祖 修験道の中興
しょうぼう
天長9年2月15日(832年3月21日)- 延喜9年7月6日(909年7月25日)
平安時代前期の真言宗の僧、醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖でもあります。また、後に当山派修験道の祖ともされています。
俗名は、恒蔭王(つねかげおう)で、天智天皇の6世孫にあたり、父は、葛声王(かどなおう)といい、諡号は、理源大師です。
三論、法相、華厳などを学び、後に、密教を真雅、真然より授かっています。醍醐寺を開き、また東南院を建てて、三論宗の本拠地としています。
役行者(役小角)の遺風を慕って、その再興に務めたので、後世、修験道の中興と言われるようになりました。
『古今和歌集』に歌一首があります。
聖宝に唱える言葉は「南無聖宝尊師(なむ しょうぼうそんじ」であり、三祖宝号の時は「南無遍照金剛、南無聖宝尊師、南無神変大菩薩」で、お山の中では順番は逆になるのだそうです。
善導寺にて『末代念仏授手印』などを授かり、『領解末代念仏授手印鈔』を著して弁長の印可を受け、学問的な後継者となりました。
信濃国に向かい善光寺に参拝したりしています。建長元年(1249年)には利根川に沿って関東に下り下総国の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著します。
そして、浄土宗学の基本となる『決答授手印疑問鈔』や『観経疏伝通記』などを著し、各地で講義を行いつつ弟子の育成に努めていました。しかし、正元元年(1259年)外護者の椎名八郎と衝突し、数人の弟子を連れ匝瑳南条荘を去って鎌倉に入りました。
鎌倉では、大仏勧進聖浄光の坊に仮寓し一時をすごしましたが、大仏朝直の帰依を得て佐助ヶ谷に悟真寺を創建しました。朝直の子時遠から悟真寺坊地や寺領の寄進を受け経済的にも安定し、専修念仏の指導的な立場に立つとともに、他宗の僧侶からも高い評価を受けました。
建治2年(1276年)には、弟子の要請によって上洛し、間もなくして紫野門徒源智の弟子であり、百万遍知恩寺3世の信慧と東山の赤築地(あかつじ)において談義を行っています。
弘安9年(1286年)、当時混乱していた浄土宗の統一に尽力し、鎌倉に戻った良忠は、長男の良暁に浄土の奥義を伝授し、弘安10年7月6日(1287年8月16日)、89歳で入寂しました。
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