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筆記テストと偏差値は個性をつぶす

2024-07-08 10:34:26 | その他
いつ頃からか分かりませんが、何かを評価するときに偏差値という値が重要な意味を持つようになっています。

私は実際の意味やどうやって数値化するのか分かりませんが、本来統計学の単語のはずが現在では独り歩きしています。ただ数値として出ていますので、分かりやすいことは確かで、その辺りから頻繁に使われるようになったのかもしれません。

さて日本経済の停滞基調を解消するためには、生産性の向上、つまり全体の労働能率を高める働き方を導入する必要があると言えます。個人の生産性を向上させるための一番の根幹は、国民の教育にあります。

世界の教育水準と比べて、日本の教育については悲観的な見方が多いようです。第一に日本の受験システムが筆記試験で合否を判定するため、いわゆる偏差値教育が生まれ若者が天から授かった特異な能力を十分に発揮できなくなっています。

不得意科目をなくしてみなを平均化する教育では、もって生まれた個性を生かすことはできません。各自の得意な分野を徹底的に伸ばす、言ってみれば「オタク」を産む教育をしなければ、イノベーションは起こらず日本は世界の競争についていけなのではないでしょうか。

ある専門家の理念として、各人が自分自身に尊厳を持ち、その理想を実現できるような教育環境を世界の若者たちに作ろうとしています。

ペーパーテスト偏重で記憶力ばかりが問われる日本の受験勉強が、科学者にとって最も重要な「なぜか」という問いかけを若者にさせなくなっていると指摘しています。アメリカでは大学に応募する学生はこれまでの活動や将来の抱負を詳しく書き、面接を通じて全人格を評価されます。

この様な配慮がなければ、今持っている知識が豊富な人だけが選ばれ、自分で問題を発見し解決する能力を持つ人材は選べません。日本は昔から農耕社会で灌漑など共同作業をするのに長けており、協調性が尊重されてきました。

その反面皆が持つ個性を尊重せず、時には個性を抑圧することもありました。農耕社会では昔の記憶が役に立ったので、年寄や物知りが大事にされました。しかし現代では、百科事典的知識の持ち主の有用性は格段に落ちています。

現在研究者に必要なのは、ヒトを真似することではなく、人類のためになる新しい知識や新しい技術をいかにして見つけ出し、いかに現実に役立てるかを考えることです。

だからこそ研究者は「なぜか」を問い続け、まだ知られていないアイデアを見つける努力をしなければいけないとしています。私はこういった論調に必ずしも同調していません。

こういった意見は全員が同じような能力であるかのような前提がありそうです。実際はできる人もできない人もいますので、そういった中で教育をどうするかの議論が必要な気がしています。


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