kirakira 日記

きらきらした人生にしよう♪

さら小5の主張

2021年11月30日 22時29分50秒 | 成長記録
西宮図書館でと思うが、取って来たチラシで、「親から子へ 子から親への ハガキ代募集」というのがあった。日頃なかなか口にできない、今だからこそ伝えられる、そんな気持ちを綴るというもの。

さらに、「お母さんとかお父さんに伝えたいことある?」って聞いたら、募集要項が書いた紙に書き出した。



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お母さん、「てつだいして。」っていったらすべて、お母さんたちのいうことを聞いて言うとうりにするのいや。すべてお母さんが正しいとかぎらない。おこられて、おもわず「はい。」とこたえるけどそのとうりにするのがいいんじゃない。よけいにめんどくさい。やりたくないことも「やれ」とか食べたくない物を「食べろ」とかそういうの本当いや。さいあくやな~。

お母さん、がんばりすぎ。
もうちょっと心を休めようよ。
おこられたけど好き。

手つだいするとき思うねん。大変な家事、大変な仕事してるんやな~。また、手つだおうかなでもめんどうやしな?

ママ友たちとしゃべってる時、うるさいし、ひまやし子供またせといてなんやねん。ふん。ぷん。

買えるのは、ここまでで何円とかきめるときあるけどもうちょっい自由にしていただけませんか?なんでも、お母さんの名令(命令のこと)にしたがいたくない。

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にっくたらしい。
でも、私も子どもの時だったら、こう思ってたかもしれないし。
さらのその時の気持ちを残しておくのはいいかもしれない。

かわいいところもあるねんけど。
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わくわくひろば ー ここはパワースポットか、ここはいい気が流れてる

2021年11月28日 00時34分27秒 | 生活団からの気付き
生活団の後継のわくわくひろばの働き人としてお手伝いに行って来た。
11/9にした打合せもだけど、何かと感動すぎた。

久しぶりに見る4歳児に、4歳ってこんな小さかったんだと、我が子がいる団体でないと客観的に見れる。


私、人と働く時って、「ちゃんと役に立ってるか」を気にする性質みたい。察して動くとか気の利くことはできないから、人がしてると、ああこうやって動いたらいいのかと思ったり、今ので「気が利かないな」と思われたかなとか無意識に気にしてしまう。

生活団って独自の方針があるから、何かして余計なことかなとか思ってしまうから、変なことできないと思ってしまう。でも、打合せではこうして、これはしないでとも言われてないから、どう動くは本人の裁量権に任されている。間違ったことはしたくないから、マニュアル的なものがあったらとも思うんだけど。

例えば、親子が入って来た時、生活団の時の違う学年のお母さんがいたから挨拶してたら、そこから少し話してしまった。そう言えば打合せの時、「お母さん同士が喋ってしまうと、朝の『今からやるぞ』というぴしーっとした空気がなくなってしまう」と言ってたなと思い出した。そうしたら、働き人で行ってる私が空気乱してどうすんだ?と思ったり。

お昼ご飯食べる前、今しかチャンスないとトイレ行ったら、「○○さん(私)を待ってるよ」と子どもより私が一番遅いし。

もちろん、今何をするか明らかに分かってる内容に対しては、水汲みとか雑巾絞りとか、床拭きとかせっせせっせとしてたけど。

私、役に立ててるのかなと思いつつ、働き人をしてたのに、終わってから「ありがとう~。○○さんがいなかったら、どうなってたか」とか言ってくれた。私、ここで特殊技能とか自分の得意な事を発揮するとか全然そんなことなかったのに、この普通に誰でもできることしてるだけでこんなに感謝されるなんて。(普段から私は、人が思う以上に、もっとしないと、もっと役に立たないとと思ってるのかもしれない。)


昼食の時は、さあやの時と同じように、静かな時間があった。
讃美歌454番「うるわしき朝も」をピアノで弾いて、子ども達が目をつむる。
小さい子が目をぎゅーっと閉じてる様子は、何か尊い。



先生 気になるところを話す
自分が子育てしててお母さんの立場で、それを指摘されたら「注意された」と思ってカチンと来たり、素直に受け取れないだろうな。

それは何故かと考えた。
ただ自分が怒りっぽい性格とかということではない。

子どもの頃から感じてた感覚だけど、公教育ではなにか正しい答えがあって、それを求められているという空気を感じてた。(子どもの時は、そこまで表現する力はないから、そうは言ってなかったけど、振り返ってみると、そういう見えない縛りのようなものを感じてたという感じ。)

生活団の教育では、自分が思っていることを言うことを求められる。ここでは、素直に自分の意見を言っていい。それを受け入れる土壌がある。

生活団で何か「こうでしたよ。」というのは、公教育でのやり方に慣れていたら、注意されたと感じてしまう。でも、生活団の指導者は客観的な事実を言っているだけなのだ。それを元に、「こちらが正しい」「あなたは間違ってる」「母親としてこうすべき」「このやり方に変えたらいい」と言っている訳ではないのだ。でも、公教育のやり方に慣れていたら、「注意された」「ダメ出しされた」と思ってしまうということがあると思う。

でも、先生もそれは十分承知していて、これを言ったら押し付けになる、とか考えてくれている。


ブラウスの着方を教えに来た三好さんの次男君は、最後に名前とお印を言う際、すぐに言わなかった。この子の兄はうちの次女と同じ学年で、幼い時からしっかり自立するよう教育されてるからしっかりしてて、恥ずかしくて言えないとかいうタイプじゃないと思ってたら、「こっち見てない人がいるから」と言う。すごい!みんなが話し手の方に集中してなかったら、まだ話すタイミングじゃないって、口で言い聞かせるんじゃなくて、体現してる。しかも、注意という形を取るんじゃなくて、待つというのがすごい。


わくわくひろば、子どもの集まりがあって、親は生活お役立ち情報の講習があって、1回2,200円って安すぎる。でも、それだけ幼児教育は誰でも受けられる敷居の低い価格にしてるのか。キリスト教精神でやってるからからか。でも、残念なのは、この教育がそこまで知れ渡っていない。人って安いものには惹かれないというか、高いものだと高いなりの価値があると思ってしまうってとこがあると思う。実際、そうでないただ高いだけのものもいっぱいあるんだけど。そして、タダのものは感謝されないけど、生きて行くのに必要なものはタダのものばっかりだったりする。空気とか。(これはさとうみつろうのブログにあった。)
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