内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

忘却への意志 ― 再び「忘却のエチカ」について

2018-02-19 00:00:00 | 哲学

 私たちは忘れることを意志することができるだろうか。
 コンピュータのデータを消去するようには自分の意志で自分の記憶を抹消できないことは言うまでもない。
 例えば、テレビドラマや映画によくある設定ではあるが、その人の過去を知らずに付き合いはじめた後に、その人が過去に殺人を犯していたことを知ったとする。それを知ってしまった後に、あたかも何も知らなかったかのように以前と変わらずにその人と付き合うことは私たちにはまずできない。表面上、その人に気づかれないように、以前と変わらず振る舞おうと意志することができる場合もあるかもしれないが、知ってしまった過去の事実の記憶を完全に消去することはほぼ不可能と言っていいだろう。
 個人のレベルでは、人工的に脳にある処置を施すことでその記憶だけを消去することは脳神経学的にはすでに可能なのかもしれない。薬物投与によってその記憶を完全に抑圧してしまうことも不可能ではなくなるかもしれない(あるいは、すでに可能なのかもしれない)。もちろん、そのような医学的措置が法的に認可されるとはとても思えないが。
 ただ、本人自身が、なんらかの理由で、ある記憶の消去を願望あるいは意志するということはありうる。そして、そのために上記のような措置を自ら望むということはありえないことではない。しかし、そのような場合でも、忘却そのものを本人が意志的に実行したのではないことには変わりがない。
 ところが、個人のレベルではなく、ある集団の複数の世代間については、話が変わる。
 ある世代が、もうこの記憶は次世代には受け継がせないほうがいいと判断し、あらゆる記録を自分たちの世代で抹消することによって、その集団が自らの歴史の中のある出来事を「忘れる」ことを決断するということはまったくありえない話ではないだろう。もちろん、実際には、このような仕方で完全に過去の出来事を集合的に忘却することはきわめて困難だとは思うが。
 先週月曜日のセミナーで、忘却の倫理という問題を私は提起した。そのときは時間の都合で一言言及しただけで終わってしまった。だから、この問題をそれこそ忘却しないために、ここにその記録を残しておく。
 この問題については、2015年8月16日の記事「忘却のエチカ、失われた理想を求めて」ですでに一度取り上げ、若干の考察を述べたことがある。ご参照いただければ幸いである。