三木清『人生論ノート』の「幸福について」というエッセイを修士一年の演習で読んでいることは先日の記事で話題にした。新潮文庫版でわずか8頁の文章だが、西洋哲学史上の古典的な著作家とその言葉への言及が数カ所に見られる。
いずれの場合も三木自身の理解と見識に基づいた言及あるいは引用であり、引用された文言が原典の文脈の中でもっている意味に必ずしも忠実であるとはかぎらない。それだけに注意深い読解が求められる。
パスカルの『パンセ』からの引用については、先日の記事ですでに見た。アウグスティヌスは、名前のみ言及され、特定の著作からの引用はない。
エッセイの終わりの方にゲーテからの引用がある。
人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは人格になるということである。(21頁)
これはゲーテ晩年の詩集『西東詩集』(1819年)の中の「ズライカの巻」から引用である。大山定一訳を引く。
庶民も奴隷も支配者も/みんなが口をそろえていいます/地上の子の最大の幸福は/人格のみである と/自分自身を失わなければ/どんな生活も苦しくはない/自分が自分自身でさえあれば/何を失っても惜しくはない と。(『NHK100分 de 名著 三木清『人生論ノート』』より)
上掲の「幸福について」からの引用部分だけを読むと、三木は、人格をそれになるところのものと捉えているように読めてしまう。引用箇所の次の段落でも、「人格というものが形成されるものである」とも言っている。
ところが、この解釈では、上掲のゲーテの詩の内容とずれてしまう。なぜなら、この詩では、人格とは、何を失っても失われることのない、自分自身がそれであるところのものにほかならないからである。この意味では、人格は、「なる」ものではなく、つねにそれで「ある」ところのもののはずである。
三木は誤解しているのであろうか。そうではない。それは、エッセイの最後から二番目の段落を読むとわかる。
幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。(21頁)
この定義に従うならば、幸福とは、すべての「持ち物」が失われても己がそれであるところのものを自覚するところにある、と言うことができるだろう。