内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

言葉の命の蘇りとしての詩的表現 ― 『万葉集』と源実朝

2018-02-10 23:59:59 | 詩歌逍遥

 万葉集の全歌読了計画は順調に進んでいて、すでに3066首読み終えた。残り1450首である。今日読んだ十首のうちの一首は巻第十二・2894。

聞きしより 物を思へば 我が胸は 割れて砕けて 利心もなし

【原文】従聞 物乎念者 我胸者 破而摧而 鋒心無

 結句の「利心」は「とごころ」と読み、「するどい心、しっかりした心。たしかな心」(『岩波古語辞典』補訂版)の意。歌意は、「その人のことを噂にきいてから憧れてずっと物思いに沈んでいるので、私の胸は破れてこなごなになって、生きた心地もない」(伊藤博『萬葉集釋注』、集英社文庫)、「あなたのことを聞いた時から物思いをしているので、私の胸は割れて砕けて正気もない」(新版『万葉集(三)』(岩波文庫)。
 この歌を読まれて、実朝のあまりにも著名な名歌、

大海の 磯もとどろに 寄する波 われてくだけて 裂けて散るかも

を直ちに思い浮かべられた方も少なくないであろう。
 実際、岩波文庫の新版『万葉集(三)』の上掲歌の注には、源実朝は、この万葉歌にならって詠んだとの指摘がある。『釋注』には、実朝歌についての言及はなく、万葉集中の類句を二つ挙げるのみ(XI-2716、XII-2878)。
 岩波古典文学大系版『山家集・金槐和歌集』の上掲実朝歌の頭注には、巻第四の「笠女郎、大伴宿禰家持に贈る歌二十四首中の次の一首(600)を挙げ、実朝がそれに学んだとの指摘がある。

伊勢の海の 磯もとどろに 寄する波 畏き人に 恋ひわたるかも

 歌意は、「伊勢の海の磯をとどろかしてうち寄せる波、その波のように恐れ多いお方に私は恋い続けているのです」(伊藤博『釋注』)。
 この笠女郎の歌と実朝歌との関係については、小川靖彦『万葉集と日本人 読み継がれる千二百年の歴史』(角川選書、2014年)第五章「二 源実朝の『万葉集』」にきわめて示唆的な注解がある。これについては明日の記事で取り上げる。
 万葉歌をこよなく愛した実朝のことであるから、上掲万葉歌二首両方から学んで作歌したことは間違いない。しかし、これはいわゆる本歌取りとしての見事な成功例ということに尽きるものではなく、ましてや単なる形式的模倣ではない。
 吉本隆明は、『源実朝』(ちくま文庫、1990年)の中で、「べつに実朝の歌は、力強いから『万葉』調なのでもなく、『万葉』を模倣したから『万葉』詩人なのでもない。実朝のある種の秀歌が、〈和歌〉形式の古形を保存しているから『万葉』の影響があるというべきなのだ。」(174頁)と指摘している。
 確かに、万葉の古形が実朝において、「複製」されているのではなく、「再生」されていると見るべきだろう。〈和歌〉の古形に込められていた言葉の命が数百年の時を超えて新たな詩的表現のうちに蘇っているのだ。