内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

いっさいの価値判断を前提としない「公平な」理解はありうるか

2024-03-02 14:26:47 | 読游摘録

 『歴史のための弁明』第四章「歴史的分析」の第一節「裁くのか理解するのか」 Juger ou comprendre を見ていこう。この節でブロックは歴史家の仕事について検討すべき二つの問題を取り上げる。
 第一は公平さの問題である。この節のタイトルが示唆しているように、公平さにも二種類ある。学者(歴史家)の公平さと裁判官の公平さである。どちらも真実に対して誠実に従うという原則は同じだが、次の点で両者は異なる。歴史家は観察し説明するのが本来の仕事であるのに対して、裁判官はそれに加えて判決を下さなくてはならない。罪を宣告するためには、裁判官はなんらかの価値体系に依拠しなくてはならないが、歴史家の立場からすると、これらの価値体系は時代や文化によって変わりうる。ブロックにとっては、歴史家は「理解すること」が本来の目的なのであって、「裁くこと」が問題ではないことになる。
 しかし、価値判断と理解は完全に切り離すことができるだろうか。いかなる価値判断も前提としない理解などありうるだろうか。いかなる価値体系からも中立的な、あるいはいかなる価値体系も前提としない「公平な」理解などありうるだろうか。そもそも、歴史家が史料にある一定の問いかけを行うためには、一定の価値判断を前提とせざるを得ないはずである。
 この公平性の問題は同節の第二の問題と切り離せない。それは、歴史は再現の試みなのか分析の試みなのかという問題である。「理解すること」は受動的な態度ではまったくない。史料さえ整えば自ずと歴史が再現されるわけはない。歴史家はさまざまな痕跡のなかから「選び、より分け、一言でいうなら分析するのだ」とブロックは言う。対象を雑然と描くのではなく、そこに筋道を見いだし、合理的に秩序づけることが大切だと言う。分析のためには、いきなり混沌とした全体を相手にするのではなく、人間活動の領域ごとに便宜上分割して検討するのがふさわしいこともあるとブロックは認める。もちろんその分割が歴史家の最終目的ではない。歴史学が再構成すべきなのは、全的人間、「肉と骨をもつ唯一の存在」である人間であり、この全的人間が織りなした全的歴史である。
 しかし、まさにそれらの作業過程を合理的に行うためにはまず一定の価値判断が必要ではないのか。とすれば、歴史家の仕事に関わる第三の問題として、「裁いてはいない」つもりの自らの理解の前提となっている暗黙の価値判断をどのようにして自ら批判的に検討するかという問題も提起されなくてはならないはずである。