内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「種族」「民族」「国民」― これら三つの概念の弁別的価値をどう規定するか(下)

2024-03-08 12:10:50 | 読游摘録

 昨日の記事に引き続き、住谷論文を読む。残りは二段落。
 その前に一言断っておくと、住谷論文では「共属感情」と「共属意識」との区別が明確に規定されずに両者が混用されている。これから見ていく段落ではもっぱら「共属感情」が用いられ、それと関連する概念として「血統意識」「責任意識」という言葉が使用されている。そのことに注意しながら読んでいきたい。
 「民族」と「国民」をともに共属感情と見なすとして、両者の間にはどのような共通性と差異性があるのか。
 ここでもエルザス人の場合が考察対象となっている。エルザス人は「国民」としてみれば、ドイツ系フランス人である。「種族的」共属感情でみればドイツ指向であってもよいはずなのにフランス指向であるのは、彼らのフランス文化への、そして政治的運命の追憶への、大衆的な名誉観念の存在にあると住谷氏は考える。この大衆的な名誉観念が政治的な運命共同体を形成するとも言う。
 次に挙げられる例はスイス人である。フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロマン語等の言語的多様性、民俗・ハービトゥスの差異を乗り越えて「国民」としての統合を彼らが保っているのは、カントンにみられる直接民主主義に根ざす文化と政治形態への大衆的名誉観念の存在ではないかと住谷氏は言う。
 ここから次のように「民族」と「国民」とを規定することを住谷氏は提案する。「部族」Stamm というここまで同論文で使われていなかった概念が導入され、全体としてちょっとわかりにくい表現なのだが、まずは当該箇所をそのまま引用しよう。

「種族的」共属感情レヴェルで血統意識による大衆的品位感情にもとづいて対外的連帯義務感が培養された場合が「部族」であるとすれば、同じレヴェルで誇りとするに足る伝統文化の歴史への大衆的名誉観念にもとづいてそれが生じた場合が「民族」であり、さらに、その伝統文化の保持が歴史への政治的な責任意識(=威信感情)となって現われた場合が「国民」であると言えないであろうか。

 「部族」云々は措く。そのうえで思い切って言い方を易しくし、そこに私見を括弧内に滑り込ませると以下のようになる。
 同じ伝統文化の歴史に属していることを身分の差を問わず成員皆が「誇り」あるいは「名誉」に思っている人間集団が「民族」であり、その伝統文化の保持が歴史への自分たちの政治的な責任であるという自覚が成員に共通の「威信」となっている(ことになっている)場合が「国民」である。
 「国民」という概念は、上記の条件を満たしている集団に一様に適用できるのだろうか。ドイツ国民とスイス国民とは同様な意味で「国民」なのだろうか。この問いに対して、住谷氏はヴェーバーの「二つの律法の間」という論文を援用しながら、次のように答える。
 「権力国家を断念し政治的中立を保持しようとする歴史への政治的な責任意識が、権力ではなく文化の威信感情にもとづく「国民」としてスイス人を作りあげ、逆に歴史の歯車に手をかけることを目指す歴史への政治的な責任意識が、権力の威信感情に立つドイツ「国民」を生んだと言えるのではなかろうか。」
 この規定に従えば、強力な中央集権国家を支持しそれに従属することを受け入れる「国民」と直接民主主義に基づいた自治と自律を相互に尊重する「国民」とは、確かにそれぞれ異なった伝統文化の保持を政治的な責任と考えている点で区別されてなくてはならないが、その政治的責任を自覚しているという点においてどちらも「国民」であると言うことができる。
 住谷論文の最後の段落は以下の通り。

 このようにみてくると、「民族」概念は、ハービトゥスとジッテおよび「品位」・「名誉」観念の大衆性の点で「種族」概念と重複し、伝統文化の共有および「名誉」と「威信」という歴史への責任意識において「国民」概念と重複する、その意味で両者を媒介する集合概念であるといってよいように思われる。

 この結論は、それまでの立論と完全に整合的ではない。なぜなら、上に見たように、「民族」という共属感情には、歴史への責任意識は含まれていないはずだからである。むしろ歴史への責任意識の有無が「民族」と「国民」を区別する一つの重要な指標になると言うべきではないだろうか。
 一点補足する。住谷論文では考察の対象となっていない「民族自決権」という権利概念を導入すると、民族もまた政治的に独立した主権の保持を主張できることになる。この政治的主権をもった「民族」は「国民」ではなく、それと対立することもある。この問題は、住谷論文の枠を超えており、「国家」概念の導入なしに論じることは難しい。