二胡工房 光舜堂

二胡を愛する全ての人へ

弦堂さんとの会話の中で、再び

2020-07-31 10:13:43 | 二胡の救急箱に書かなかったこと
昨日のコメントの件で弦堂さんと、話していた時に、ヨーロッパの合奏団の話になりまして、

その話がとても興味深く、ここに転載させていただくことになりました。

長い文章ですので、少しだけ目の悪い私なんかにも読みやすいように、改行させてもらっています。

以下弦堂さん

先日、交響楽団の映像を見ていて気がついたのですが、弦楽器はペアで1プルトと数えますけれども、
それなのに互いに違う色合いの楽器を使っていて、しかし後ろの人とは互いに全く同じというのがありました。
https://www.nhkso.or.jp/video/
楽譜をめくる側の人が決まっているので、そこで片方の演奏が途切れるのであれば、前後で音色を合わせた方が良いということなのかもしれません。
この映像でわかりやすいのは中央のチェロ4人です。
全く同じ楽器で統一というのも、それも良質の材が少ない状況から製造面で困難です。
この映像自体は8/4まで視聴可能ですが、後日公開の映像でも同じような状況は見られそうです。
左手前の最前列に1名欧州人がいますが、この人はウィーンからゲストで招いた有名な方です。

以前からイタリアのオペラハウスでバイオリンの首席はストラディバリを使ったりしますが、いつしかウィーンでも同じようになったようなので、そうであればやはり違う楽器を使っていることになります

楽器の組み合わせは非常に複雑だと感じられます。
何か変化をつける場合でもまずは全ての楽器が同じという前提から考えるものと思います。
古楽器の演奏では現代交響楽と比較すると弦楽器はかなり少ない人数で演奏されます。
現代の感覚では聴感に違和感があります。しかし人数が少ない方が旋律のディテールが丁寧に表現されます。
そこから古典派あたりに進むと弦の人数が増強され、またネックの角度の変遷で音量が変わったりと複雑な変化がありながら、後期ロマン派に達すると大編成になります。後期ロマン派の諸作では各セクションのバランスに疑問を抱かれたことはこれまでおそらくないと思います。

しかし後期ロマン派を中心にしてそれ以前の編成を組むと、管を1つ減らした時に弦はそれぞれのセクションから1プルト減らすのが、どうしても弦が強すぎるのではないかと、これだと弦の割合が高いので、30~50年代の演奏で木管の扱いが議論されるようになってきたのはそのためではないかと思います。
木管を二胡合奏の場合、管が入ってこないこともかなりありそうです。
そうしますと、管とのバランスの問題はありません。その条件下でどうして弦の数を増やすのかという理由を求めるのは簡単でないように思えます。それで歴史上の弦楽合奏曲は、それぞれのパートは楽器1つです。弦楽四重奏曲が大部を占めています。

そこを敢えて人数を増やしていった例で有名なものはチャイコフスキー「弦楽セレナード」(wikiでムラヴィンスキーの歴史的録音が聴けます)やグリーグ「ホルベアの時代より」などがありますが、かなり少ないです。

しかしこれらは明確に群奏の醍醐味を提示しています。この種の作品は背景が民主主義的です。
皆で一致して共に語るわけですから、そのために集まっているという、思想面での何らかの大衆的主張が背景にあります。
下手すると全体主義的傾向も出てきてちょっと気持ち悪いので、その辺が作品数の少なさに影響しているものと思います。
それぐらい押しの強さのようなものが出てしまうので、例えば演奏会を開いて2時間とか、演奏するのも聴くのもしんどそうです。
そのため古くはバロック時代から、ヘンデル「合奏協奏曲」は内2本(バイオリンとチェロ)をソロにする工夫を加えつつ、弦楽中心でありながらも一部ラッパを入れたりなど変化をつけています。
こういうやり方で成立させるのも至芸という感じがします。如何に巧みに前に出すかというものが中心でした。
しかしそうではなくて弦が多すぎるのではないかというのが後の古楽復興派の主張の1つでした。

二胡合奏の場合、管が入ってこないこともかなりありそうです。
そうしますと、管とのバランスの問題はありません。その条件下でどうして弦の数を増やすのかという理由を求めるのは簡単でないように思えます。
それで歴史上の弦楽合奏曲は、それぞれのパートは楽器1つです。
弦楽四重奏曲が大部を占めています。
そこを敢えて人数を増やしていった例で有名なものはチャイコフスキー「弦楽セレナード」(wikiでムラヴィンスキーの歴史的録音が聴けます)やグリーグ「ホルベアの時代より」などがありますが、かなり少ないです。
しかしこれらは明確に群奏の醍醐味を提示しています。
この種の作品は背景が民主主義的です。皆で一致して共に語るわけですから、そのために集まっているという、思想面での何らかの大衆的主張が背景にあります。下手すると全体主義的傾向も出てきてちょっと気持ち悪いので、その辺が作品数の少なさに影響しているものと思います。
それぐらい押しの強さのようなものが出てしまうので、例えば演奏会を開いて2時間とか、演奏するのも聴くのもしんどそうです。
そのため古くはバロック時代から、ヘンデル「合奏協奏曲」は内2本(バイオリンとチェロ)をソロにする工夫を加えつつ、弦楽中心でありながらも一部ラッパを入れたりなど変化をつけています。こういうやり方で成立させるのも至芸という感じがします。

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