九 核兵器科学の誕生と隆盛(続き)
核兵器開発の萌芽
核分裂反応を応用した原子爆弾の開発に関して先行したのは、シラードとアインシュタインが懸念していたように、果たして核分裂反応の発見地であったナチスドイツである。
ドイツ国防軍は1939年には、全国の優れた物理学者を招集して、原子爆弾の開発可能性について討議させた。その理論的な中心に立ったのは、1932年度ノーベル物理学賞受賞者ヴェルナー・ハイゼンベルクであった。
しかし、ヒトラーは原爆開発に関心を示さず、原理的な初期研究に必要な研究費を所管官庁の科学・教育・国民教化省が拠出しないなど冷遇され、頓挫しかけた。最終的に、ドイツの原爆開発計画が本格始動するのは、敗色が見え始めた末期の1943年のことであった。
こうしたドイツの核開発計画チームはウランクラブと呼ばれ、開発の実践的な的な中心に立ったのは、原子核の結合エネルギーの質量公式ベーテ‐ヴァイツゼッカーの公式に名を残す物理学者カール・フォン・ヴァイツゼッカーであった。
これは言わばドイツ版マンハッタン計画と言えるものであったが、ナチス体制下では、ユダヤ人追放政策のあおりで、アインシュタインをはじめ、ユダヤ系科学者が国外へ亡命を強いられていたため(拙稿)、開発計画に参加する科学者は限られており、開発チームは人材不足であった。
そのうえ、ヒトラーは最後まで原子爆弾に積極的な関心を示さず、在来兵器の革新によって勝利できると信じていたことから、ドイツの開発は初動段階で終わった。しかし、連合国軍側はドイツによる核開発を深刻に懸念し、ドイツの研究状況の査察を目的とする英米軍合同の侵攻作戦(アルソス・ミッション)を実行した。
その結果、ヴァイツゼッカーらの研究者を拘束し、研究資料の押収にも成功したが、精査してみると、ドイツの核開発はほとんど進んでおらず、原爆を実戦使用できる段階にないことも判明したのである。
一方、ドイツと枢軸同盟を組んでいた日本の状況はと言えば、海軍と陸軍の双方でそれぞれF研究、二号研究と暗号名を冠された原爆開発計画が1940年代初頭から進行していた。ただ、海軍には十分な人材も実験設備も欠いており、計画の中心は陸軍の二号研究に収斂されていった。
二号研究は陸軍系とはいえ、実質上は理化学研究所を拠点に仁科芳雄研究室が中心となって進められた軍民共同研究であった。時期的に、この研究は連合国軍側のマンハッタン計画とほぼ並行的に進められていった。
しかし、研究が原爆の製造に必要なウラン235の分離実験段階まで進んだところで、1945年の東京大空襲により重要な実験器具が焼失したため、研究は続行不能となり、同年7月までに両計画ともに打ち切りとなった。
皮肉にも、その直後の同年8月、マンハッタン計画に基づき先行して原爆開発に成功していた連合国軍によって、広島及び長崎に原子爆弾が投下されることになる。