8人衆 試行錯誤重ね主力作物に
「知内のニラ、もっと出してほしいんだ」。今年2 月、中国製冷凍ギョ-ザ中毒事件のさなか、渡 島管内知内町の新函館農協知内基幹支店には、 こんな電話が相次いだ。「北の華」ブランド名で 出荷される知内ニラは、作付面積で道内4割、出荷量は6割を超 す。取引拡大を求める電話は、知内ニラの存在感をあらためて印象 づけた。73戸の組合員を束ねる知内町ニラ生産組合の石本顕生組 合長(54)は「知内ニラの歴史は8人の若者の存在なしには語れな い」と話す。1971年の冬、知内町重内の集会所に8人の農家が集 まった。前年、国の減反政策が始まっていた。「転作として何か取り 組もう」。若者たちは熱く語り合った。その時、農業雑誌の記事が話 題になった。群馬県のニラ農家が10㌃当たり百万円近い販売額を 上げたという内容だった。8人衆の一人、城地俊光さん(62)「小さな 面積で収益も高い。魅力的な作物に思えた」と振り返る。すぐにニラ の研究会を設立し栽培を始めた。しかし、初年度は半分近くの芽が 害虫に食われた。「ヤマセ」と呼ばれる地域特有の海からの強風で ビニ-ルハウスの大半が空中に舞った。周囲の目も冷ややか。なん でわざわざニラやるのよ」と陰口もたたかれた。栽培から三年目の初 収穫で、8人が手にしたのは計百四万円。宮下孝さん(64)は『何く そ』と意地になっていた。失敗続きでもみんなが集まると、勇気がわ いてきたんだ」と語る。道外の先進地視察では、農家は警戒して何 も教えてくれない。ハウスの橋に落ちていた肥料袋を目に焼き付け、 知内に帰って試した。手探りで技術を一つずつ積み重ねた。強風や 雪でつぶれないようハウスの骨組みの間隔を当時一般的だった60 ㌢から45㌢に変え、強固なものにした。78年、新品種「たいりょう」 に出合った。北海道の寒さに負けない、この品種を見つけたことが、 大きな転機となつた。栽培方法も確立され、生産量は伸びた。栽培 開始から15年後の86年、販売額は一億円を超えた。2007年には 八億円を突破した。ギョ-ザ事件を契機に、4月からは首都圏でチェ -ン展開する中華料理店に向けて、1日約2百㌔のニラを出荷するこ とが決まった。「消費者に生産者の顔が見える取り組みで知内ニラは 全国トップクラス」。札幌の青果仲卸「森哲」の矢萩達也社長(46)は 太鼓判を押す。37年前、「米の減収を補う作物」として始まった知内 ニラは、2000年に町内の農業生産額で米と逆転した。かっての田ん ぼ跡には、ハウスの棟が続く。