呼びかけ人である内田樹氏による章を軽やかに読み終え、「3日くらいで読み終えるかな?」と思っていたものの、「反知性主義」の定義を考える人たちの章に入り、ちょうど用事が重なったこともあり、読み進めるスピードが落ちた。読んでいるときには少しもたもたした感じを受けたその部分が、読み終えると活きてくる感じがした。
さて、この「反知性主義」とは何なのだろうか。読み終えた後も僕の中では漠然としている。
もしかしたら、この本を読んだ人が、それぞれの中で「反知性主義とは?」と考えることが、この本が出版された目的なのかもしれない。
以前、話し合いの流儀について学んだことがある。その時に言われた内容の中で特に印象的だったのは、他者の意見を頭ごなしに否定するのではなく、そうした意見を認めつつ自分の意見を披露することが重要だというものだった。
実は、会議の際に自分と異なる意見に対して反論してしまう場面がよくあった。そして、そうした会議では時間だけが過ぎていき、実りは少なかったと
今振り返ると感じる。ただ、自分の感情を抑えるのってなかなか難しく、逆にそうした反論を受けると自分を抑え込んでしまうことが多い。
こうした会議の手法は、少なくとも社会人になるにあたって必要なものではないかと思う。そうした共通のプラットフォームに立ち、その上で互いの差異を認めつつ合意を目指していくということは、私たちの社会にとって最も必要なことだろうから。
現代は、相手の立場に配慮せず自分の考えを声高に主張することが良しとされているように思う。自称イスラム国による日本人殺害事件の際によく使われた「忖度する」という言葉があったけど、謙りすぎるのはよくないだろうけど、相手のことを慮ることは悪いことではないと僕は思う。
人と人とが互いの考えを触れ合わせることで生まれるものを探求することこそ、知性なのだと思う。だとしたら、人と人とがどのように互いの考えを触れ合わせることが求められるのかを考えたときに、暴力を使うなど一方的に自分の意見に相手を従わせるようなやり方は「反知性主義」と言える。そして逆に、そうしたやり方を受け入れることも、同じく「反知性主義」ではないか。
僕はそれがいいとは思わない。
「僕は知性派」などと言う気はさらさらないけど、僕なりに定義した「反知性主義」に対しては抗っていこうと思う。