和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだ。若い頃に読んだ時は、もっと面白いと思ったような気がする。なんとなく文章が青くて浮ついているように感じられる。これを読んで奈良の古寺を訪れたいとは思わない。この本を手に取ったきっかけは先日読んだ『木のいのち木のこころ』だ。西岡常一と小川三夫という宮大工の語る法隆寺は、日本人として当然に見ておかないと恥ずかしいのではないか、と思わせるような力を感じさせる。もう少し、奈良のことを書いた「名著」を読んでみようとおもって『古寺巡礼』を手にしたら、躓いてしまったのである。この違いはどこから来るのだろうか。
思うに書き手の経験に拠るのではないだろうか。耳学問も立派な学問だとは思うが、妄想や観念だけでは物事を理解できないだろう。経験として、持てる感覚を総動員して得たものがあってはじめて、そうしたものを基礎に妄想や観念の背景や全体像を類推し思い描くことができるのである。耳学問の域を出ない知識と、経験による裏付けのある知識とでは、理解の深さが違うので、そうしたものを誰かに伝えるときの伝わり方も自ずと違ったものになるはずだ。思想家だの哲学者だのと、物事の真理を追求していますというようなふりをしながら、国土を焦土に変えたあの戦争の前も後も体制の側に居続けた人間というものを素朴に信用できない。所詮その程度の人間の書いたものという先入観を抱いてしまうと、その言葉に対する拒絶反応をもたらしてしまうのかもしれない。