ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
(茨木のり子「自分の感受性くらい」『茨木のり子全詩集』花神社 167−168頁)
自分に対して向けられているようで、読んでしょぼんとしてしまう。詩集など手にすることは滅多にないのだが、家にあるかず少ない詩集の一冊がこの『茨木のり子全詩集』である。なにかで茨木のり子という詩人のことを知って岩波ジュニア新書の『詩のこころを読む』を読んで、それが大変気に入ったので『全詩集』を買い求めたと記憶している。このブログを読めば一目瞭然だが、私はおよそ文学というものには無縁の人間で、言葉というものを深く考えるなどということを考えようともしない。それでもこの新書も詩集も深く心に響くものを感じ、手元に置いてある。
人は経験を超えて発想することはできないし、人は生まれることを選択できないので、その人なりのことしかできないものだと思う。ただ、生まれた環境を構成する要素は無数にあるので、そのなかでどのような人間として生きるのかということは、結局は本人がどれほど意識して己の生を営むかという自分自身のことに帰着する。そう思えば茨木のり子の詩の偉大さというものを感じないわけにはいかない。
今日、世田谷文学館に「茨木のり子展」を観にでかけてきた。詩人が暮らした東伏見の家の様子とか愛用の調度品といったものを眺めているだけで、あれこれ空想が湧いて楽しかった。もちろん自筆の原稿や私信の類はその人の素の一端とか何事かが生まれてくる過程を垣間見る思いがして興味深かった。よく使っていたという陶器の小皿と碗が展示されていた。三島手の朝鮮風の器で、50歳からハングルを習い始めたということや、「昔から心惹かれる仏像は何故か朝鮮半島由来のもの」という趣味嗜好にかなったものだ。ここに展示されているものは詩人の生活の一端を示すに過ぎないが、自分の感受性をしっかり守って生きていた人であることを感じさせるものばかりだった。