熊本レポート

文字の裏に事件あり

益城町長選挙は新人の有利と出たアンケートからの想定と注視される残り99・7%の町民による選挙の焦点  益城町長選挙 第3回

2018-03-26 | ブログ

 選挙は、時に意図としない状況を生み出す場合もあって、その当事者にとっては実に難儀。支持した候補が、選挙によって落選した場合なら民主政治の結果として諦めもつくが、「投票して当選した候補に後の政治活動によって裏切られた場合」というのは、その有権者には計り知れない後悔の念が推察される。
 既号(2月11日号)で紹介した通り、4年前の益城町での「山本山跡地の購入問題」は、前町長が頑固に疑惑を強く否定しても町長選挙で、それが大きく影響し、約3000票の差をつけられて同前町長は落選。
 あの時、農家の主婦が「4年前、選挙での『停滞か飛躍か』という選択の言葉(キャッチコピー)に騙された。『停滞か飛躍か』と問われると、それは誰でも選択するのは飛躍。ところが、その4年後の結論が『利権疑惑』となると、あの言葉に惑わされた1票が悔しくて」と嘆いた。
 あれから4年後、その益城町に再び町長選挙がやって来た。
 東日本大震災後の東北3県では、23の市町村で選挙が延期された。ところが震災から2年後とはいえ、一部には「4年に一度の祭で、絶好の機会」と、表現には問題を残す声まで挙がる益城町の町長選挙。
 何がここまで熱意、意欲を掻き立てるのかというと、町の長老は「政争」と吐き捨てる。
 県事業の推進役としての「四車線化問題」、また交通アクセス上での「木山交差点の等価交換土地の問題」にしても全て同意とはしないが、熊本県側は「政争が問題を難しくさせた」とし、日刊二紙も「政争の益城町」と報じた。この「政争の益城町」について、果たして益城町のどれほどの町民が認識、実感しているだろうか。
 そもそも国の基本、指針とされる憲法、教育問題、そして外国との利害に絡む外交問題等を論ずる国政とは異なり、地方の市町村における意見の対立とは「調整の利く範囲」とされる。ところが、益城町の定例議会は「町長の不信任」まで提出するほど対立に終始し、野党議員による議案への反対、否決は定例化まで見せた。町政の執行に対し、そうした再々のブレーキを掛けた野党側によって、全く論理的には成立しない「停滞する町政」という批判も挙がるわけで、これは全て政争への決着(選挙)に向けた常道策、戦術と考えると理解も極めて簡単。
 それでは、その益城町の政争とは何かだが、それは過去において他市町村にも存在した「執行者(町長)の権益」を巡る対立。
 町からの仕事に頼る建設業者や運送業者、また町から支援を受ける保育園、老人ホーム等には、その権益の増減が事業の命運となるわけで、そこで町長の椅子を巡って関係者は必至に動く。
 利権で私腹を肥やすのはもちろん、公益の配分が過剰に偏ると、そこには不当な利益供与が生まれ、逆に住民には確認も出来ない状態で負担を強いられたりもする。
 これら権益、利権は多くの住民にとって無縁のもので、それを背景とした政争そのものが町民には無関係となると、本当のところ益城町民にとって町長選挙の争点とは何かということになる。
 また一方、その町長選挙が未だ益城町に存在する権益を巡る決着の場になっていると考えると、それを無縁とする、いやその実感すらない町民の動員によって、その権益の争奪が図られるというのは実に皮肉な構図。
 冒頭の「山本山跡地の購入問題」、また新人予定候補の町発注工事における積極的な受注活動、それに現職に対する与党議員らの不満まで既号(2月11、18日号)で、殆どの町民が無縁とする「政争の益城町」をレポートしたが、ここまで背景を述べていながら肝心の現職と新人との比較となると、その能力に町が引っくり返る程の差を感じる材料がない以上、選挙での甲乙の評価が無理というのは当然。
 ところが先般(3月25日)、益城町の仮設団地を中心に町長選挙をテーマに単純なアンケートを実施したところ100人中、すでに投票名が決まっているのは33人と出た。その中で新人候補の支持者が18人で、現職支持者が15人。単純にこれを試算すると新人支持者が4845人で、現職支持者が4038人と想定されるが、これは当然、まだ未定者を二倍以上の18035人を残しての推定。
 アンケートが被災仮設団地の中でも西部に位置する特定の地域に偏ったという点で、これをそのまま参考資料とするには無理もあるが、政治に不満が積極的に先行するのは力学上の常識。
 未曾有の大震災で被災者となった個々の町民にあってはまだまだ不満、希望の多いことは当然であって、その責任が自治行政(町)にあるとするのは楽であるし、また簡単なことも確か。
 あくまで力学上の想定だが、データ通り積極的、自主的な「町政への不満の声」を集めると新人が有利というのは確かな想定。だが理由ある人的行動には、必ず相対するエネルギーも存在するわけで、そうした必ずしも町政に批判ではない町民が迫られて重い腰を上げ、それが投票率を引き上げるとなると現職の逆転というのも想定内。そして、その線上は70パーセントの投票率で、10000票の当選ライン。
 外側からの「政争の益城町」という見解は、解釈の仕方によっては侮辱に近い不名誉な称号。それを理解してもらって話を結論にすると、双方陣営の「停滞かスピード化か」とか「復興、復幸」とかは、その双方が承知している当たり前の基本姿勢。
 子どもや孫の時代へ向けての礎となる現在、いま一番に益城町政に必要なことは、その基本政策を推進する上でも4年間の議会が証明する通り「政争の解消」が可能か否かであって、これこそが町民側から求めるべき町長選挙での焦点。その選択条件である「公正、公平な町政」、「透明性ある町政」を執行出来るのは果たしてどっちなのか、である・・・。


宇城、水俣市民どころか、県民が政治倫理を本気で強いると熊本政界は崩壊するという仮説の検証  第1回

2018-03-21 | ブログ

 政治家には聡明な人もいるが、小賢しい人物もまた多い。
 小賢しい政治家が「高い倫理的義務が課せられていることで議員の品位を保持し、道義的な批判を受けたときは真摯かつ誠実に真実を解明し、その責任を明確にしなければならない」とする政治倫理において、その大方が反するというのは言うまでもない。
「宇城市の土地の無償貸付の土地が市長の配偶者が経営する法人、もしくは団体であった場合、政治倫理上の問題は生じますか」
 宇城市議会において、中山弘幸議員が守田憲史市長に質問すると、
「生じません」
 同市長は回答。
 この話を遡って説明すると平成15年、旧松橋町及び旧三角町との合併(現宇城市)協議に入った旧小川町は、社会福祉法人日岳会が運営する介護支援センター日岳荘に無償提供していた土地について、旧同町議会が「公有地を無償で放置したままでは合併はできない」と決議し、旧同町議会議長と同総務課長が同日岳会に購入を求めた。
 ところが当時、同法人の理事長を兼任していた守田氏(当時県議会議員)は、それを拒否。
「平成10年、公共性及び公益性があるという位置付けで無償提供された経由にある」
 これが理事長職を夫人に譲って同24年、合併後の宇城市長に就任した守田氏の主張。
 一方、質問した中山議員の見解はとなると、配偶者が理事長というのは親等ではゼロの距離であって、「他人の利益を図るべき立場にありながら自己の利益を図っている」という行為で、これは利益相反行為として義務違反というのが背景。
 一定の利益相反行為は違法、規制対象となるが、その法令上で規制対象とならない場合でも当然ながら政治倫理上の問題とはなる。同法人には施設建設での発注にも疑惑の声も上がるが、それ以前の首長の政治倫理上の問題。
 すなわち、「開所(日岳荘)当時は町(旧)の政治的な背景もあって曖昧(無償)にしたのは事実」(旧同町議会議員談)という経由には関係なく、地方自治法での公有財産の管理及び処分(第237条)に基づき旧町議会で出された決議を拒否した時点で、改めて確認された問題。「罪を犯した時に発生するのではなく、容疑を掛けられた時に発動する」という政治倫理の趣旨において、この中山議員の問題視は当然である。
 しかし、そうした状況の続く中で守田市政が再選された結果を見せつけられると、執行者の政治倫理とその市政とは別物という市民観もまた想定される。
 超膨大な我が国の借金は、そのまま40歳代以前の国民には恐怖の年金福祉を想定させるが、その一方で特別老人ホームの余剰金は合計2兆円という異常的な矛盾した状況も我が国には存在。
 社会福祉法人角岳会(阿蘇市)の理事長を務める吉永和世県議会議員は、同理事長報酬額が70万円で、2月までの議長報酬97万円とを合わせると月に167万円の収入。これでは県議会議員なら誰でも福祉法人の理事長職を欲しくなるが事実、その実数も尋常ではなく、それより存在そのものが他県からは「熊本県は異常」と語られる。詳細は後述するが、その異常とは容認してきた熊本県、県民であるという見解。
 全国福祉協議会事務局に「政治家の兼業」(地方自治法での兼業禁止規定)という点で、この県議会議員における福祉法人の理事長兼業を尋ねると、それ以前の政治倫理上から「好ましくない」との一言。
 地元(水俣市選挙区)から130キロ以上も離れた地域で、その主な老人施設と、そこから60キロ、120キロも距離のある保育園施設の2つ(熊本市、天草市)を責任管理している県議会議員の実状を考えると、地元代表としての県議会議員の職務はどうなのかと、水俣市民に尋ねたくもなるが、5選という実績を考えると「将来の年金不安、政治倫理とは別物」という見解にも至る。
 福祉とは奉仕の精神であって、そうした篤志家は称賛され、そして敬われた。ところが変革する社会構造と同時に市民、県民によっては、その福祉も大変貌。
 ところで政治倫理条例において主たるのが、「2親等以内の親族が経営する会社と当該自治体による公共工事の契約制限」である。
 これについて、熊本県議会の該当議員が語る通り平成23年、広島高裁において「当該企業の経済活動の自由、また当該議員活動の自由を制限できる合理性、必要性に欠ける」として、政治倫理条例をもって契約破棄、または辞職を迫った広島県府中市に敗訴を言い渡した。
 だが同26年5月、最高裁は「議員の公正さや議会の信頼を保つための正当な規制で合憲」(裁判官四人の一致した結論)として、広島高裁の判決を破棄し、審理を差し戻した。
 確かに有能な人物が、この政治倫理条例を前に政界入りを固辞した実例も県内には多く、そうした例を背景にしてか「経済活動、政治活動の自由を萎縮効果させるような規制(4条)の前に資産公開等の改善で妥当」(県立大学某准教授説)という主張も出る。しかし、地方の野党議員が政治倫理に疎いのと同じく、小賢しい政治活動と、その経済活動における弊害は一般市民の性善説には限界があって、その市民が求める公正な社会上ではベターな最高裁の判決。
 この政治倫理条例を熊本県で正面から推進すると、それは「熊本政界の崩壊」に繋がるというのが、知り尽くした建設業界の中での定説。しかし、それは裏を返せば「公共工事を喰っている熊本政界」である。その市民が求めないとする政治社会を容認し、そして育んで来たのは、先述した宇城、水俣市の通り県民だとなると、それは実に皮肉な話。
 異なる四つの社会が、仲良く麻雀しているような熊本県とは県外からの評。そのパンドラの箱を開けるような行為が、何か外から迫って来ているような気配を感じてならない・・・。