開票1時間前に「投票率が悪いな、その点は懸念するけど、接戦で幸山は勝つ。貴方は信用を無くするよ」と、知事選予想を揶揄するような電話が入った。
投票率50%を割っても、現職の得票は30万票は超える。そして新人との差は15万票前後。
この旅館の主人に続いて、他に3本の電話を貰ったが、その内容に大差はなかった。そぅ、周囲は殆ど幸山政史候補の支持者である。
だが、彼らが何の理由で幸山支持なのか、終わっても県民にその理解は難しいのではなかろうか。
当初、自民党県連VS自民党反県連の構図で想定した一人として誰より、その意義は理解するのだが、主役である県民の側に立って考えると、その出馬という大義そのものが見当たらないのだ。
長期政権による淀み、緩みを訴えるが、自民党県連内での権益争いの時代ならともかく、具体的な実例でも挙げなければ理解など縁遠いテーマであって、まして検証能力など発揮した事のない野党において、「長期腐敗の解消」を支持理由にさせるようでは、現職の「清正公23年の藩政」で、それは終止符を打たれる。
そもそも神道系の団体が揃って支持し、そこに共産党が加わるといった陣営とは、果たして共通の政策とは何んなのか、そんな疑問符は選挙権を初めて有する高校生にでも浮上する。
選挙戦に入って13日、「地元紙(熊日)の調査では熊本市外の市町村で半数以上が幸山有利」だと、先述した内容から賭けとなった。新聞の情報が絶対視されなくなった現代社会とはいえ、まだ地方にあっては報道の調査能力には絶対の信頼が寄せられる。
そこで約束したのが、ラサへの巡礼である。ご承知の方も居られると思うが、四国お遍路さんどころではない地獄のような巡礼。聞いただけの未知の地獄も約束出来る自信が、残念ながら今回の予想にはあった。
「投票率が低い」
そんな現実は、常識として予想された状況。
投票率50%を割っても、現職の得票は30万票は超える。そして新人との差は15万票前後。
果たして、どうであったか。
昨年12月、今回の県知事選挙に向けて5人が集まった。選挙は自民党県連VS自民党反県連との戦いと位置付け、その大義名分を県民に問うとして1月、県民には著名な3人で、その提示行動を起こす。2月、県内の現職議員20名が先の行動に同意するとして、新人の支持を訴える。そして3月、県内3首長が新人の支持を表明。
多分、いや確実に知事選挙の意義を多くの県民が、これには理解を示したはずで、これこそ接戦が予測された。だが、それが避けられて、消えた。
政治資質というか、また自らの政治生命を賭ける価値が見出だせないとするのか、それぞれに命を賭けるほどの知事選挙ではなかった訳だ。
政治家に変革が求められないのに、県民がそれを求める事などあり得ない。最早、これから創り、造りゆく若い地元の学生57名への相談となるが、市民の一歩先の政治に在らんとするなら、勝つ選挙のみに挑み、負ける選挙には傍観者となれ。
俯瞰の機能を働かせば、その選択は可能で有り、逆転の発想からでも勝利への戦術は浮上する。
民度のレベルも表す今回の知事選挙は終わったが、4年後には全く新しいパターンでの知事選挙が訪れる…。