先日、日本国政府、並びに、埼玉県の再三にわたる中止要請を振り切って、6500人余りの観客を集めて格闘技イベントの「K-1」で開催されました。その参加者の数の多さにも驚かされるのですが、官民とも新型コロナウイルス拡散防止に努める中での強硬開催には批判も寄せられています。その一方で、イベント中止による経済的損失を主張し、政府に対して補償を求める間接的な擁護論も聞かれます。
感染症という性質を考慮しますと、確かにイベント業は危機的な状況にあります。中止ともなりますと、興行主側は収益がゼロになるばかりか、会場のキャンセル料やチケットの払い戻しなど余分な出費も覚悟しなければなりません。こうした経済的な損失等を考慮すれば、開催を強行した主催者側の気持ちも理解に難くはないのですが、それでも開催強硬はあまりにも無責任であったように思えます。
その理由は、言わずもがな、「K-1」の会場は、新型コロナウイルス感染拡大に関する3条件をすべて満たしているからです。すなわち、厚生労働省が公表している(1)屋内の閉鎖的な空間、(2)人と人とが至近距離、(3)一定時間以上交わる、の三者です。主催者側もこれらの条件に当てはまることを十分に承知していたわけですから、「K-1」側は、新型コロナウイルスの集団感染を引き起こすリスクよりも、興行収益を優先したことになります。つまり、‘人命よりも利益’を選択したのであり、道徳や倫理に照らして同選択が批判を受けるのは当然のことなのです。
そして、この‘命と利益を天秤にかけた選択’の結果は、「K-1」の主催者側に別の問題をも提起することにもなりましょう。別の問題とは、仮に集団感染の震源地となった場合、その責任をとることができるのか、という問題です。大阪のライブハウスで発生した集団感染のケースでは、ライブハウス側は感染のリスクがあることを知らずに通常通りに営業していましたので、‘善意’が推定されます。一方、「K-1」の場合には、上述したように政府も地方自治体も自粛を求め、かつ、感染要件についても百も承知していたはずですので、弁明のしようもありません。つまり、‘悪意’が推定されるのであり、感染拡大の責任を逃れることはできなくなるのです。
愛知県において感染者の一人が‘ウイルスをうつしてやる’と公言し、実際に接客業の人を感染させた一件では、警察は刑事事件として捜査を開始しました(もっとも、その後、容疑者は死亡…)。「K-1」の強硬開催にあっても構図は似通っており、‘悪意’の認定レベルによっては、「K-1」の会場から感染した観客から被害届が提出されたり、賠償を求められないとも限りません(未必の故意…)。アメリカでも、情報を隠蔽して海外への感染拡大を許した中国に対して集団訴訟が起こされるそうです。将来的には刑事罰に問われたり、賠償責任をも負う可能性をも考慮しますと、「K-1」開催中止による損失は微々たるものである可能性も否定はできないのです。
その一方で、感染リスクを知りながら会場に足を踏み入れた観客の自己責任論もあり、刑事であれ、民事であれ、仮に訴訟に至った場合、この点がどのように裁判官によって判断されるかは微妙なところです(あるいは、損害賠償の請求先は元凶となった中国になる?)。自己責任論にも一理はありますが(しかしながら、自己責任の場合には、主催者側は、参加者に対して、万が一感染した場合には自己責任となることの同意を、文書にて得る必要があったのでは?)、感染症という性質上、観戦者本人のみならず、その家族や知人、さらには、公共の場にあって無関係の他者をも感染させる可能性がありますので、集団感染を引き起こした「K-1」は、社会的責任を厳しく問われることにもなりましょう。
「K-1」側は、自らを被害者として位置づけていますが、将来的には加害者、あるいは、被告人の立場となり得るのですから、長期的、かつ、社会的責任の視点からは、やはり一時的な損失を潔く受け入れ、中止を決断すべきではなかったかと思うのです。この側面は延期が決定した東京五輪にも言えることであり、経済的損失を嘆くよりも、人命を第一に考え、開催国としての社会的責任を誠実に果たす方が、余程、日本国に対する信頼感が増すのではないでしょうか。