バチカンのお膝元にあるイタリアではカトリックの伝統が今なお息づいており、死の床に司祭が付き添うのが慣習として根付いています。ところが、今日、同国では一日のうちに多数の人々が新型コロナウイルスによって一度に命を落とす危機的な事態に至っており、教会もその対応に苦慮することともなりました。こうした中、フランシスコ法王は、司祭に対して勇気をもって感染者の許を訪れるように呼び掛けたのですが、その後の成り行きを見ますと、法王の言葉は適切であったのか思わず考えさせられてしまいます。
何故ならば、イタリアでは、既に少なくとも50人の司祭の方々が亡くなられているからです。今まさに神の御許に召されようとする感染者の方々に心の安らぎを与えるのですから、臨終に際しての司祭の役割は崇高なものです。神父の祈りの言葉に、死を迎える人々の恐怖心がどれだけ和らげられたか知れません。この点は否定もしようもないのですが、感染症が蔓延する中での病床への訪問推奨ともなりますと、医科学的な知識に基づく配慮が必要であったように思えます。
ウイルスによる感染症では、死の間際に特に感染力が強まるとされており、防御服も着用することなく‘終油の秘蹟’を行う司祭の方々は(感染者の額、目、口などに聖油を塗り、神に罪の許しを請うと共に祝福を与える…)自ら感染するリスクに晒されています。否、相当の確率で感染するものと推測され、上記の死亡者数50人という数字は医療関係者をも上回るそうです。中には、信者から寄付された人工呼吸器を自らよりも若い患者に譲った72歳のジュゼッペ・ベラルデッリ神父の事例も報告されています(もっとも、同美談にはフェイク説がある…)。何れにしても、司祭ほど感染リスクが高い立場はないため、法王が敢えて訪問を奨励した背景には、多くの司祭には、患者のもとを訪れるべきか否か迷いがあったからなのでしょう。
それでも、自らの命をも顧みず他者を救わんとした、キリスト教精神に基づく尊い自己犠牲とも言えます。上記のベラルデッリ神父の死についても、イエズス会士のジェイムズ・マーティン神父は、新約聖書のヨハネによる福音書の言葉「友のために命を投げ出すほど大きい愛はない」を引いて讃えたそうです。フランシス法王もイエズス会出身ですので、カトリックの組織の長として積極的な自己犠牲を奨励しているとも解されます。
しかしながら、イタリアはいわばカトリック教国ですので、神父の社会的な役割は広範囲に及んでいます。神父自身が神に召されますと、死の前に祈りを捧げてくださる方はいなくなりますし、感染した神父がスプレッダーとなるリスクも否めません。教会でのミサは、密封空間、人と人との間隔の近さ、相当時間の共有という集団感染発生の3条件を満たすと共に、飛沫感染や接触感染、そしてエアロゾルなど、何れの感染形態が同時に起きる可能性があります。他者の魂を救おうとする尊い行動が、より多くの人々の命や健康を奪いかねないのであり、この場合、自己犠牲の奨励は、意図的ではないにせよ、多数の無辜の人々の命を奪いかねない他害行為の奨励に他ならなくなります。
このように考えますと、訪問を奨励するならば、感染防御効果のある司祭の服装を考案したり、患者との間に直接的な接触のない‘終油の秘蹟’のあり方を考えるべきなのかもしれません。また、新型コロナウイルスの感染者は、重篤な段階にまで至ると意識が混濁するそうですので、医療関係者やロボットによる代行といった方法もあるはずです。フランシスコ法王は自らもウイルス検査を受けると報じられており、同法王は、言行一致の範を示して自らも感染者の許に出向いたのかもしれません。果たして、天にあって神は、同法王の発言をどのように思召し給うのでしょうか。