万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

緊急事態宣言と民主主義の強化はセットで

2020年03月09日 12時58分32秒 | 日本政治

 新型コロナウイルスの感染拡大は、政府の判断ミスと不手際が重なったこともあり、日本国の防疫体制の脆さを露呈することとなりました。有事に際しての生物兵器の使用もあり得る時代ですので、法整備が急がれるところなのですが、その一つとして進められているのが首相による緊急事態宣言の発令です。

 フランス第五共和国憲法をはじめ、諸外国の憲法を見ますと、大抵の場合、大統領権限の一つとして非常事態宣言の発令権が記されています。憲法に同規定を置かないアメリカでも、1976年に大統領に同権限を付与する国家非常事態法が成立しています。戦争や大規模な自然災害など、全国民の命が危険に晒されるような危機が発生した場合、個々の国民が自由に行動しますと混乱の内に多くの国民が犠牲になりますので、同宣言の発令により、緊急時における一時的措置であれ、私人の基本的自由や権利を一定の範囲で制限する必要があるからです。理屈としてはその通りであり、誰もが納得するところなのですが、私権の制限が不可避となりますので、同宣言を警戒する向きもないわけではありません。国家が国民から基本的な自由や権利を奪う口実に使われるのではないか、という…。

 それでは、日本国の現状はどうでしょうか。日本国は議院内閣制を採用しておりますが、日本国憲法には、首相に対して非常事態宣言の発令を認める条文は置いていません。このため、日本国では、緊急事態が発生したとしても政府は強制力を伴った私権制限的な措置を採ることができず、同宣言の欠如が日本国の存立と国民の生命を危うくすると指摘されてきたのです。こうした状況下にあって、突然に新型コロナウイルスの問題が持ち上がったのですが、指摘されてきた懸念は現実のものとなり、自宅待機を‘要請’された感染者が外出する事態も報告されています。‘ウイルスをうつしてやる’と言い放ってタクシーで家を出て繁華街の飲食店で遊んでいた感染者もいたというのですから驚きです。感染者が意図的に伝染病を他者に感染させた場合には、刑事罰の対象になると共に賠償責任も生じるらしいのですが、それでも、強制力を以って外出を禁じていたならば、感染拡大は防げたはずですし、他者の健康を害することもなかったはずです(うつされた側は怒り心頭に発するはず…)。

感染者数の増加が止まらない状況を受けて最初に緊急事態を宣言したのは、中国からの訪日客も多く、かつ、ビジネスでも関連が強い北海道でした。もっとも、地方自治法には行政の長に緊急事態の発令権は明記されていませんし、同宣言は、県民に対して週末の外出を控えるように呼び掛けたに過ぎません。北海道のケースは協力要請のアピールとして理解されるのですが(鈴木知事が非常事態と緊急事態を区別したのかどうかは不明…)、強制力の欠如が感染拡大を許す現状を重く見た政府は、感染予防の分野に限定する形であれ(新型インフルエンザ等対策措置法)、首相による緊急事態の発令を可能とする法改正に着手したのです。

新型コロナウイルス禍の発生により、日本国では首相の権限強化が図られ、一先ずは、緊急事態に即応し得る体制を整えつつあります。その一方で、不安が残されているとすれば、それは、上述したように、国民の基本的な自由や権利を制限する根拠として利用されてしまうことです。ジョージ・オーウェルの『1984年』でも、世界を分割統治する三大国は結託しながら常に有事の状態を維持しており、それを理由に、国民は政府による徹底した監視体制の元に置かれ、不自由な生活を強いられています。実際に、北朝鮮の体制も、休戦状態にあるとはいえ、朝鮮戦争以来の戦時体制が金一族の世襲による独裁体制を正当化しています。一党独裁国家である中国あっても、新型コロナウイルス対策を根拠として、習政権は、国民監視体制を一層強化しようと狙っているのですから、日本国にあっても、首相の権限拡大に不安を感じる国民も少なくないはずです。

将来的には、首相による非常事態宣言の発令権は防疫の分野に限らず、有事や災害等の緊急事態一般にも拡大するのでしょうが(憲法改正の論点となるかもしれない…)、こうした国民の不安を解消するためには、国民と首相との間の信頼関係をより強固にする必要があるように思えます(加えて、首相には優れた統治能力と判断力、そして、国民に対する強い責任感も求められる…)。過去においても政党間の打算により誕生した内閣や支持率が一桁台でも辞任を拒んだ首相が存在したのですから、少なくとも現状の制度ではこの要件を十分に満たしてはいないのです。

首相権限の拡大と民主主義の強化はセットとして進められるべきであり、そのためには、首相公選制の導入(あるいは大統領制への移行…)、首相リコール性の創設、国会によるチェック機能の強化、非常事態の必要性を公平・中立的な立場から審査する機関の設置、非常事態の長期化を防止するためのイニシアティブの導入などの制度も検討されましょう。これらの他にも様々なアイディアはありましょうが、民主的制度を活用すれば、それは国民の基本的な自由や権利を護る安全装置ともなり得ます。政府の統治機能と個人の自由や権利を調和的に両立させるには、制度的工夫が欠かせないと思うのです。


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