中国の主張する「一つの中国」論は、その歴史的根拠や法的根拠を探りますと、砂上の楼閣であるように思えてきます。それにも拘わらず、現代という時代にあって中華帝国の復活を夢見る中国は、清朝による台湾直轄地時代を根拠としてあくまでも同論を唱え続けることでしょう。しかも、国連安保理常任理事国の地位のみならず、その背後には核兵器をはじめとした強大なる軍事力が控えているのですから、国際社会は、まことに御し難い国と対峙していると言えましょう。このまま放置しますと、中国は、台湾への武力行使へと踏み出すリスクが高いのですが、自制を求める国際的な圧力も意に介す様子もありません。そこで、別の角度から中国を押さえ込んでみるのも、一つの有効な対中抑止政策のように思えます。
それでは、ここで言う‘別の角度’とは、どのような‘角度’なのでしょうか。それは、国際法に基づいて台湾の法的地位を確定する、というものです。南シナ海問題にあって常設仲裁裁判所の判決を破り捨てたぐらいですから、台湾問題の平和的解決のために、中国が台湾について領有権確認訴訟を起こすことを期待することはできません。中国が司法解決を望まないならば、国際社会が、逆に台湾の独立国家としての法的地位を確定するという方法があります。
今日、台湾の法的地位は確かに曖昧であり、この法的地位の不安定性が中国による武力併合に余地、否、‘隙’を与えているとも言えましょう。同国の地位が曖昧なままであった理由として、状況を複雑化する要因があります。以下に、簡単な年表として纏めてみました。
- 古来、オーストロシア語系諸部族の居住地であった(アタヤル族、サイシャット族、ツォウ族、ブヌン族・・・)
- 中世から近世にかけて倭寇や海賊等の活動拠点となった
- 南蛮貿易を含め、日本商船と中国商船による「出会貿易」の重要拠点であった
- 1593年に、日本国の豊臣秀吉は台湾の‘高山国’に朝貢を促し、‘国’として認識していた
- 1624年8月、明は、台湾を自国領とする認識はなく、澎湖諸島からの撤退を条件に、オランダ東インド会社による台湾領有を認めた
- 同年から凡そ38年間、台湾はオランダ(オランダ東インド会社)の植民地となった
- 1624年、鄭成功による反清復明運動の拠点となり、1662年に鄭氏台湾が成立した
- 1644年に成立した女真族による征服王朝である清国は、1683年に鄭氏を滅亡させ、放棄論と領有論との議論の末に台湾島を直轄地とした
- オランダ支配並びに清国による直轄地化により、17世紀以降に漢民族の移住が増加(植民地支配時代には移住民開拓者を支援・・・)
- 1895年に、日清戦争の講和条約である下関条約により清国から日本国に割譲された
- 1911年の辛亥革命により、清朝滅亡。
- 1943年11月、ルーズベルト大統領、蒋介石総統、チャーチル首相の三者による「カイロ宣言」において、「満州、台湾、澎湖島のごとき日本国が中国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還する。」と記された(台湾復光の根拠に・・・)。
- 1945年7月に発せられた「ポツダム宣言」第8項において「カイロ宣言」の履行が求めれる
- 1945年8月、日本国はポツダム宣言の受託を表明
- 1945年9月以降、第二次世界大戦における日本国敗戦により、台湾も連合軍の占領地となる
- 中華民国は連合国の一員であったため、国民党軍が米軍の援護の下で台湾に進駐
- 蒋介石総統が「台湾省」の行政長官兼同省警備総司令に任命し、国際法上の根拠を欠いたまま、台湾・澎湖諸島の領土並びに主権の‘回復’を宣布
- 1949年10月1日に中華人民共和国が成立したため、中華民国政府を台湾の台北に移転(台湾国民政府)
- 1952年、サンフランシスコ平和条約の第2条(b)により、日本国は、台湾・澎湖諸島の領有権を放棄(ただし、‘どの国’に対して放棄したのか記載がないため、国際法上の所属未確定地に・・・)
- 1988年以降、国民党一党独裁体制並びに蒋氏による世襲制が終焉し、民主的選挙制度を伴う台湾の民主化が進展する
以上に台湾の歴史を辿ってきましたが、様々な要素が複雑に絡み合った経緯から、国際法における台湾の独立的地位を導き出すことは、果たしてできるのでしょうか。その鍵を握るのは、蒋介石による‘政府移転’、否、‘国家移転’をどのように捉えるのか、という問題にあるように思えるのです(つづき)。