図書館で古い本を借りてきました。ハル・ライシャワーさんの『私の歩んだ道』(主婦の友社 1966)定価350円 という本でした。
ライシャワーさんといえば、合衆国の駐日大使で有名な方でした。名前が何だかちがうけど、まあいいかと借りてきました。確か大使はエドウィンさんでした。だから、駐日大使としての苦労話などではないのだな、というのはわかりましたし、最初の方を読んでみたら、大使夫人であるハルさんの本なのだとわかりました。何というマヌケというべきか。
とにかく、古くて、外からの視点で見たニホンというのを(個人的に? 趣味的に!)研究しているつもりなので、借りてきてしまいました。
ハルさんの父方の祖父は、薩摩藩の明治の政治家・松方正義さんでした。明治維新の中心的な人物でした。首相だってしたそうです。それくらいの方でしたか。母方の祖父は貿易でアメリカの方でお仕事をされていたらしい。その二人のグランドファーザーから生まれたお子さんたちが結ばれて、日本でハルさんが生まれました。
お母さんの教育方針で、小学校に行かないで家庭教師の指導を受け、小五あたりで学校に行ったものの、すぐにインターナショナルスクール通いになり、そこからアメリカの大学に留学し、日本に戻ってきて、やがて戦争になっていくのでした。お姉さんや妹さんもみんなお母さんのご指導の下、アメリカのクリスチャン・サイエンス派の系統の大学に行かれたそうです。戦時中は姉・妹たちと離れ離れになり、音信不通になったということでした。
戦後、連合軍の日本統治下で、留学経験を生かしてジャーナリズムの世界に入り、粉骨砕身されて米国と日本の懸け橋になろうとしたそうです。そんな風にして活躍していると、すぐに朝鮮戦争が始まり、交流した友人たちはみんないなくなります。
それでも、自分の道を探すべく活動していた時、そのつながりの中で奥さんをなくしたばかりのライシャワーさんに出会います。やがてプロポーズされて、三人の母親となり、再びアメリカに渡る。夫のライシャワーさんは、ハーバード大の先生として忙しく、ハルさんは、三人のお子さんに向き合う日々を送ります。
そして、1960年11月、ケネディさんが大統領に当選して、翌年の1月に就任すると、すぐに駐日大使にはライシャワーさんが抜擢されます。4月19日、ダンナさんとハルさん、それに末娘さんと三人で来日しました。
職業外交官ではなく、主人のような学者が(駐日大使に)就任することは異例のことですし、主人も私もまったく経験のない世界に飛び込むわけです。……〈中略〉……私たちは私たちのやり方で、手探りしてゆくより方法がないと思いました。
さあ、ふたたびハルさんはふるさと日本に、大使夫人としてやってきました。どんな気持ちだったのかなあ。何とも言えない、不思議な帰国でしたか?
飛行機が東京上空にきましたとき、私はどんな大がかりなものが私たちを待ちかまえているのかと、緊張しておりましたが、主人はまったく気楽に、いつものようにパイロットの席にすわって、下界を見下ろしながら、
「すごくよく交通整理がされているなあ」
と感心しています。自分のためにその交通整理がされているということをご当人が知らないのですから、のんきな話です。着陸してドアが開かれても、主人はなかなか席にもどってまいりません。やっとあらわれたかと思うと、パスポートがどこにあるかわからず、まごまご。
そして、五年と四ヶ月の大使としての仕事が終わり、それと同時に取材を受けて、インタビューをまとめた本として主婦の友社が出した、ということだったようです。
在任中に、暴漢に襲われてケガをしたり、そのあとの輸血で体調を壊したり、ライシャワーさんの歳月は平たんなものではなく、獅子奮迅の活躍で、途中には指名してくれたケネディさんが暗殺されたり、イヤなことがいくつもありました。
けれども、かけ橋になろうとして役割を引き受け、華やかな大使館生活はせずに、とことん地味に、いろんな人に関わろうとしたということでした。
それは、もう感心させられましたが、英語のできない私は、何だか悔しかった。今からでも遅くないから、いろんな言語を使えて、どんどん人の中へ入っていけたら、今からの私の人生も変わっていけるはずですね……!
ハルさんのご苦労話は、本人もそれほどでもなくて、がむしゃらに物事に向かって行くと、自然に道が開けてきたという感じだったでしょうか。アメリカに戻られてからも、当然のことながら、日本とのつながりはずっと続けられたことでしょう。
私の日本を見る目、変わりましたか? それほどでもなかったかな。がむしゃらに生きていくこと、これは大事だなと思いました。ついつい、やる前にあれこれ考えて、結局やらないということが多すぎるし、あとから「ああすればよかった。こんなことがやりたかった」とブツブツ言ってるようでは、ダメなんですから。