最近、山本夏彦さん関連の本を二冊読みました。
「夏彦・七平の十八番づくし」(1983 中公文庫)、これはお二人の対談の本で、こんな方たちがいた、というのを40年ぶりに初めて知ったというところでした。
「夏彦の写真コラム傑作選(藤原正彦編)1979-1991」(2004 新潮文庫)、こちらは週刊新潮にコラムの枠をずっと守って来られた山本夏彦さんの12年分からいろいろと選ばれたもののようです。
40年前のあれこれなのに、当然のことながら今に通じるところがあって、昔からあまり世の中は変わってなくて、相変わらずの問題が続いている、というのか、どちらかというと、よくない方向へ向かっているような気がしてしまう。
みんな、今の人々は、世の中の人は現状を肯定し、この中でどれだけやれるか、いかにして自分の力を発揮していくか、前向きでいるか、それとも夢破れて気力を失っているか、どちらかなんですもんね。
四つのエッセイから少しだけ借りてみます。
進歩的文化人は昭和6年の満州事変から敗戦までの15年間はまっ暗だったというが、そりゃひと握りの左翼は警察に追われてまっ暗だったろう。けれども国民全員は共産党でもシンパでも何でもない。連戦連勝に酔って提灯行列していた。これを「世間知らずの高枕」という。
いつの時代でも人はどたん場まで高枕なのである。一寸先はヤミだと知った上で枕を高くして寝ているのである。今もまたそうである。後世はこれをまっ暗だというであろう。〈1991 世間知らずの高枕〉
もう40年前、人々の位置を確認させてくれていました。今を生きる人たちは、未来はあまり明るいものは期待できないし、とりあえず現状維持で、今さえよけれゃいい、政治のことなんて関係ない。なるようになるさ、後世の人が何と言おうと、自分たちは自分のことで精一杯なのさ、人のことなんて知らない、ピンチが来るまでは、何にも考えないようにしよう、という高枕を抱いている、と指摘しています。もちろん、その通りです。
男の子はめんこの武者絵で日本の英雄豪傑となじみになった。渡辺の綱は(めんこの武者絵の中で)鬼の腕だろう切り取ったのをつかんでいた。西郷隆盛は枕はいらぬ、最も眉が秀でていた(まゆ毛を枕にした?)。
狼に育てられた子どもは、あとから言葉を教えてもついにおぼえなかったという。幼いときにおぼえなければならないことを、おぼえないで成人した大人がふえた。鎮西八郎為朝も頼光も知らない大人がふえた。それがどうしたと当人たちは言うだろうが、マザーグースを知らないイギリス人はない。〈1990 おじゃみ おふた おみい〉
わらべうたや子どもの遊びの中に、昔からの伝統をつなげる文化がありました。つまらないものと切り捨てられ、近代的な遊びに切り替わっている私たちの国ですけど、小さい時に身につけないものは、後からどんなに習おうとしても、もう身につかないのです。
それは、現代とはそういうものだから、世の中の流れに従って行けばいいのだ、という風潮があります。今は圧倒的にデジタルおもちゃに小さい時からずっと支配されていて、子どもの遊びという文化みたいなものは、絶滅しました。
時代の流れであきらめているけれど、ちゃんと自分たちの文化みたいなものを守っている国、小さい時から受け継がねばならないもの、そういうのをしっかり見据えているところはある。私たちの国は、すべて忘れてしまいました。もう取り返しがつかなくなっています。子どもたちも、昔の人の遊びなんて、つまらないものにしか見えないでしょう。子どもたちからも切り捨てられている。
デザイナーのすべてが漢字平仮名を忌避するのは、これを使いこなす才能と教養がないからである。江戸時代の看板、洒落本、黄表紙を見るがいい。そこには優にやさしい流れるような日本の字がある。平仮名だくさんでところどころに漢字がまじっている。漢字はもっぱら美的配慮によって散らしてある。
つい百年前にモデルがあるのに、それを換骨奪胎できないのはその発想がないからである。江戸時代の看板を見れば私たちの父祖の美的感覚がいかにすぐれているか分かるだろう。早くまねしたほうが勝ちである。黄表紙の平仮名は流れている、(テープ)レコーダーの漢字は孤立している。だからできないと言うなら、永遠に何もできないだろう。〈1990 手本は江戸の看板にある〉
ひらがなや漢字の文化は、今でもあるのだから、これは大丈夫じゃないの? とも思えるけれど、世の中の偉い人たちは、何かをしようという時はカタカナとアルファベットで語り、名づけ、それで事足りていると思っている。グルーバル社会なのだから、英語は使わなければいけないのだから、という理屈です。でも、日本人としての感性は、江戸時代の人々と比べると、ガタ落ちをしている。
江戸文化とは、現代は必要なものが違うのだから、同じレベルで語ることはできないし、英語だってバンバン使えるべきだ、などと言う。
いや、そうじゃなくて、自分たちの教養をしっかり持たなくて、多文化だけを無条件に受け入れるのはそれでいいの? という問題提起です。もちろん、無視されてしまう話題です。
新しい雑誌と本が出る。買う人口の五倍十倍出るから、そのぶん売れないだろうに、なぜ出すかというと税金のせいである。
何だまた税金かと言いたまうな。たいていのことは詮(せん)じつめると税制に帰する。すでに名のある新聞雑誌は経営の多くを広告に依存している。昔は購読料半分広告料半分が理想の経営だったが、今は広告料の収入のほうがはるかに多い。
大小の企業は儲かっている。なまじ儲かると税に奪われる。それなら広告せよ、税は何物も生まないが広告は生むと「電通」「博報堂」にそそのかされて広告する委曲はすでに述べた。〈1990 出すぎやしないか本と雑誌〉
山本さんは、自分で雑誌を創刊し、メディアの側にいた人でもありました。だから、雑誌などのからくりがイヤというほど身に染みている。
中身や売り上げなんかよりも、メディアの会社というのは、とにかく出さなきゃいけないし、借金を抱えながら、切り盛りしていかねばならないし、そこへ税金と広告会社が関わって来たというんでしょうね。
この広告業界への依存はものすごく進んだことでしょう。大きなイベントを行うということは、広告会社や今なら人材派遣会社などとも関わりながら、そういう会社が肥え太ることを承知のうえで、それに頼らざるを得ない社会になっている、ということでした。
ああ、40年、私は何をしてきたんでしょう。
いたずらに嘆いても仕方がない。自分の好きなこと、誰かに何かを伝えること、気づいたことを、少しでも誰かに伝えられるようにしたいです。頑張りたいです。