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春秋時代に入りました! それは、どんな時代だったのでしょう?
鳥山喜一さんの『中国小史 黄河の水』(角川文庫)より引用してみます。
中国の歴史では、平王(へいおう)(周の王。前770年、洛邑(らくゆう)に遷都)が東へ都をうつしてから後、ざっと3百年ばかりの間を、春秋(しゅんじゅう)の世といいます。この間のことのあらましは、聖人としてよく知られている、孔子が書いた「春秋」という歴史の本にあるので、こういう名がついているのです。
この時代は北から野蛮人が攻めて来る。周の天子は全く勢力がなくなって、漢民族を救うことができない。そこで有力な大名たちが、一方には周の王様を尊んで、諸大名に忠実を誓わせ、外はこの侵入者を撃ち退けるために、起ち上がることとなりました。こういう強い大名を覇者(はしゃ)といいます。
かくして、中国全土に大小さまざまな大名(諸侯)が現れ、互いに競い合います。その諸侯の中で最初の覇者が斉(せい)の桓公(かんこう)でした。斉は、周と共同して活躍した呂尚(りょしょう)さん、あの「太公望」さんが始祖(しそ)となった国で言葉が生まれました!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/fd/2a848751d09230487468bdc580b3683a.jpg)
春秋時代の地図を入れて見ました! 山東半島って、そこだけで1つの世界なのかもしれません。今なら大気汚染が心配だけど……。
25【( )鮑の交わり】……非常に仲のよい友人の交際のこと。利害を越えた親密な友人関係のこと。
26【牛( )を執(と)る】……主導権を握ること。 ★ 空欄に適当な漢字一字を!
斉の桓公(かんこう)が位につくまでには権力闘争がありました。BC686年に斉の襄公(じょうこう)が内乱で殺害されます。それ以前に、身の危険を感じていた襄公の2人の弟は亡命をしていて無事でした。1人は公子・糾(きゅう)といい、管仲(かんちゅう)・召忽(しょうこつ)らが従っていました。もう1人を小白(しょうはく)といい、鮑叔(ほうしゅく)らに守られていました。
内乱で斉の国にトップがいない状態になり、王位継承権を持つ兄弟は帰国することを目ざします。いち早く帰国できた小白が位につき、43年におよぶ治世をスタートさせます。チャンスを逃した糾は殺され、召忽は殉死(じゅんし)します。もう1人のお付きの者・管仲は、友人の鮑叔のとりなしで助命されることになりました。それくらいに鮑叔と管仲とは連携ができていたというか、お互いを認め合う仲だったのでした。2人の深い友情から 25 のことばが生まれました。
切っても切れない関係をあらわすことばには、「刎頸(ふんけい)の交わり」「水魚の交わり」「金蘭(きんらん)の交わり」などがあります。
斉の桓公はBC651年に諸侯を集めて会盟を行いました。その目的は、周の王様のもとに諸侯を呼び寄せ、トップ同士が顔を合わせることで相互の関係を円滑にすることでした。儀式が行われ、犠牲の牛の左○を切り、その血をすすることで約束を守ることを神に誓いました。
人がある目的で集まり、何かをしていこうとするならば何らかのルールが必要ですし、人間だからみんなでお食事をするというのも、洋の東西を問わない大人の常識です。ここでは、神に捧げる牛の命の最初に血をすすった人が覇者・リーダーということになりました。
さて、牛のどこを切ったのでしょう?
答え 25・管 26・耳(じ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/ad/1060ef33c42664f7c5ac6722f28fc1e6.jpg)
右が桓公さんで、左が桓公さんを助けた管仲さんらしいです。桓公さんのお顔はなんだか澄ましていて、シャープな顔つきです。
鳥山喜一さんの『中国小史 黄河の水』(角川文庫)より引用してみます。
中国の歴史では、平王(へいおう)(周の王。前770年、洛邑(らくゆう)に遷都)が東へ都をうつしてから後、ざっと3百年ばかりの間を、春秋(しゅんじゅう)の世といいます。この間のことのあらましは、聖人としてよく知られている、孔子が書いた「春秋」という歴史の本にあるので、こういう名がついているのです。
この時代は北から野蛮人が攻めて来る。周の天子は全く勢力がなくなって、漢民族を救うことができない。そこで有力な大名たちが、一方には周の王様を尊んで、諸大名に忠実を誓わせ、外はこの侵入者を撃ち退けるために、起ち上がることとなりました。こういう強い大名を覇者(はしゃ)といいます。
かくして、中国全土に大小さまざまな大名(諸侯)が現れ、互いに競い合います。その諸侯の中で最初の覇者が斉(せい)の桓公(かんこう)でした。斉は、周と共同して活躍した呂尚(りょしょう)さん、あの「太公望」さんが始祖(しそ)となった国で言葉が生まれました!
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春秋時代の地図を入れて見ました! 山東半島って、そこだけで1つの世界なのかもしれません。今なら大気汚染が心配だけど……。
25【( )鮑の交わり】……非常に仲のよい友人の交際のこと。利害を越えた親密な友人関係のこと。
26【牛( )を執(と)る】……主導権を握ること。 ★ 空欄に適当な漢字一字を!
斉の桓公(かんこう)が位につくまでには権力闘争がありました。BC686年に斉の襄公(じょうこう)が内乱で殺害されます。それ以前に、身の危険を感じていた襄公の2人の弟は亡命をしていて無事でした。1人は公子・糾(きゅう)といい、管仲(かんちゅう)・召忽(しょうこつ)らが従っていました。もう1人を小白(しょうはく)といい、鮑叔(ほうしゅく)らに守られていました。
内乱で斉の国にトップがいない状態になり、王位継承権を持つ兄弟は帰国することを目ざします。いち早く帰国できた小白が位につき、43年におよぶ治世をスタートさせます。チャンスを逃した糾は殺され、召忽は殉死(じゅんし)します。もう1人のお付きの者・管仲は、友人の鮑叔のとりなしで助命されることになりました。それくらいに鮑叔と管仲とは連携ができていたというか、お互いを認め合う仲だったのでした。2人の深い友情から 25 のことばが生まれました。
切っても切れない関係をあらわすことばには、「刎頸(ふんけい)の交わり」「水魚の交わり」「金蘭(きんらん)の交わり」などがあります。
斉の桓公はBC651年に諸侯を集めて会盟を行いました。その目的は、周の王様のもとに諸侯を呼び寄せ、トップ同士が顔を合わせることで相互の関係を円滑にすることでした。儀式が行われ、犠牲の牛の左○を切り、その血をすすることで約束を守ることを神に誓いました。
人がある目的で集まり、何かをしていこうとするならば何らかのルールが必要ですし、人間だからみんなでお食事をするというのも、洋の東西を問わない大人の常識です。ここでは、神に捧げる牛の命の最初に血をすすった人が覇者・リーダーということになりました。
さて、牛のどこを切ったのでしょう?
答え 25・管 26・耳(じ)
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右が桓公さんで、左が桓公さんを助けた管仲さんらしいです。桓公さんのお顔はなんだか澄ましていて、シャープな顔つきです。