気づいたら、大阪駅には何度か行きました。けれども、それは中学生あたりからで、小学生の頃は、大阪駅というのがある、というのは知っていたけれど、何か用事がある時、それは何年かに一度家族総出でカゴシマに出かける時で、そういう時は、市バスではなくて、環状線で大阪駅に出たはずだから、駅の外には降りなかったかもしれない。
夏休み、高校野球で父や母がカゴシマのチームを応援に行く時、阪神電車に乗ったはずなので、夏の暑い時に、ヘトヘトになりながら阪神の梅田まで行きました。たぶん、この時は、環状線は使わなくて、市バスでトコトコ大阪駅まで出たんでしょう。
野球は、自分たちがするようになったのは小学5、6年生あたりで、4年生くらいは見もしなかったかもしれない。
だから、太田幸司さんの三沢高校の快進撃も全く知りません(1969)。東海大相模の優勝(1970)、桐蔭学園の優勝(1971)と、神奈川県が2年連続で全国制覇をした時、チラッとテレビで見ることはありましたけど(父が見てたのかな?)、あまり興味を持てなかった。
そう、野球は父の影響で、ずっと巨人が好き(?)ということなっていました。父はカゴシマ出身の黒江選手などを応援していたでしょう。王・長嶋、エースは堀内、キャッチャーは森、センターは柴田、レフトは高田、ライトは国松、または末次、セカンドは土井選手でした。でも、私は、何となくセカンドは滝安治さん(背番号は12?)を応援していた。なぜだったんだろう。定番でないものが好きだった、そういう趣味だったんでしょうか。たぶん、みんなV9戦士でしたね。
いつの頃からか、野球というものに取り込まれてはいたけれど、そんなに好きというわけではなかったし、ゴロが飛んで来たらトンネルするし、ショートバウンドははじくし、バットを振っても空を切るばかりだった。
それでも、甲子園のスタンドには行くことがあった。それは半分強制で、応援席は、カゴシマのチーム応援しようという、阪神地区で働いているカゴシマから出てきた人であふれていた。そういう自発的な、束縛されない応援団だったので、みなさん、ヤジは飛ばす、カゴシマ弁でどなる、面白おかしい(?)ギャグをとばすなど、西宮なのに、スタンドがカゴシマの空気に包まれていた。
自分は、その雰囲気は嫌いではなくて、野球でこんなおまつり騒ぎができるなんて、それはいいかもしれないし、自分も、どこかでカゴシマにつながっているのかと、少しずつアイデンティティの学習をしていたんだろう。
父母は、カゴシマの雰囲気・言葉に酔いしれ、応援するのが自らの使命のような、何だか強い意志があった。何しろ当時のカゴシマチームは弱くて、たいていは1回戦負けだった。
鹿児島実業の定岡投手が大活躍したのは、いつだったのか(1974)、たぶん、学年が二つ下の原辰徳選手の東海大相模を準々決勝で倒した時も、第四試合の一塁側に私たち家族四人がいた。そんな熱気のある時もあった。
カゴシマのチームが勝つようになったのは、その辺りからだった。
それは、70年代の初めだったか。万博後のことだった。
それ以前の梅田駅は、とても怖い所だったという印象がある。特に地下街は、今のような整然としたものではなくて、猥雑な店・狭くて大人がゴチャゴチャ飲み食いしているところ、延々と続くタイルの単調な色、阪神デパートの地下には全国のお土産を扱う狭いお店が道に沿いながら続いていた。
そこで買いたいものなど何にもないのに、子どもの目には、九州は、四国は、北陸は、東日本はと、いろいろと知らないものを見るチャンスにはなった。食べ物は、全く興味がなかったけれど、そこで売られている郷土玩具的なものは、弟が趣味で集めるようになって、私も時には見ることもあった。百貨店の郷土玩具市みたいなのは、めったになかったけれど、たまにあれば、見に行ったりした。それは、火事があった千日前デパートで買うことがあったかもしれない。あそこの店は、鳥を飼うのが好きだった父のお気に入りの店もあった。父は、メジロも好きだった。たぶん、カゴシマの男の子たちは、小さい頃から鳥たちを飼うことも趣味にする習慣があったんだろう。
そういう頃よりも、少しだけ昔、梅田の地下街で、どういう訳か、ひとりだけトイレの前で待たされることがあった。
「知らない人から声をかけられても、絶対についていったらあかんよ」と教えて育てられていた頃、小学校の低学年だったのか、まさか、その恐ろしいことに一度だけ出会ったことがあった。もちろん、頑なに拒否し、じっと無反応を通していたと思う。弟はその時、どうしていたんだろう。とにかく、ひとりで心細かった。
何しろ、猥雑で、ミイラみたいな大人が数人で固まって何か人々に歌を聞かせている、そんな不思議な光景がまだあった時だった[少し失礼な言い方ですみません]。
梅田の地下街は、子どもには怖すぎる世界だったのだ。だから、こんなとこから早く逃げ出したい、いつもそう思うような場所だったんだ。