この前、実家の方へ行ってまいりました。実家は大阪の海側です。万博騒ぎとは無縁で、独自の文化を形作っています。少しだけ、翳(かげ)りはあるけれど、住んでる人々は、それぞれに生きています。それが他の地域の人々に伝わらないのが、それは残念ではあるんですけど……。
最初の写真は、大阪市の大正区というところの、大正内港というところです。この時は日曜の朝でしたので、船は活発に動いていませんでした。漁船だってつながれたままでした。まあ、大阪の漁船だって、かきいれどきは早朝・深夜だったろうと思います。
私はここに早朝とか深夜とかに来たことがなかったんでした。お仕事か、釣りでもするかしないと、わざわざそんな時間には来ません。タグボートも、大きな船がやってきたら大活躍するし、運搬船はお腹の中にたくさん何かを抱えて川を行き来したりしていたけれど、それも最近はそんなにないんでしょうか? 万博の敷地への土砂運びとか、もう済んだのかなあ。あと二年というし、埋め立ては済んでいるんでしょうね。
ここはかつては陸地でした。海側の大正区という土地を縦横に市電が走り、運河がめぐらされ、材木置き場になっていたり、どこからどこが危ない所なのか、イマイチ不鮮明で、子どもたちは危ないところへ入り込んでいました。
船虫がものすごくたくさんいて、子どもたちをあざ笑うように移動して、その姿形のために、最初から腰が引けてる子どもたちは、不気味だなとは思うものの、「とにかく人を避けてくれるんなら、あっちへ行って」と、祈るような気持ちで材木が浮かんでいる貯木場とその木の上をおっかなびっくりで足を踏み入れました。
水に浮かぶ木は、子どもの二、三人程度なら沈まなくて、プカプカ浮かんでいた。針金でつながれてるから、回転することはなかったけれど、たまに何もくくりつけていない木なんかに乗ってしまうと、ズドンと水の中に落ち込んでしまった子が一人だけいましたっけ。彼のお母さんとは、うちの母も今も公園やらお買物で出会うんだよ、ということでしたが、彼もふるさとを離れてしまったようでした。
貯木場と市電と場末感あふれる開かれた土地に、巨大な港を作ろうとしたのは、あれは小三か、小四のころでした。普通に歩いて行けたところが、気づいてみたら海になってしまっていた。
貯木場の一番奥に住んでた子のおうちも、どこかへ引っ越していったんでした。知らない間に、目の前からいなくなる子は、男も女も、何人もいましたね。
港ができました。工場みたいなのはなくて、海運の港のようでした。貯木場も大阪の新しい埋め立て地に移転していきました。子どもたちの遊び場、堤防に囲われ、水に触れ合えない、サカナや虫などのいない、コンクリートの港になりました。こうして私たちは海から断絶されました。
それから何十年も経過して、甥っ子は、この大正内港の近くの中学校に通うようになりました。つい三、四年前のことでした。夏などは、クラブが終わると、今だから言えるということでしたが、あろうことか、この大正内港のきれいとは言えない海で泳いだそうです。
たぶん、造船所が近くにあるから、人気が消えた造船所のスロープを降りて、海につかったみたいです。私はこの前初めて聞かせてもらいました。
釣りをする弟は、どこでも釣り糸を垂らすから、ここでもチャレンジしたことがあったみたいで、「あっこは、エイおったで!」と、これまた初耳の、少し怖い話を聞かせてくれました。
エイがいて、中学生たちがクラブの終わりに水に入ってしまうような、あまりキレイではない海になっていたんですね。
何十年も昔の子どもたちが、冒険心いっぱいで挑んだ、少し危ないところは、今でも、少し危ない海ではあったんでした。いや、弟の家族だけがワイルドなんだろうか。
そんな、地元話をついついしてしまったのも、この前、小川雅章さんというアクリル絵の具で絵を描いておられる方の個展を見に行き、絵は買えなかったけれど、カレンダーは買いましたので、そのカレンダーを見ながら、自分たちそれぞれのルーツを確認し合ったんでした。
小川さんのこと、また、今度書きます。写真なんか、まるで絵のすごさが表現できていません。実物は、とてもくっきりと浮き上がる、鮮明で、どこまでも見るものに物語を広げさせてくれる、素敵なものでした。
弟に内緒で、こっそりと買おうかな。いや、悩みます。今度、チャンスがあれば、買いたいですけど、チャンスはあるんだろうか。