こだわりも度を越せば妄念
10月1日。金曜日。今日からもう10月だって。あ~あ。だけど、これでもう何回「もう10月か」と言ったんだろうな。いや、毎年「もう○○月か~」と12回だから、定番のせりふのトップだろうな。もっとも、子供の頃は「ま~だ○○月?」だったような感覚だったと思うけど。今日は日本ではもう土曜日だから、ワタシも週末の休みモード。午後3時のポーチの気温は21度。夏がちょっと立ち寄った感じで、いい天気。
ビクトリアで逮捕された女子大生は1万ドルの保釈金で釈放され、両親がカナダに向かっていると、新聞に「一面記事」並みの扱い。ビクトリア大学での半年の英語留学のために8月に来たばかりだったそうで、逮捕直後に警察が病院へ連れて行って診察を受けさせ、大学がめんどうを見ているとか。ご本人は学校での勉強に戻って、終わったら日本へ帰りたいと言っているそうだけど、自分が置かれた状況をちゃんと理解しているのかな。半年間の留学に来たということは、ほんとに妊娠していることを知らないでいて、「新生児」とは書かれているけど早産だった可能性はあるな。日本語を話せる弁護士が乗り出してきたそうで、日本文化がどうのこうの、日本人は家族やコミュニティ、国への責任感がカナダ人より強くてなんたらかんたら。やれやれ、それほどの責任感があったらこんな騒ぎにはならなかっただろうに。ハタチのオトナなんだからして。まあ、弁護士だから弁護するのが仕事だとしても、ジャパン帰りのニッポンテイストのなんちゃら日本通じゃないといいけど。
なんちゃら外国テイストといえば、件のフレンチカントリーテイストのおうちのマダムのトピックは、否定的な書き込みへの必死の反駁がさらに否定的な書き込みを呼んで、だんだんにトラジコメディの様相を帯びて来たからおもしろい。なにしろその「フレンチカントリーテイストのおうち」への思い入れと、自分のテイストの「正しさ」への思い込みの強さがひしひしと感じられるもので、反駁すればするほど、それをわざと煽っているような書き込みが出てくる。メーカーのブログにシンプルな家のことを書いてあると「おもしろくもない普通の家なのに」とムッとするとか、珪藻土や無垢の自然なものが子供にもいいと思うのが母親として当然なのに、子供がいるのにナチュラルじゃない家は親としてどうなんだとか、シンプルな家にキャンドル型のライトがついていると「私達のアイテムなのに!」とあまりいい気分がしないとか、「フレンチカントリーテイスト」以外は一刀両断の全面否定。日常生活でも「リネンのワンピースにお団子ヘア」といういでたちというにいたっては、こりゃあもう病気だわと思ってしまう。
もっとも、どんな「おうち」を建てようが、どんなカタカナ語スタイルに飾り立てようが、そこでどんな格好で暮らそうが、人それぞれの「テイスト(好み)」の問題なんだから、自分のイメージした通りでハッピーなんだったら、人さまが何と言おうと「これが私のお気に入りなの」で済みそうなもんだけどな。それで済ませられないで、「認めて!ほめて!」と駄々をこねた挙句に「おうちはこうでなくちゃダメなのよ!」と癇癪を起こした3歳児のように地団駄を踏んでしまうようところまで行ってしまうと、もうそれ以外の世界が存在しなくなっているというか、妄信というか、病膏肓を通り越して、「こだわり」というものさしの限界を超えた病的なobsessionの怖さを感じる。ある意味で、あるモノやイメージに呪縛された「ストーカー」的な心理ではないのかなと思って、悪いけど、背筋がぞ~っとしてしまう。
それでも、この「まのん」と名乗るトピックの主が異なるインテリア趣味の人を貶そうが、自分の価値観を押し付けようが、視野狭窄でフレンチカントリーのインテリアの世界以外には何も知らなさそうな人であろうが、「へえ」で済ませちゃえば何の実害もない。むしろ、トピックを大いに(イジワルに)楽しませてもらって、受付終了なっちゃったのが残念なくらい。だけど、個人的な印象として最近は(日本に)こういうこだわりが病的というか、思い込みが度を越して激しい若い人が増えて来たと感じるのはたしか。誰かが「怖い思想」だと書き込んでいたけど、ほんとうに自分以外の価値観、美意識、嗜好、その他あらゆるものの存在、果ては人間の存在が「ありえない」という思想なんだろうな。遠くからインターネットという節穴を通して眺めているワタシには、何がそういう人たちを生み出しているのかは憶測するしかないし、外にいる人間があれこれ憶測してもああだこうだと撃墜されるだけだとわかっていても、つい「大丈夫なのか」と思ってしまう。そういうことを思わずに済めば気が楽でいいんだけどね。
とにかく、すべてが「AイコールA」しか考えられないような思い込みの激しい人に遭遇することが多くなったと思う。「自称」バイリンガルの新入りの同業者もしかり。ひいき目に見たって「セミリンガル」のレベルに近いんじゃないかとという印象なんだけど、ご本人は自分はバイリンガルで育ったから日本語も英語も完璧と信じて疑わない。疑問を投げかけようものなら、猛烈に反駁して来るし、しまいには英語人による市場閉め出しの陰謀だと騒ぎ出す。なんとなく「仮想的有能感」というのはこういうタイプなのかなあと思うくらい思い込みの激しい人で、さすがのワタシも、この先お目にかかりたくないなあと思ってしまう。こだわりが強いいうのは、ある意味でそれにしがみついていないと不安という「ライナスの毛布」的な要素もあるんだろうけど、そういう人たちに間接的、直接的に遭遇することが増えるにつけ、どこからどこまでが「正常」の範囲で、どこから先が異常なのかよくわからなくなって来る。今の時代は時空間を一瞬に抜けられる便利なハイウェイのそこかしこに正体不明の「妖怪」が徘徊する闇があって、いつそこに落ち込むかわからない、「不安の時代」なのかもしれないな。
ちなみに、「フレンチカントリー」を英語でググって見たら、出るわ、出るわ。そういうスタイルの住宅のできあい設計図を売るサイトがぞろぞろ。その定義はというと「フランスの田舎の家にヒントを得て、19世紀後半のアメリカで住宅建築様式として始まった」。なんだ、フレンチカントリーテイストってのは実はアメリカンてことか。アメリカでは伝統ある建築様式なんだ。いろいろ見てみたら、避暑地に建てるような小さい(日本で受けそうな)かわいいコテージもあるけど、たいがいは郊外の分譲地に建っているような床面積300平方メートル規模の典型的な住宅。中には総床面積が2千平方メートルという、名実ともにシャトー級の邸宅もあったけど、ここまで来ると新世界アメリカ発祥のフレンチカントリー様式もそれなりの風格があっていい。
ふむ、もしもロトで大当たりしたら、広い土地を買って建ててみようかしらね。外箱がアメリカンフレンチカントリーテイストなら、通る人が「お、いいねえ」と言ってくれるだろうし、まっ、インテリアはどっちみちカレシがいろんなものをごちゃごちゃと置きまくって「orange crate modern」様式になるだろうと思うけどね。それはそれで生活感が満点で居心地はよさそうだけど、今日の郵便で来たRestoration Hardwareの分厚いカタログには重厚で鄙びたカントリー様式の家具や庭園の調度品がたくさんあるから、そこから選ぶのもいいよねえ。まあ、すべてはロトが当たったらの話だけど、持ち家というだけでミリオネアになれるバンクーバーじゃあ、少なくとも1千万ドルくらい当たらないとむりだろうなあ・・・。
活字離れは「他者離れ」だって
10月2日。土曜日。今日もいい天気で、今日も「仕事をしない」週末の1日。ほんとはそろそろ始めた方がいいとはわかっているけど、だらけムードに流されて、まあまあ関連のありそうな記事をググって、「リサーチ」と称して読む。お子様プロジェクトにはやっぱり子供の教育に関する背景情報が欠かせないけど、ワタシは子育てしたことがないし、子供が相手だとつい楽しく一緒に遊んでしまうから、子供の指導なるものもやったことはない。ましてや日本の初等教育事情なんて半世紀も昔のことで、それさえあまり覚えていないのは、たぶん授業なんかそっちのけで白日夢をむさぼっていたからだろうな。まあ、ほんとにヘンな子だったから。
それにしても、「教育」は人間の一生を左右するものだから大変。学校教育というのは、自分の子供の将来を「教師」という職業の他人の手に委ねることだよね。で、その教師の上に学校の運営を管理する層があって、さらにその上には文部科学省というお役所がで~んとある。このお役所のお役人たちが(教育審議会とか何とかいう「賢人」たちの助言を聞いて)日本の子供が何をどのように学ぶか決めて、上意下達で教育組織の一番下にいる「教師」がお達しと一緒に与えられるお墨付きの教科書の通りに教える、というシステムなんだと思うけど、昨今の教師がらみのスキャンダルの数々を考えたら、親たるもの相当の勇気がいるかもしれないなという気もする。仕事をしながら、もしもワタシに子供がいたら「学校」にはやりたくない、子供ができなかったのはあんがい幸いだったのかも・・・と、つい思ってしまう。(カナダならホームスクーリングという選択肢があることはあるけど・・・。)
この2010年は日本では「国民読書年」なんだそうな。へえ~と思ってまたあちこちググっていたら、読売が企画したという青山学院大学の日置教授とのおもしろいインタビュー記事が出てきた。文学部日本文学科に入学してくる学生に読書体験を聞くと、夏目漱石すら一冊も読みこなしていないんだとか。試験勉強して、入学願書を出して、入学試験を受けて受かって、日本文学科に入って来たんじゃないのかなあと思ったら、「教科書や教科書・参考書の解説やダイジェスト」を通して文学作品を知ってはいるけど、日置教授が独自の漱石論を展開すると、どの解説にもないと反論して来るし、しまいに「偏ったことを教えられては困る」と言い出すとか。ええ?解説書を読んですでに「正しい」解釈を知っているなら、なんで今さら大学に入って勉強するの?
日置教授の曰く、『現代の若者たちの多くは、自分の興味のあることについては「オタク」と呼ばれるほどに情報を収集するけれど、それ以外のことへの関心はきわめて希薄です』。うん、これも「こだわり」のひとつというのか、そういうところはあるなあ。自分が興味のないことはどうでもいいというか、ジョーホーをくれと言うのに、他人の言うことは無視したり、ウザいとか上から目線だとか言って否定したりね。『自分の幅を広げて成長することより、安全圏を確保してその内側に収まっていることのほうが優先されるのです』。う~ん、やっぱり何らかの不安感があって、精神的に引きこもってしまっているのかな。いうなれば「ライナスの毛布」にくるまっているようなものだよね、これも。『こうしてみると、「活字離れ」と見られる現象の根底にあるのは、他人との濃密な関係を嫌う「他者離れ」なのではないかと、私は考えます』。うん、なんとなくわかるような気がする。だから、年令や育った環境や趣味や嗜好が違う他人にどうやって接していいかわからないんだろうし、いわゆる「友だち」でさえちょっとしたことで疎遠にする、フェードアウトするという発想が出てくるんだろうな。「やだ、できない、や~めた」と。
日置教授のさらに曰く、『むろんこうした他者との関係を、若者たちが自ら創りだし、身につけてきたとは思えません。高度成長からバブルが崩壊し、他人にかかわる余裕がなくなって、自分の領域を守ることで手一杯になった大人たち。その姿を見て育ってきたのが、彼らなのです。』ワタシは前から今の日本が抱える諸悪の根源はバブルにあると思っていた。バブル景気で最も大きな影響を受けたのは経済じゃなくて社会だったと思う。膨らむ過程でそれまでの社会通念や良識がほころび、潰れた後もそれを繕うことができないでいるのではないかと。日置教授の言葉をまた引用させてもらうと、『自己主張を嫌う若者は、実は内に主張を秘めており、それは自分の安全が確保されれば、たとえば匿名の環境でなら噴出してきます。こうした「裏」の声を、主に引き受けているのが匿名で発言できるインターネットです』。
なるほど、自分は安全圏にいると思っているから言いたいことが言えるということか。匿名掲示板なんかでは実に「雄弁」だもんね。教授はインターネットを状況を改善できる可能性のひとつと見ているけど、どうなのかなあ。『最近は、インターネットが決して安全な環境ではなく、こうした「裏」の発言にも責任を持たなくてはならないことに、若者たちも気づいています。ネットの世界は、「裏」と「表」の落差が縮まるある種の過渡期を迎えているのです』。う~ん、ワタシは「表」と「裏」をうまく使い分けていると思っていたけどなあ。つまり、建て前(表)を整えることが「空気を読む」ことであり、本音(裏)は他者には見せたくない(あるいは見られたくない)「自己」の主張だと。
まあ、そんな風に考えていたんだけど、あんがい、ネットの環境が安全でないことに気づいてはいるけど、現時点では行動に移せないでいる、まだ「安全なところ」にこだわっているというところなのか。そういえば、中学生を対象としたある調査では、学力の高い子供ほどいい大学に入って、「日本の企業や公務員」に就職して、安定(と安全)を求める傾向が学力の低い子供に比べて強かったという結果が出たと言ってたなあ。勉強のできる(はずの)子供たちはもう今から失うかもしれないものが多すぎるとびびってしまっているのかなあ。精神医学用語に「失敗恐怖症(hamartophobia)」というのがあるけど、まさか・・・?
ネットの闇でつまずかないように
10月3日。日曜日。目が覚めたら何と午後12時43分。そんなに遅くなかったのに。カレシを(やさし~く)起こしたら、「今日はすご~くだらけた気分なんだ」と言うのでそのままカレシの腕枕でしばしうとうと。「おなか空いた~」とごそごそ起き出したらもう1時半。これじゃまたリセットするのが大変そうだなあ。まっ、別にこれといった時刻表があるわけじゃないからいいか。今日は雨が降っていないのに、「初秋の晩夏」だったきのうとうって変わって寒い。午後だというのに、ベッドルームの温度はあと2度下がったらヒーターが入るくらい。ふむ、ひょっとしたら体が「冬眠」の季節だと勘違いしていたりして・・・。
オフィスのPCの前に座っていつも真っ先に各国の新聞を読むのが「朝のひととき」。地元のVancouver Sun、The Provinceから始まって、Google Newsの見出しで世界をちょこちょこっと模様眺めして、読売、朝日、産経、毎日、Japan Times, News On Japan、CNN、Reuters、Spiegel(英語版)と見出しを拾って、興味をそそるニュースを開いて読む。いつも思うんだけど、日本のオンラインの新聞の記事は実に短い。「いつ、どこで、どこの誰が、何をして、どうなった」と数行でおわり。つい「で?」と続きを聞く姿勢になるけど、「あ、ニュースはそれだけです」みたいなあっけなさで拍子抜けする。片や欧米の新聞記事はとにかく口数が多くて、いくらスクロールしても続いていたりするから、こっちもけっこう読み応えがあると感じてしまう。
こうして世界から発信されて来るニュースを(英語と日本語だけだとしても)すぐに読めるネットの時代は実に便利だと思う。だけど、この便利さは「表」の世界なんであって、その背後には闇に包まれた「裏」の世界がある。きのうの「自分の安全が確保されれば若者の内に秘められた自己主張が噴出する」という、「匿名」という安全毛布に包まれたネットの「裏」の世界。少し前にはバンクーバーの郊外でraveに行った女子高生が薬を飲まされて集団強姦される事件があって、その様子をビデオに撮ってFacebookに載せた高校生が逮捕された。でも、いったん投稿されたビデオは削除しても削除してもすぐに誰かの手でアップされて警察はお手上げの状態。
何というひどい話だろうと思っていたら、先週はアメリカの大学でゲイの新入生の性行為が寮の部屋に仕掛けられた隠しカメラを通してFacebookに流れ、バイオリニストとして将来を期待されていたらしいこの学生は橋から投身自殺してしまった。日本ではある事件で逮捕された容疑者とたまたま同じ姓だった会社がネット掲示板の書き込みから「実家」だという噂が広まって、「火消し」に200万円も費やしたという話がある。かかってきた電話の主に違うといったら「あなたが違うといっても、その証拠が出ないと」と信じてもらえず、「調べてくれ」といったら「ネットではそういうことになっているから」と言われたそうな。匿名性は「自分の正体を明かさない」ことによって本音を語ることを促せるかもしれないけど、同時に無差別に人を狙い撃ちするスナイパーに安全な隠れ場所を提供することにもなる。相手が見えないから、他人や社会に悪意を持っているけど臆病で直接に行動できない人間をことさら大胆にすることもあるだろうな。
先週で新生児の遺体遺棄で留学生が逮捕された事件に同年代の日本人がどういう反応をしているのかと思って、久しく遠ざかっていたローカル掲示板をのぞいてみたら、案の定いくつか複数のスレッドが立っていた。びっくりしたのは、この女性のSNSへの書き込みを探し出して、コピーした内容やリンクを貼り付けた投稿や、何ヵ月も前のトピックを探し出してきて、「同一人物らしい」と推理した投稿があったこと。特に後者のトピックは警察が感知したら今後の調べにかなりの影響を及ぼしかねない内容なのに、それをまるで雑誌の切抜きを見せているような感覚で載せているから恐ろしい。日本人の掲示板で、日本語で書いてあるから、カナダ人にはわかりっこない(安全圏)と思っているのかもしれないけど、このあたりでは日本語を読めるのは日本人だけとは限らない。それにしても、何十、何百と立っては消えるスレッドの中からよく探し出したものだと感心する一方で、「同じ日本人」という以外には面識も何もない人間に関して(たしかに「新聞に載って」しまったけど)そこまで執拗に情報をほじくり出してばらまける心理は心底から恐ろしいと思った。
このブログだって、どこで誰が、その人が知っているワタシじゃない別の人のだ思って見ていて、「嘘ばっかり。現実逃避だ」と笑っているるかわからないし、あるいは実際にワタシを知っている人が、ワタシのだとわかっていて「見つけたよ」と知らせずに黙って見ているかもしれない。絶対にありもしないことを創作して書かないのは、どこに「現実世界のワタシ」を知っている人がいるかわからない。使う人の分析力や判断力がある一定の水準になれば、玉石混交の情報を選り分けて、あまり嘘八百に踊らされなくなるかもしれないけど、モラルはまったく別の話で、マニュアル化して教えられるものではない。ほんとに、ネットの世界では一寸先は闇・・・。
今日はもう仕事はいいや
10月4日。月曜日。寒い~。なんだか湿っぽいし、どよんとした空模様。ま、10月ってことなんだろうけど。仕事を始めようかなあ~と迷いつつ、朝食を済ませてまずは家の事務処理から。ケーブルテレビの料金、電話料金、電気料金、営業経費用のクレジットカードの請求、そして家の火災保険の支払いを設定。いちいち小切手を書いて、封筒に入れて、切手をなめなくてもよくなったのは、便利な世の中だよね。
そうか、この家も今週で築後22年。何度も改装したから外観も家の中もかなり変わっているけど、古家になりつつあるのはたしかかな。もうちょっと手入れをした方がいいんだけどね。カレシはやらないし、ワタシは仕事にかまけてやれないし、そのうち人に頼んで修理の必要なところを修理してもらうことになるのかな。保険料の内訳を見たら、建物の保険額が34万ドルに近くなっていてびっくり。新築の頃は12万ドルくらいだったのに。まあ、新価保険だから、建て替えのコストは物価や建築コストの上昇に合わせて年々上がるのは当然なんだけど、総床面積
185平方メートルの小さな我が家同じ家をそっくり復元するのにそんなにもかかるようになっているというのはオドロキだな。(今の円レートで換算すると1平方メートルあたり約17万円。)これに土地の評価額を足すと、バンクーバーの住宅相場がいかにバカ高いかが改めて身にしみてくる。
メインのクレジットカードが期限切れになって、送られてきた新しいカードはICチップ入り。口座は彼氏の名前だけど、今までは同じ番号で家族用カードも発行してもらっていた。それをよく見たら、ワタシの名前のカードはまったく別の番号になっていて、暗証番号も別。でも、オンラインで銀行の記録をチェックすると新しい番号ではあるけど、今までどおりにどっちがカードを使ってもひとまとめになって出てくるから、新しいシステムでは同じ番号にはできないのかなと、さして気にも留めないでいた。ところが、新しいカードになってからの請求書が来てみたら、カレシの(元の)番号のカードでの買い物と、ワタシの(新しい)番号のカードでの買い物が仕分けされている。つまり、どっちがいつどこでカードを使ったかが一目瞭然。カレシに見せたら、「夫婦のもめごとが増えそうだねえ」。うん、「アンタ、これ、何よっ?」とか、「オマエ、また新しい靴を買ったのかよ~」とか、請求書をめぐって夫婦喧嘩が起きるかもしれない。し~らない。
午後4時。トレッドミルで運動。シャワーを浴びて、イアンとバーバラの夫婦と食事に出かけるためにリッチモンドへおでかけ。晴れ間が広がって夕日がまぶしい。カレシが「サングラスを持ってくれば良かった」と言うから、貸してあげると言ったら、「まだいい」。まだいいって、何で?「今はまだ問題じゃないから」。ええ?なんで問題が起きるまで待つの?「だって、必要ないかもしれないよ」。はあ、問題が起きなければ必要ないだろうけど、起きたときに慌てるのはハンドル握っているアナタでしょ?必要なかったら外して返してくれればいいでしょ?んったく。ま、サングラスを渡したら黙ってかけていたけど、元々家を出るときに空模様を見て「夕日がまぶしい」という問題を想定してないんだからしょうがない。おもしろい思考だねえ、アナタ。
食事はスティーブストンの「一朗亭(ICHIRO)」というすし屋。夏に遊びに来ていた息子のロバートが友だちと行って良かったと言っていたので来たかったというバーバラ。月曜日だというのにかなり客が入っている。スティーブストンは日系人のふるさとだけど、今のリッチモンドは中国系の街。店の中の会話も中国語が多い。でも、カウンターの後で寿司を握っている若い2人はどうやら日本人らしい。日本流に「とりあえずビール」にして、「松」のディナーセットは、エビの酢のもの、てんぷら、鶏の照り焼き、寿司、刺身、味噌汁(ご飯はなし)と、ありきたりの内容だけど、これで21ドルとちょっとは安い。日本食はすっかり「安い外食」として定着してしまった観もあるけど、この値段としては「うん、よかったよ」と言えるかな。
おなかもいっぱいになったし、イアンとバーバラのコンドに寄って、コーヒーとコニャックでひとしきりおしゃべりして、あ、今日はもう仕事はいいや・・・。
妻が夫を超えたとき
10月5日。火曜日。いい天気だけど、日差しはカリッとした感じで、とにかくまぶしい秋の光。別にアウトドア派でもなんでもないけど、あんまり天気がいいもので、今日も仕事に取りかかる気分が起きてこない。う~ん、あとどれくらいダラダラしていられるかなあ。納期まで15日あるから、木曜日には始めないと余裕がなくなってしまうなあ。そうなると、もしも他に断れない仕事が入ったらきっちきちで、へたをすると半徹夜状態か、もろに徹夜モード。や~だ。もうしっかり還暦を過ぎた「老体」だってのに、まだそんなことやってていいのか・・・。
今日届いたMacLean’s誌におもしろい本の記事があった。「夫を超えてしまった妻」が離婚するか、結婚を続けるかで悩んだときに、いくつかのシナリオに沿ってアドバイスしている本だそうで、なかなか考えさせられるところがある。たとえば、「妻の方が収入が多くて、家事のほとんどを担当していて、幸せでない」場合は離婚した方がずっと良策。「夫にある程度の収入があるのに家庭に対する経済的な責任をまったく全うしない」場合も離婚が良策。「妻が家計を支えるのに十分な収入を得るようになって、夫が自分の収入を自分のために使うようになった」場合は、問題の解決を図らない限り、夫婦が有意義な関係を維持することは不可能に近い。「夫の自尊感情が低い」場合、妻としては、夫が現状のままで自分がたとえば博士号を目ざすなどしたときに夫を尊敬して、愛し続けられるかどうかを自問すべき、と。いつまでも大人になってくれない夫への愛が冷めてきたなんて妻も多いけど、こういう図式では気づかないうちに母と子の関係になってしまいやすいから、気をつけないとね。
でも、そういう夫を「それでもいい」と全面的に受け入れたとしても、夫自身が自信のなさを認めるか、直視して克服を目ざすなど行動しなければ、夫婦として機能するのはほぼ不可能。なぜなら、夫は嫉妬から妻を押し留めようとし、妻は自己の成長を妨げられて憤るから。私たちの場合は最後のシナリオに近かったかな。違っているのは、カレシが前に進もうとするワタシを躍起になって引き戻そうとしていたのに、ワタシは長い間気づかずに、犬ぞりのハスキー犬よろしくぐいぐい引っ張っていたということかな。カレシは「止まれ、止まれ」と手綱を振り回していたつもりが、ワタシは「がんばれ、がんばれ」だと思っていたんだから、空気が読めないというのか、さすが極楽とんぼというのか・・・。
著者は独身の女性におもしろいアドバイスをしている。女性の方からの積極的なアプローチは社会的には広く受け入れられているけど、長期的に見ると、女性は永久に「積極的な方」という役割に固定される恐れがある、というもの。つまり、恋愛関係になってからも、女性がすべてお膳立てをすることになり、それがあたりまえになるとやがて「自分は愛されていない」、「価値を認められていない」と不満を抱くようになるんだそうな。シナリオがどうあれ、「夫が退屈になったから」というのは離婚の妥当な理由にはならないそうで、「こんなつまらない男」と思って別れた夫がさっさと再婚してしまったら、後で気が変わっても戻るところはない。質の良い男はなかなかそう簡単に見つかるものではないから、場合によっては新しい男の欠陥に対処するよりも、すでによくわかっている夫との問題を掘り下げて、解決を図る方がずっと生産的だから。
小町でも何かあると「夫婦は対等でなきゃ!」という意見が出てくるけど、洋の東西を問わず、夫婦の関係には一種のパワーゲームのような要素もあるし、いろんなところでまったく違う2人の人間が作る関係だから、現実には何かにつけて不対等、不平等、不均衡。まあ、女性の方が男よりも頭を使わなければならないことが多いようだけど、女性の方が賢いはずだから、それはそれで自然の摂理だと思う。つまるところ、結婚てのは、国と国の外交ゲームに匹敵するくらい、あるいはそれ以上に難しいのかもしれないなあ。
日本人は声色を読むんだって
10月6日。水曜日。今日もいい天気。寝つきが良かったらしく、午前8時前のゴミ収集車の音で目が覚めただけで、その後2回の通過ではまったく目を覚まさなかった。カレシにいたっては3回ともぜ~んぜん気がつかなかったというから、もう稀なレベルの爆睡。季節の変わり目だからなのかな。年を取るとそういうことに敏感になるのかな。どうも最近は「年だ、年だ」と騒いでいるような気もするけど、自分自身の心身の微妙な変化にすごく興味がある。気になるんじゃなくて、年を取るのが怖いのでもなくて、人間てのは精巧で複雑で繊細で、実に微妙にできているなあと思うようになったからで、自分自身とカレシが観察の対象として一番身近な「人間」だということだと思う。
今日の郵便でマリルーから一枚の写真が送られてきた。7月の初めにパパの遺灰を海に流しに行ったときのもので、船のデッキで、90代のママを囲んで、カレシとジム、デイヴィッドとみんな60代に入った3人兄弟。ママと息子たちがそろっていい笑顔で、すごく良く撮れている。ひょっとしたらこれが最後の「親子いっしょ」の写真になるのかもしれない。やっぱり家族や友だちの写真は印刷しておくべきだよね。ハードドライブに収納された写真はいつ何どき誤操作や不具合で一瞬にして消えてしまうかもしれない。ひとりの人間の人生の記録や思い出がほんの瞬きの間に消滅するということには言葉にはできない怖さを感じる。カレシが2人一緒の写真からワタシを消していた時期があって、それを知ったときは、生きて来た証拠を消されたショックというか、人間としての存在さえ抹消されたかのような恐怖感があったからだろう。(客観的に考えられるようになってみると、「そりゃあそうだよなあ。コクサイケッコンする気満々のオンナノコに「古女房」と一緒の写真を送れるわきゃあねぇよ」と笑えるんだけど、当時は精神的にかなりぼろぼろになっていたから、そんな余裕はなかった。)
デジタル時代で自在に操作できるようになった写真は記録という機能を超えて、ビジュアルなコミュニケーションの道具になっていると思う。指名手配の顔写真を見ると、ああ、そういうことをしそうなやつだなあと感じるし、人によっては悪いやつはああいう顔をしているもんだと思い込むこともあるだろうな。読売で最近読んだコラムの中に「日本人は声色でコミュニケートする」という研究結果の記事があった。オランダの研究者と共同で、「喜び顔」と「怒り顔」、「喜び声」と「怒り声」を組み合わせて、顔と声が一致しているビデオと一致していないビデオを見せ、顔か声のどちらかに着目するように指示して、対象者が顔と声のどちらに強く影響されるかを調べたんだそうな。その結果、日本人は顔に着目するように言われても無視すべき声の影響を強く受け、逆に声に着目した場合は顔の影響を受けにくかったのに対して、オランダ人は顔と声のどちらに着目していても、他方の影響はあまりなく、顔と声の間に影響の差がなかった。
つまり、日本人は自動的に相手の声の調子から感情を判断する傾向が強いという結果だけど、ということは、漢字のような表意文字を使う文化で、マンガやアニメのようなビジュアルな表現が盛んなように見えるけど、人と人のコミュニケーションはあまりビジュアルではないということなのかな。考えてみると、村人たちが総出で田植えや稲刈りをする農耕文化では地面に向きっぱなしの作業なわけで、いちいち体をひねったり、起こしたりして隣でしゃべっている人の表情を見ているヒマはなかっただろうから、声の調子で意志の疎通を図るようになって、そこから「空気を読む」という脳の配線になったのかもしれない。そうすると顔と感情が一致しなくてもいいわけで、心の中でははらわたが煮えくり返っているのに顔はニコニコという、顔と声を組み合わせて判断するコミュニケーション脳を持った人にはとうてい理解できない場面が起きて来るわけか。
このあたりで異文化コミュニケーションの難しさという話題になるんだろうけど、必ずしも日本人は声で、西洋人は顔と声で、という明確なコミュニケーションの図式があるとは思えない。だって、日本人として生まれ育ったワタシは自分自身が喜怒哀楽をそのまま顔に出すせいもあってか、相手の表情を見て判断する傾向が強いんだけど、日本人ではないカレシは不思議なことに(特に負の感情があるときに)顔と感情が一致しない傾向が強い。カレシからのコミュニケーションの形だけをみたら、カレシの方がよっぽど日本人なんだけど、相手の顔と感情が一致していないと人の気持を理解できないらしいから、日本向きではないだろうな。まあ、お互いに生まれる場所を間違えただけなのかもしれないけど。
それに、日本人だから誰でも「声色」を読めるというわけでもないと思う。特に日本のような「察する文化」で、目に見える顔の表情よりも耳から入る声色にコミュニケーションの重点が置かれているとしたら、顔に強く影響されてうまく声を聞き分けられないために、心で怒っているのに顔では笑っている相手を誤解したり、理解できずに困惑してしまう人は多いだろうと思う。そういう人たちが声色に敏感な人たちから「空気が読めないやつ」というラベルを貼られてしまうんだろうな。欧米では自閉スペクトラム上にある子供に「相手の表情を読む」訓練をするそうだから、日本の場合は顔の表情は無視して「声色を読み分ける」訓練をしたら、うまく空気を読むのがどうしても苦手で困っている人たちの生きにくさがかなり緩和されるんじゃないかと思うけど。
文化とコミュニケーションの関係を考えたら、表情と感情が一致しなくてもいいというところから、「建て前」と「本音」の使い分けが生まれてきたのかもしれないし、そこから必然的に「表」と「裏」の乖離が生じて来たのかもしれない。隠したがり文化もそのあたりに源流があるのかもしれないし、その下流にもめごとや都合の悪いことを水に流して「なかったこと」にしたがる思考が生まれてきたのかもしれない。だけど、この研究が外国でも発表されたおかげで、欧米人に「そうか、日本人が相手の時は声の調子に注意すればいいんだ」と知られて、本音まで看破されてしまうかもしれないな。これまで「東洋の神秘」と称えられて来た日本人の微笑が、もう神秘でもなんでもなくなってしまうかもしれないなあ。たしかに異文化コミュニケーションは進むかもしれないけど、いいのかなあ・・・。
みんな遺伝子組み換え生物
10月7日。木曜日。どんよりして、寒!カレシは「ボクの週末~」とごきげん。ワタシは、ふむ、週の初めも終わりもなくて、いつも、いつまでも、果てることなく「週」。アナタはご隠居だからそれでいいけど、朝っぱらからゾウアザラシみたいな大あくび。何とかならない、それ?
カウンターの上にきのう開けたチューブ入り和風練りがらしの空き箱がまだあったので、捨てようとして何気なく原材料を見たら、「Corn Oil [genetically modified]」というのがあった。アメリカのトウモロコシ大産地で遺伝子組み換えで害虫に強いトウモロコシの作付けを始めて以来数十億ドル近い経済効果があったというニュースを見たけど、きっとそのトウモロコシが原料のコーン油を使っているんだろう。正直に表示してあってエライじゃないのと日本語表示の方を見たら、あら、「コーン油」とだけ書いてあって、遺伝子組み換え作物だなんておくびにも出していない。この練りがらしは日本の大手メーカーのもので、輸出用らしく箱に印刷された表示は「原材料」以外すべて英語。ふむ、何なんだろうね、この差は。まさか、国内用には遺伝子組み換えをしていないコーン油を使って、輸出用には組み換えしたコーンの油を使っているなんてことはないだろうなあ。そんなことしたら採算取れないよね、まず・・・。
カレシにラベル表示の違いの話をしたら、「日本人はneurotic(神経症)が多いからね。生物の多様性そのものが遺伝子組み換えの結果なんだからどうってことないのにさ」と言う。ふむ、日本人に神経症が多いかどうかは別として、なかなか的を得たことを言っているな。まあ、遺伝子組み換えに反対する人たちは、本来その生物が持っていない(あるべきでない?)遺伝子を組み込むことで、フランケンシュタインの怪物やホラー映画に出てくるキラー植物みたいなのができてしまわないのか、あるいはそれを食べた人間にその異常な遺伝子が伝わってしまわないのかを心配しているんだろうと思うけど、と言ったら、「人間なんか、みんな多かれ少なかれ何かしら異常な遺伝子を持ってるんだよ。そのまま生まれて来ても別に問題が起きないから知らないだけ」と。ふ~ん、そういう人は運が良かったということなのかなあ。
じゃあ、アナタも何か変わった遺伝子を持ってると思う?と聞いたら、「親父とばあちゃんの家系を見ろよ。持ってないわけがないだろ」と来た。そういえば、パパもどこか発達障害じゃないかというところがあった。父方のおばあちゃんにいたっては「?」なエピソードが山ほどあるし、そっちの家系は現代の「カリカック家」みたいなところがある。「だけど、持っていても問題はないみたいだから、ボクたちはラッキーだったんだよ」とカレシ。ふうん。じゃあ、ワタシも何か異常なのを持ってるんだろうねえ。「そうそう。みんなが西へ行くのに間違って東へ行ってしまった方向オンチなケルト人の遺伝子とか・・・」。それはワタシがいつも冗談に言っていることだけど、そこまで遡ってたどって来たら、何が異常で何が正常かなんて、ほんとにもうわからなくなってるよね。「そういうこと」。ふ~ん・・・。
でも、神様は「生めよ、増えよ、地に栄えよ」とあっさりおっしゃるけど、受精に始まって、減数分裂を経て胎児に発達するまでの過程をよく考えてみると、かなりの危険を伴うプロセスだと思う。一生懸命に泳いでやっと卵子に到達した精子は卵子の中へもぐり込まなければならないから、そこで染色体にどんな傷がつくかわからない。受胎に成功したら卵子が分裂して細胞を作って行くわけだけど、父と母の2セットの遺伝子を混ぜ合わせて新しい個体の染色体を作るわけで、長いDNAをくしゃくしゃに丸めたような双方の染色体をくっつけたり、分けたり、配列を変えたり、組み換えしたり。その過程で染色体に乗っかっている何千という遺伝子のどれに何が起きるかわからない。想定外の場所にくっついてしまったり、途中で切れてしまったり、切り離しそこねたりすることがあるだろうし、数が足りなくなったり、多すぎたりすることもある。なにしろ1個の卵子が2個、4個、8個と「分裂」するんだから。
地球上の生命がそういうまるでロシャンルーレットのようなことを何億年も連綿と続けてきのであれば、異常は星の数ほど起きただろうし、何も起こらずにそのまま次の世代にバトンタッチされたもののあるだろうから、子孫代々伝わって来た「異常遺伝子」の数は想像もつかないだろう。たぶんその99%は持っていても支障がないだろうから、何が異常で何が正常かの境界がぼやけて来ても不思議はないと思う。なにしろ人類のゲノムはとてつもない数でとにかく複雑なんだから。そういう意味では、この地球上の命あるものはすべて、その命を授かった瞬間から運まかせの命がけで生きていることになるよね。ウィルスも動物も植物も、人間のワタシもアナタも世界の誰もかも、生きているものはみんな染色体のどこかに何かしらミスがあって、それでも一生懸命に生きているってことだなあ。
ところで、朝ごはんを食べているというのに、練りがらしの原料の話がなんだってこんなかたい話になっちゃうの?ヘンな2人・・・。
言語でたどる祖先の地
10月8日。金曜日。雨模様。この冬はラニーニャの影響で1955年以来の寒さと降雪が予想されているとか。ヨーロッパなどは千年ぶりの厳冬になるそうで、「地球温暖化」なんて誰かの妄想で、ほんとは「氷河時代」の方が来るんじゃないかと思ってしまう。まあ、「地球温暖化」は同義語みたいに使われている「気候変動」とは受ける印象が違うけど、「温室効果ガスのおかげで暑くなる!」と言った方が素人にはわかりやすいと考えたのかな。たしかに平均気温は上昇傾向にあるだろうけど、極端な猛暑だったり、極端な大雨が降ったり、極端な大雪が降ったりは「気候変動」と言う方がわかりやすいような。
ゲートの外にFedExの不在通知がぶら下がっていた。注文してあった「お勉強」のDVD。アメリカに大学教授による講義を商品化して通販している会社があって、2人の「老後プロジェクト」でいろいろと興味のあるテーマのものを買っているんだけど、今回はカレシの希望で音楽鑑賞と音楽の基礎、ロンドンの歴史、ワインの知識の4本。追跡サイトには正午前に配達予定と書いてあったから、不在扱いになるだろうとはわかっていたけど、チェックしてみたら配達時間は午前9時11分と、まだぐ~っすりお休みの時間。通知には翌営業日(火曜日)に再度配達と書いてあるけど、FedExの配送センターが近いからまた早朝に来てしまいそうだな。こっちからピックアップしに行った方が早そうな。
インドの北東部の寒村で「新しい言語」が発見されたというニュース。チベット・ビルマ語族に属するけど、調査の目的だった周辺地域の2つの言語とは語彙も音もまったく違うんだそうな。この「コロ語」を話せる人は800人くらいで、文字がないらしいから、早晩消滅する運命にあるんだろう。何十世代も使われてきたはずの言語を「新しい」というのはなんだかしっくりしないけど、これまで知られていなかったから「新しい」ということか。2人して言語学の講義のDVDをぼちぼちと見ていたところで、ちょうどインド・ヨーロッパ語族の祖先であるインド・ヨーロッパ祖語の発祥地はどこかという話になっていた。おおむね古代の西アジア、あるいは黒海のあたりと考えられているようだけど、その調べ方がおもしろい。
言語のつながりを調べるには共通点に着目するのが普通だと思うけど、ここではまったく共通性のない名詞を調べて「どこから来たのか」を探っている。共通性がないということは、祖語が話されていた土地から移動したグループがそれぞれ新しい土地で遭遇した見慣れないものに独自に言葉をあてて行ったということになるわけで、おもしろい着眼点だと思う。たとえば「椰子の木」を意味する言葉に共通性が見られないから、祖語が話されていた地域には椰子の木はなかった。同様に「樫の木」を意味する言葉にも共通性がないから、樫の木が生えていた場所でもない。こんなふうに消去法で地図を塗りつぶして行ったら、西アジア/黒海・カスピ海のあたりが残るらしい。この手でウラル・アルタイ語族に属すると考えられている(でも系統図には点線で表示されることが多い)日本語のルーツを見つけることができたらおもしろいだろうな。白雪を戴くアルタイ山脈なのか、シベリアはツングースカの森林なのか、それともモンゴルの大平原なのか。う~ん、言語学って実にロマンチック・・・。
この週末、カナダは感謝祭の三連休。日本はハッピーマンデーの三連休。アメリカはコロンブスデイの三連休。み~んな三連休の休みなのに、なぜかワタシは仕事、仕事。なぜかって、日本の金曜日が終わる間際にどたどたっと飛び込んでくる仕事をみ~んな引き受けてしまったから。なにしろまんがチックなイラスト満載で絵本みたいなお子様プロジェクトよりも、まじめにどんなことを研究したとか、法律が、お金がああだこうだというオトナ仕事の方が確実におもしろいもので、ついそっちの方にふらふら。まっ、クライアントからのメールが3日間は静かだと思えばいいかな。さて、遊んでないで、まじめに仕事しようよね。
さあ、ホッケーシーズンの開幕
10月9日。土曜日。起床は午後12時45分。雨模様。三連休はずっと雨の予報で、なんと大雨警報が出ている。メトロバンクーバーの予想雨量は30ミリから50ミリとか。30ミリと50ミリではエライ違いだと思うけど、約3000平方キロもある地域だから、微小気候というのがたくさんあって、ひと口にバンクーバーと言っても同じ日で雨と晴れの違いが出る。これも55年ぶりの厳しい冬の前触れなのかな。
バンクーバーは元々10月から先は「雨期」ということで、来る日も来る日も雨なんてのはちっともめずらしくない。カナダに来て初めての10月はもろに「雨期」という感じで、太陽の顔を拝んだ日があったかどうかも覚えていないくらいによく降った。毎日しょぼしょぼ、ときどき本降り。梅雨を知らない道産子のワタシは「えらいところへ来ちゃったもんだ」と思ったけど、霧に閉ざされて日照の少ない土地の育ちだったせいか、日が差さないことはちっとも苦にならなかったな。少々の雨では傘をささずに歩くというバンクーバーの奇習?を覚えたのも35年前の10月。今では毎日が雨でもそれほどうんざりした気分にはならないし、(あの頃と違って車があるから)しょぼしょぼの降りなら自然に傘なしで出てしまうようになったから、慣れというのは大したもんだ。ま、秋雨じゃ、濡れていこ~と気取るのもおつなもんだけど、30ミリとなると話は別か・・・。
ホッケーのNHLのシーズン開幕で、バンクーバー・カナックスは今夜が初戦。アリーナはスポンサーだったGMが降りて、もう「ガレージ」というニックネームも引退か。新しいスポンサーは通信・ケーブル大手のロジャーズ。マイナーリーグからNHLに昇格して満40周年ということで、試合前に記念イベント。40年前のチームメンバーのうち16人がひとりずつ紹介されてリンクに出てきた。当時は16才だったというパット・クインもいる。初代キャプテンのオーランド・カーテンバックは、カナックスがまだマイナーチームだった時代に本拠のパシフィックコリシアムにもぐり込んで練習を見物していた十代のカレシと悪友仲間の首根っこをつかんで外へ放り出したという人。「あの頃は若かったけど、今でもあんまり変わってないなあ」と感慨深げなカレシ。
NHL入り40周年といえばワタシが来る5年前のこと。よくワンルームのアパートでテレビで試合を見ていた。いや、聞いていたという方が当たっているかな。なにしろ貧乏で、お金のないカレシは友だちがいらないというテレビをもらって来ていた。いらないとうのも当然で、画面は雪がちらちら。必然的に音声が頼りで、今考えると当時ワタシの英語で一番の弱点だったヒアリングの特訓になったのかもしれないなあ。なにしろホッケーのようなスピードのあるスポーツの実況放送はみんなすごい早口だから、画像が頼りにならなければ、ありったけの聴覚神経を集中して聞いていないと何が何だかわからない。ふむ、考えようによってはカナックスのおかげで英語環境に楽々同化できたのかもしれないなあ。
シーズン開幕のイベントのクライマックスは新キャプテンのお披露目。それまでゴールキーパーのルオンゴがやっていたのが(動けないGKには難しい任務ということか)、ユニフォームついていた「C」を返上。誰が後釜になるのか。だいたいのところは前のシーズンでポイント数トップでMVPになったヘンリク・セディンだったけど、ヘンリクはチームメートのダニエル・セディンと一卵性双生児。同じラインでプレーすることが多いから双子特有のESP(があるのかどうか知らないけど)で互いにアシストとしあうんだけど、成績はどちらかというとダニエルの方がやや上だったのが、前シーズンのダニエルは怪我でかなりの試合を欠場。ダニエルなしでリーグMVPになったのはエライということで早くからキャプテン候補と目されていた。お披露目では初代キャプテンのカーテンバックが「C」をつけた新しいユニフォームを持って登場。「ヘンリク・セディン、前へ出てください」のアナウンスでそれまで副キャプテンの「A」をつけていたセディンが進み出て、満員御礼のアリーナの歓声の中でキャプテンのユニフォームに着替え。わりと心憎い演出だな。
これは余談だけど、セディン兄弟はスウェーデン人で、シーズンオフは家族共々スウェーデンに帰って過ごし、キャンプインに合わせてバンクーバーに戻って来る。スウェーデンでは早期から英語教育をしていて、まずみんな英語は「できる」。ドラフト以来もう長いことバンクーバーでプレイしているセディン兄弟もシーズン中はインタビューなんかでも「外国人」を感じさせない英語のしゃべり。ところが、キャンプイン初日のインタビューではなんだか「?」な英語になっていたから驚いた。夏の間ずっとスウェーデン語オンリーだったことは想像に難くないけど、やっぱり第二外国語は何年経ってもしばらく使わないとてきめんにさび付くんだろうな。逆にシーズンが終わってスウェーデンに帰ったばかりの数日はどうだったんだろう。彼らもスウェーデン語が少々おかしいということはなかったんだろうか。生まれ育った母語だって長期間インプットがないと衰退するんだから、一度そのあたりを聞いてみたいなあ。
今シーズンのカナックスはチーム史上最強のラインアップだそうだけど、なんか去年もおととしも、その前もいっつもそういう評価を聞いているような気がするけど、はたして勝ち残って、(6月の終わり近くまで続くから)冗談半分に「シーズン2」と言われるプレーオフ戦を勝ち抜いて、スタンリーカップ決勝まで行けるのなかあ。ま、がんばってよね、キミたち。
今日はパーフェクト10の日
10月10日。日曜日。目が覚めたら実にいい天気。ほんとに大雨が降ったのかなあ。(停電の話をしているから降ったんだろうけど、きっと入り江の向こうだろうな。)まったくの無風状態。気温は平年並みの16度で、まさに連休日和(って言葉があるかどうか知らないけど)。クリスマスシーズンにはまだ早いけど、カナダドルがアメリカドルとほぼ等価なもので、国境にはかなり長い待ち行列ができているらしい。市場規模が10倍もあるアメリカの豊富な品揃えには勝てないもんね。カレシまでが11月いっぱいでお子様プロジェクトが終わったら、12月早々にサンフランシスコまでクリスマスショッピングに行こうと言う。いいなあ。ユニオンスクエアにはメイシーズのクリスマスツリーが飾られているだろうし。行く、ほんとに?
今日は2010年の10月10日で10が3つ。10時を目ざせば4つ。10時10分を目ざせば5つ。果てることなく、
10・・・。そういうのが好きな人は切符を買いに駅まででかけたり、「送信」ボタンの上にカーソルを置いてその瞬間を狙ったりするんだろうな。世界中で結婚式ラッシュだそうだけど、バンクーバー島でもそろって10月10日が誕生日のカップルが今日10時10分に結婚式を挙げるそうで、花嫁の方はお母さんもお兄さんも同じ誕生日だそうな。そういう2人がある日たまたまバーでドンとぶつかったのがきっかけでデートに発展して、「あれ、誕生日が同じ?」ということになったとか。これだけ10が重なったら「They lived happily ever after(2人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ)」というおとぎ話のエンディングになってもらわないとね。
この日はついこないだまで日本では東京オリンピックを記念した「体育の日」だったんだよね。東京オリンピックは日本中が本気で盛り上がっていたような記憶がある。恩恵を受けたのはたぶん東京だけだろうと思うけど、国の首都だから世界への看板的な役割もあるってことだしね。今からもう46年も昔のことで、(たぶん)高校1年生だったワタシがよく覚えているのは期間中「体育」の実技がなかったこと。体育の時間が「オリンピック競技をテレビで見る時間」になって、スタンドに鎮座した14インチくらいのテレビを囲むように体育館の冷たい床に座って、その時間に中継されていた競技を見ていた。ただ座っているだけなのに体育着に着替えさせられたのはご愛嬌だったな。まあ、体育が大嫌いだったワタシは大いにハッピーだったけど。
数字の「10」が重なる日だから、日本ではいろいろとおもしろい「語呂合わせの日」があるだろうと思ってググってみたら、ウィキペディアにずらりとあった。「マグロの日」なんてのがある。726年の10月10日に山部赤人がまぐろ漁を称えた歌を詠んだからだそうで、制定は当然その筋の協同組合。(夕食はまぐろにしようかなあ。)「缶詰の日」というのもある。1877年10月10日に北海道で日本最初の(サケの)缶詰が作られたからだそうで、これも当然その筋の団体が制定。どっちもよくも古い記録を探し出して来たもんだと感心する。「目の愛護デー」は2つの「10」を横倒しにすると眉と目に形になるから。けっこう想像力が豊かだと思うけど、大正時代にできたものらしい。昔の人はかなり素直なユーモアのセンスを持っていたような。
他に「アイメイト・デー」、「貯金箱の日」、「肉だんごの日」、「銭湯の日」、「釣りの日」、「冷凍めんの日」、「転倒防止の日」、「トマトの日」、「お好み焼きの日」。なるほどと思わせる語呂合わせもあるけど、なんだかこじつけっぽいのもある。そういうのは販促狙いのご愛嬌だから、わざわざ突っ込むほどのものでもないか。英語だと10が3つで「テンテンテン」。日本語ではなんというのかな。「ジュージュージュー」とか?なんだかおいしそうな日。まあ、日本全国各地で運動会があって、各種「○○の日」に合わせて肉だんごやお好み焼きやトマトや冷凍めんに舌鼓を打つのが10月10日という日なのかもしれないな。楽しいかもね。ハッピー10・10・10!