らびおがゆく Vol.3

山形県を中心とした演奏活動等

弘前教会

2013年09月23日 23時47分23秒 | 歴史探訪
 先週の旅が思いの外とても楽しくて、今日からまた演奏旅行に出かけなくてはいけないのに先週のお土産を。

 青森県弘前市にある弘前教会に行ってきました。

 説明書きにはこうあります。
「弘前教会は、明治八年(1875)十月、「弘前公会」の名で創設された東北最古のプロテスタント教会です。同年六月、東奥義塾の英語教師ジョン・イングの感化によって十四名の学生が洗礼を受けたことがきっかけとなり、塾長の本多庸一が初代牧師となって出発しました。以来聖書を唯一の基準とする福音主義の立場に立ちつつ、メソジスト派の果敢な伝道精神を受けついで、津軽一円にキリストの愛の教えを広めて来ました。 また弘前学院(聖愛高校)もこの教会から誕生しました。 現在の礼拝堂は明治三十九年(1906)に建てられたもので、弘前教会の長老桜庭駒五郎の説計、名工堀江佐吉の子斉藤伊三郎の施工によるものです。明治の洋風ゴシック式木造建築として極めて貴重な建物です。」

 私は、キリスト教の信者ではございませんが、教会や神社仏閣にゆき、一時静かな気持ちになるのが好きです。

  

 中も撮影許可がありましたので、パチリ。撮影した後ろは畳の部屋でした。

 こういう空気が静かな場所で演奏会やってみたいです。
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蝉丸

2012年06月18日 23時43分33秒 | 歴史探訪
 先日、NHK大河ドラマ「平清盛」について少々書きました。視聴率が落ちている事を話題にしましたが、私はこの30年以上大河ドラマを見ていますが、最高傑作になるのではと思っています。

 何故視聴率が落ちているかの一つに視聴者の知識のなさ(この時代になじみがない)というのもあるでしょう。最近のTVでは、知識のなさ=おばかを売りにしているタレントがもてはやされていて、知識というのは誰でも欲しいものだと思っていた常識を根底から覆された気がしています。ちょいとした知識がないと、そりゃ平安時代の歴史物なんて、楽しめるわけありません。これはクラシック音楽にも少しだけ言えることですが・・・・。対策としては、何も考えずただ接し続けるべしなのだろうと思います。

 最近、高校時代の勉強のし直しというか、サボっていた事~古典に興味がわいてきて、「小倉百人一首」など初歩的なものから少しずつ読んでいます。

 小倉百人一首は、子供の頃カルタとしてではなく、坊主めくりとして、よく遊んでいました。坊主の札が出ると自分の持ち札が無くなるあのゲームです。その図柄の中で「蝉丸」という坊主の図柄が貧しい汚い感じの坊主の絵でしたので、特にみんなに嫌がられたのでした。宇多天皇の皇子敦実親王の雑色、醍醐天皇の第四皇子などと諸伝があって、そのプロフィールは確かなものはないのですが、琵琶の名手だったと伝わっています。

 「これやこの 行くも帰るも 別れたは 知るも知らぬも 逢坂の関」

 ~これがかの有名な逢坂の関だ。旅立つ人も帰ってくる人も、知り合い同士も見知らぬ人も、ここで出会って別れているといわれている。~

 この詩を理解するためには、逢坂の関が日本三大関の中で特に厳しい検問があったり、蝉丸が盲目で人の話し声などの音に敏感だったろうという知識がなければ、雑踏の人々の会話を聞きながら同じような事が繰り返されているのに、時は移ろい、世は変わりゆくという無常観を感じることは難しいのです。実はこの少々面倒くさい解釈に最近はまっているのでした。


 そして、また大河ドラマの話・・・。山形Qメンバーの中島君は日本史ではなく世界史を選択して日本史に興味や知識がないと自分で言っていましたが、先日の平清盛を見て、こんな面白いドラマがあったなんて・・・!と感動していました。彼はもともと国語や社会の先生をやっていて、和歌などの古典の知識があるんですね。だから日本史を知らなくても、その時代背景をよく知っているわけです。最近小倉百人一首にはまっててさぁ~蝉丸の詩に感じ入ったよ・・・えっっっっっ~となんだっけあのあの・・??

 中島君はすらすらと「ああ~これやこの~~~~でしょう??」

 おそれいりました。
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平清盛

2012年06月02日 23時59分13秒 | 歴史探訪
 今年のNHK大河ドラマ「平清盛」が視聴率が落ちて、あ~だこ~だとネット上では批判の記事が多いです。

 私は、録画をしていまして、20回を越えたので、やっと見始めました。

 私、日本の歴史が好きなのですが、特に平安時代から鎌倉時代にいたるあたりが大好きです。ドラマへの批判で登場人物が多すぎて、関係性が分かりづらいというのがありました。天皇家や摂関家、武士も平氏と源氏・・・ほとんどが元々血のつながりが濃くて、何代か遡れば天皇家にゆかりがある人に行き着くので、複雑なのは確かなんですよね。なので、ある程度知識がないと面白くならないんです。幕末のように佐幕派と倒幕派みたいな単純な構図ではないので、いまいちドラマに入ってゆけないのでしょう。

 ほんの少し知識があれば、上のような批判にはならないはずです。

 私は好きで大学受験などで、多少勉強しましたので、むしろこの複雑なストーリーが面白くて、ドラマにのめり込んでしまってます。(まだ5~6回までを見ただけですが)

 NHKの制作の方もへんな声に惑わされずに、自信を持って制作続けてもらいたいと思います。下手に話をいじくりだして、詰まらなくなるのは視聴者として残念ですから。
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小峰城趾

2011年09月14日 23時59分10秒 | 歴史探訪
 ホテルのチェックアウト時間と午後の音楽鑑賞教室の開始時間まで、かなり時間がありましたので、小峰城趾に行って来ました。

 「小峰城趾について
 阿武隈川の南岸に面した小峰ヶ岡と呼ばれる東西に長い独立丘陵(標高370m)を利用して築城された梯郭平山城で、白河城とも呼ばれています。小峰城は、南北朝期の武将である結城親朝によって興国年間(1340~46)に築城されたのが城郭としてのはじまりで、以後白川結城氏の有力な一族である小峰氏の居城でしたが、永世年間(1504~20)頃には白川結城氏の本城となっています。天正十八年(1590)豊臣秀吉による奥州仕置により白川氏が改易となって以後は、会津藩の城代が置かれ、蒲生・上杉両氏の支配下に置かれました。現在にその名残をとどめる近世城郭は、寛永六年から同九年にかけて築城したものです。幕藩体制の確立期において外様大名から江戸城を防備する一環として、奥州の要衝の地である白川に幕府が築城を命じたのでした。 現在、本丸及び二の丸の一部約8万㎡が史跡として指定されていますが、当時の城郭の範囲は東北本線白河駅の南側まで含むもので約60万㎡の規模でした。城郭の縄張りは、丘陵頂上部に本丸とその帯郭を設け、東南に二の丸・三の丸を配し、その周囲には石垣と堀をめぐらし、南に大手門、北に尾廻門(搦目門)、東に横町・田町門、西に道場・会津門が設置されていました。全体にやや不整形な五角形を呈した城郭でした。 平成三年には、三重櫓、同六年には前御門が当時の史料によって史実に木造復元され、往年の威容を偲ばせています。」

 3月の大震災の影響か立ち入り禁止区域が多く残念な思いがしました。

     
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興徳寺(土湯温泉)

2011年09月09日 23時59分19秒 | 歴史探訪
 写真の文章
「興徳寺」のいわれと天地人「直江兼続」との関係
<興徳寺のいわれ>
 興徳寺は建長2年(1250年)、親鸞上人の高弟である性信上人によって開基され、法得寺と号し、真宗本願寺派に属しました。のち、上杉景勝の命をうけ、名将とうたわれた直江兼続が普請奉行となって米沢城に創建した禅林寺の開祖、九山禅師によって元和元年(1615年)に再興され、臨済宗妙心寺派に属し、寺の名前も興徳寺とあらためられました。その後何度か火災にあい、現在の建物は昭和46年(1971年)に再建されました。

<興徳寺と直江兼続との関係>
 直江兼続は、岩城の九山禅師(妙心寺115世の高僧)と宇都宮で知り合い、九山禅師に金を与えて下野足利学校で勉強させていました。兼続の米沢移封から17年目の1618年に、兼続は足利学校で学ばせていた九山禅師を呼び寄せて、後に法泉寺と名を改める禅林寺を創建し、米沢藩士の子弟を教育する学問所「禅林文庫」を開設します。ここにあつめた兼続の蔵書は、今でも貴重な文化財として残っていると言われます。九山禅師は、ここに京都天竜寺の名園をまねて庭園を造っていますが、これを歴代藩主も愛し、上杉鷹山もこの庭園で詩会を催したといわれています。 兼続は、元和元年(1615年)には、土湯に九山禅師の隠居寺となる興徳寺を建立しています。創建当初は法得寺という真宗本願寺派でしたが、途中から臨済宗妙心寺派の興徳寺になりました。九三禅師が興徳寺に隠居してからも、米沢藩主は、禅師の健康を気遣ったという。福島市内のお寺には、景勝の子、上杉定勝が九山禅師の健康を気遣う手紙が残されていると言われています。 兼続は元和5年(1620年)江戸屋敷で病死するが、九山禅師は寛永13年(1636年)ここ土湯の興徳寺で没します。その九山禅師のお墓が、土湯小学校西側の高台に奉られています。

 ~~~~

 タイプの練習になりました。土湯と山形は意外な関係があったのですね。
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聖徳太子堂(土湯温泉)

2011年09月06日 23時59分05秒 | 歴史探訪
 滞在した福島県土湯温泉の街を、早起きして散歩に出かけました。

 神社仏閣などを見つけて、中の空気を吸うのが好きなのですが、福島県土湯温泉に聖徳太子??

 石段を上がり辿り着いたのが、この聖徳太子堂。

 説明板には
「聖徳太子堂の由来
  このお堂の由来は、人皇第34代推古天皇十二年の御代(604年)に、聖徳皇太子が仏法興隆のため、諸国六十余州に国府寺御造立の御本願をもって、近臣等を諸国に派遣されこの東国には奏川勝に命じられ御自作の御尊像をお授けになって遣わされましたが、奏川勝大願成就半ばにして半身痺れの病気にかかり苦しんでいる時に、この御尊像が夢枕に立たれて「信夫郡土湯という所に温泉があり、ここにて湯治せよ病癒ゆべし」とお告げになられたので、奏川勝はこの土地を尋ね、温泉を掘って入浴したところ名湯の効能は著しく、日を重ね月を経て病気も全快いたし、やがてこの地を出立されようとしたときに、霊夢ふたたび現れて「我はこの地に留まりて諸人の病脳苦難を救わん」と告げられましたので、ここに聖徳太子の御尊像をお祀りいたしたものと伝えられております。 現在の御堂は、享保十一年八月(1726)の再建によるもので、安産、育児、学問、また諸職の守護神として尊崇され、毎年旧正月二十一、二十二日の両日にわたって祭典(太子講)が厳修されております。」

 なるほどなるほど!読めば聖徳太子伝説の一つなのかも知れません。今流行りのパワースポットとしても注目をあびているみたいです。

 もう少し石段をのぼると、薬師こけし堂(昭和49年再建)もありました。

     

 御堂の中には、たくさんのこけしが!!街の中にもたくさんのこけしのオブジェがあります。土湯はこけしの街でもあるのですか?知らなかった。
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河井継之助邸趾

2011年06月29日 23時59分58秒 | 歴史探訪
 新潟市での音楽鑑賞教室公演後、長岡に移動しました。駅前は、山形駅前のように歩道橋の大規模な奴~名前知りません~の設置工事で、風景が様変わりしていました。

 毎年のように滞在している長岡では、大学時代の友人にいつも会おうかな?と思いつつも連絡をせずにお酒におぼれる事も多いのですが、ほとんど必ずと言って良いほどにしている事があります。

 幕末、長岡藩の家老だった河井継之助邸趾にある記念館の前に行くことです。

 この記念館が開いている時間に長岡駅前にいることは希ですが、せめてその空気に触れに行こうという気持ちです。

     

 裏の方にも石碑があり、江戸時代の頃とは全く違うでしょうが、河井継之助はこの地に立っていたことがあると思うと、感慨深い気持ちになります。しばらく周りにある設置パネルを閲覧していました。

関連記事
司馬遼太郎「峠」
司馬遼太郎「英雄児」・「人斬り以蔵」
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ブ~ム。

2011年02月08日 23時59分00秒 | 歴史探訪
 この間のNHK大河ドラマで、織田信長が本能寺の変で壮絶な最期を迎えました。織田信長(1534諸説有り~1582)に謀反をした明智光秀(1528?~1582)の軍勢に、天下取り目前で破れてしまうわけです。

 と日本史を語っていると切りがないので、我が家の最近のブ~ムをお教えします。

 テレビのデジタル化に伴って、我が家でもBSを視聴できる契約に切り替えました。そこで、昔ながらの時代劇の再放送が毎日のようにされているのに気づいてしまったのです。

 「剣客商売」「必殺仕事人」「破れ奉行」「大岡越前」「水戸黄門」「鬼平犯科帳」「大江戸捜査網」「銭形平次」「旅がらす事件帖」「眠狂四郎」「名奉行! 大岡越前」「世直し順庵!人情剣」などなど毎日のように何かしらの再放送があるので録画して見ているのです。

 私が子供の頃学校から帰って来るとちょうど夕方頃に再放送していた番組も中にはあり、懐かしい俳優たちの活躍も見る事が出来て興味が尽きません。子供の頃理解出来なかった内容も今ではだいたい理解出来るので、現在の方が面白く感じます。

 最初、藤田まことさんの追っかけのように家の奥さんが録画するようになったのですが、日本の歴史に疎い彼女からの質問攻めには多少閉口するところがあります。ドラマに集中したいのだけれど・・・・・。娯楽時代劇と云えども、多少の歴史知識が必要なのかも知れませんね。私は高校の頃日本史を勉強しましたので、常識のように知っていることでも地理や世界史を選択していた奥さんには、なんでここでこの人が腹を切っているの?とか、南町奉行と北町奉行と火盗改の違いは何なの?江戸時代の警察?と毎日のようにきかれてます。

 彼女からの質問攻めに、一度高校の時の歴史教科書を読んだ方が良いよ~俺の説明も間違っているかも知れないからさ。と少々五月蠅く感じてきましたので、冷たい返事をしています。笑。
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写真整理 2

2010年12月09日 23時52分28秒 | 歴史探訪
 岐阜県多治見市にある臨済宗南禅寺派の寺院~虎渓山永保寺。

 上の写真は、観音堂。

 2006年10月に行った時は、寺院の所々で工事をしていました。

       

 無料で見学できて、空気も澄みなかなか落ち着く場所でしたよ。

     
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写真整理

2010年12月08日 23時59分05秒 | 歴史探訪
 ハードディスクに残ってた写真を整理している話は以前書きました。

 上は岐阜県郡上市八幡町にある郡上八幡城です。

 そして、
      

 この写真はどこだっけな・・・・・。

 愛知県西尾市にある西尾城だったっけかな・・・・・・??
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京都その他

2010年10月22日 23時58分16秒 | 歴史探訪
 京都へは仕事のために行っているので、観光をするためには時間が限られていました。午前中から京都駅を出発して午後一番で音楽鑑賞教室を行い、夕方に京都駅に戻るまでは、もちろん仕事です。なので観光をしたいなら早朝か夕方以降になります。

 行きたい場所をピックアップしても、拝観時間にも限りがありますので場所に行ったけど入場出来なかった場所が何ヶ所かありました。しかし、せっかく行ったので、外からその雰囲気だけでも楽しむために写真を結構な枚数撮ってきました。

 そのいくつか記事にします。まずは二条城。

     

 案内板の文
「堀川通りの西、押小路通北側の中京区二条城町に所在しています。徳川家康によって築造された城郭であり、慶長八年(1603)には、完成し、その年に征夷大将軍に任じられた家康が入城しています。敷地には、平安宮の一部や神泉苑の北部を取り込み、26万平方メートル余りの広大なものです。 江戸時代を通じて、公武合体の儀礼の場として江戸幕府が使用していますが、慶応三年(1867)には、第15代将軍徳川慶喜による大政奉還に伴い天皇家に帰し、明治元年(1868)には太政官代と成りました。その後京都府庁舎や裁判所として使用された後、宮内省管理に戻り二条離宮と改称されました。大正四年(1915)に天皇即位礼に用いられた後、昭和十四年(1939)には京都市に移管され、史跡二条離宮となり現在に至っています。 地下鉄東西線建設に伴う発掘調査では、江戸時代から近世にかけての、二条城の堀の南側柵列およびその南側で白砂の敷かれた押小路通路面や同通北側溝など遺構を発見しています。これらの発掘調査結果から、江戸時代の二条城周辺は、城と共に現在にもまして美しく管理されていた地域であったものと見られます。」

 残念ながら二条城の門内には入れる時間ではありませんでした。

 そして東寺。

     

 毎日のようにバスの中から見ていたのですが、結局見学には行かずじまい・・・・・・。

 毎日、西本願寺に見学に行くのがせめてもの、心の落ち着きに役立ちましたとさ・・・・。
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2010年10月20日 23時50分55秒 | 歴史探訪
 さすが京都。

 少し歩けば、こういう場所にぶち当たります。

     

 歴史がすぐそばにある街ですね。

     
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西本願寺

2010年10月19日 23時58分15秒 | 歴史探訪
 滞在ホテルの近く西本願寺へ。

 案内板の文
「本願寺は、すべてのものが阿弥陀如来の本願によって救われる念仏の教えを説く、宗祖(親鸞聖人)によって開かれた浄土真宗本願寺の本山で、通称(西本願寺)と言われています。 当初、本願寺は親鸞聖人の廟所(墓地)のあった京都東山の大谷に創建されました。その後、山科、大坂(大阪)など各地に寺地を移しましたが、天正十九年(1591)豊臣秀吉によりこの地の寄進を受け、現在に至っています。 伽藍は移転後直ちに整備され、寛永十年(1633)頃には、ほぼ今日に近い姿となりました。御影堂や阿弥陀堂(本堂)はともに重要文化財に指定され、世界最大級の木造建築です。 その他、境内には、安土桃山時代から江戸時代前半(16世紀後半から17世紀前半)頃の文化を代表する飛雲閣や唐門、対面所白書院などの国宝や、数々の重要文化財、特別名勝の虎渓の庭などが今日まで多く遺されています。 平成六年(1994)十二月には、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された(世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約~世界遺産条約)に基づき、世界文化遺産に登録されました。」

     

 境内は、想像を絶する広さで澄んだ空気に満ちていました。朝一で人が少ない時に歩きたいものです。

 しばらく歩くと唐門(国宝)

     

 さすが京都。歴史遺産の規模が違います。

     
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清水寺

2010年10月18日 23時51分50秒 | 歴史探訪
 本日の音楽鑑賞教室後、校長先生に道順を教えてもらい清水寺まで歩いてゆきました。

 中学校の修学旅行の時に班の行動計画の中で「清水寺」を入れたものの、街で遊んでいた私達は清水寺へ行きませんでした。なので、清水寺へは人生初訪問です。

ウィキペディアによる清水寺の項目
清水寺

     

 さすがに有名な観光地な為に、修学旅行の団体や外国人観光客が多く見られます。拝観料300円を払った所からは、さらに人が混雑して、携帯電話カメラやデジカメを構える人々がたくさんいました。

     

 国宝に選ばれるだけあって、歴史も感じられますし威厳がある建物には圧倒させられます。

     

 本番後に何キロも歩いて来た後に山登りして、素晴らしい風景を見たものの・・・。

 結局疲れて、一休み。

 甘酒・名物みたらし団子を食べました。

     
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千秋公園 後編

2010年09月23日 23時52分29秒 | 歴史探訪
 昨日のつづき・・・・。

「近代秋田を開いた秋田藩最後の第十二代藩主佐竹義堯公を敬慕する旧家臣が中心となり、戊辰の役後50年にあたる大正四年(1915)公の銅像をここに建立した。 遺憾ながらこの銅像は太平洋戦争のさなか、国の金属回収策のためその姿を消してしまった。 市民有志はこれを惜しみ、昭和二十八年(1953)旧銅像の原型として残されていた小型像を奉安してわずかに往事を偲んでいた。 このたび市政百周年(1989)を迎え、その記念事業として完全なる姿で往年の義堯公銅像に復元したものである。」

 公園の坂道を上がってゆくと、再建された鉄筋コンクリート造りのお城がありました。

     

 せっかく旅行が多い仕事なのですから、城巡りでも趣味にしようかなと思い直しました。
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